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笑顔

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  上級のアンチマジックポーションを作ることになったリンカは、リュックに入れていた敷物の上に素材を広げた。

  リンカがこの世界で暮らした約一年、生まれ育った世界とは比べ物にならない原始的な生活の苦労のあとが、その小さな手にも色濃く残っている。

  擦り傷だらけの指にすり潰した薬草の色が染み込み、短く整えていた髪も伸びて、人生初のポニーテールがすっかり馴染んでしまっていたことなどだ。

  そんな一年で身に付けたポーションを作る技術によって、リンカは今日採取した素材を手早く処理すると、すでに用意していた物と合わせて段取りよく調合を進めていく。そのあいだラドルはポケットに手を突っ込んで、霊樹アサテロに寄りかかりながらリンカを見ていた。

(オレがもう少し注意深くあいつのことを見ていれば)

  ヤルキーに対する後悔がぐるぐると巡る意識の中で、ポケットに突っこむ手がずっとなにかをシャラシャラと弄んでいたことに気が付いた。

  遠くで鳴く動物の声と山のせせらぎ、そして自然が作り出す無音の騒めき以外の不自然な音が、ようやく耳障りに脳を刺激する。

  そのシャラシャラという金属の擦れる音が、脳の奥の紙ほどもない仕切りの向こうにある記憶を明確にし始める。妙に気になりポケットから取り出してそれを見た彼は、意識と無意識の狭間から飛び出した。

  ラドルの意識の変化によって発せられたなにかに、山の動物が反応して騒がしく逃げる声が響く。その変化にリンカは驚いて作りかけのポーションを取りこぼしそうになる。

  リンカの横で見張りをしていたシンも、自動防御のスキルが発動して意図せず警戒態勢に移行。腰の剣に手を添えて構え、ラドルに向き直った。

「おい、女!」

  緊張しながらラドルを見るリンカは、その手に持って見せる物に視線をフォーカスする。

「ネックレス……ですか?」

「そうだ、ヤルキージュエルだ」

  極めて稚拙なネーミングのネックレスは、魔光紅石まこうこうせきという比較的珍しい石の欠片が鎖に繋がれているだけの粗雑な作りではあるのだが、どこかその粗さが味を出していた。

  それはギルドで初めてヤルキーと会ったとき、新人冒険者のラドルにお守りとして渡されたネックレスだった。

「これにそいつの魔力が染み込んでいる」

  未加工の鉱石表面が木々の隙間から降り注ぐ陽光を受けて部分的にキラキラと輝く。その小さな輝きがヤルキーの生命力に思えてラドルは鎖を強く握っていた。

「ホントですか? それならその人の魔力に干渉しないポーションが作れます」

  リンカはネックレスを受け取るとすぐにポーションの生成を再開。すべての準備を終えてネックレスとポーションを握り強く念じた。その念に込められた術式に従い、ヤルキーの魔力の波動がポーションに記憶されていく。

  ポーションから一瞬の魔力光が発せられ、その色が深緑から薄い紫に変色した。

「完成です!」

  額に大量の汗をかいているリンカが、ネックレスと一緒にポーションを差し出す。

『渾身』

  ラドルの心にこの言葉が浮かんだ。

  そのポーションは彼女の力と思いが込められているとラドルは受け止める。

「恩に着る」

  ポーションを受け取ったラドルは「料金はあとで必ず払いに行く」と告げて飛び去った。

  一見ぶっきら棒な言葉にこもった『感謝』の思いはリンカの胸に届き、これまでのようにラドルに感じていた不可解な恐怖はすでにない。

「ちっ、あの野郎。勝手にドタバタと」

  シンはラドルの思うとおりに事が運んでしまったことが少し気に入らず文句を言いつつ見上げている。

  毒づく彼の後ろで敷物の上に倒れたリンカだったが、その表情は笑顔。この世界にやってきてからしばらく見せなかった感情が現れていた。

  その笑顔は、初めて作った精清水で村人が元気になったのを見たときと同じだった。
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