操り人形の外の世界

冠つらら

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44.笑顔の秘訣

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 ベラとエレノアが私の隠し事について口に出してから数日後、私はベラのお家にお邪魔していた。ベラの家は街の中心に近いところにある七階建ての建物の最上階にある。広々としたリビングに入ると、ベラのお母様のお気に入りだという動物の模様の絨毯が私たちを迎えてくれた。

 床の鹿と目が合って、私は隣のエレノアを丸い目をしたまま見やる。エレノアはリビングで存在感を欲しいままにしている派手な絨毯の柄と私を交互に見て、くすっと可憐に笑った。
 手に持った大きめの鞄に気がついたメイドさんが私たちの有無を言わさずむんずとそれを掴むと、廊下の向こうに見えるベラの部屋まで運んで行ってしまった。

 彼女と出会ったのはこれが初めてだけれど、その腕とふくらはぎを一目見ただけで、彼女が日々鍛えているということがすぐに分かる。
 ケリーとは雰囲気が大違いの、いまにもバチンと拳をぶつけてきそうなその気迫に圧倒されている私に対して、ベラが紅茶を飲むかと聞いてきた。
 上の空で頷くと、ベラはそそくさとキッチンへと向かう。残された私とエレノアは、とりあえずソファに腰を掛けてみる。
 低くなった視線の先に見えるのは、ベラの家族写真だ。壁に飾られているそれらの思い出を順番に見ていくと、無邪気に笑う幼いベラが今と全く変わらないことに気づいた。

「ベラ、昔からよく笑う子なのね」

 思わず感想が漏れると、エレノアも小さく頷く。

「ええ、とても良いご家族みたい……」

 感慨深く呟くエレノアは、きっと自分の家族写真を思い浮かべている。ベラの家族写真は、きちんと写真館で撮ったものもあるけれど、ほとんどがおどけた表情をして、不意に撮られたようなものばかりだ。

「お父さんが写真好きなの」

 紅茶を運んできたベラが私たちが夢中になっているものに気づいて恥ずかしそうに笑う。

「なんか、そう、しっかり見られると、恥ずかしいなぁ」

 ちらりと舌を出して、ベラは頭を掻く。

「そうかしら? すごく羨ましいわ」

 エレノアの微笑みに、ベラは少し申し訳なさそうに眉を下げる。彼女もまた、エレノアの家族の事情を思い浮かべたのだろう。

「どの写真もベラすごく楽しそう」
「ふふ。それは間違いじゃないかな」

 紅茶にミルクを入れたベラはふくふくとした頬を緩ませる。

「私もベラの笑っているところを見ると元気出るもの。ベラの笑顔には力があるわ」
「そう言ってもらえて嬉しいな。私も、笑うのって大好き。気づいたら笑っちゃってて、ふざけてるな、って言われても、何も思わなくて。私、笑うことってずっと当たり前だと思ってた。ずっとそうやって、笑うことに慣れていたから、その良さってものも忘れてたんだけどね」

 エレノアの自然な言葉を聞いたベラは遠い目をしてある日を懐かしむように鼻から息を吐いた。

「あら? 何か意味深ね」

 エレノアの興味を誘ったその声は、「えへへ」と形を変える。

「うん。前にね、怖い夢を見たの。私、全然笑えなくなっちゃう夢。どうして笑えないのか、最初は分からなかった。けど気づいたの。夢を見ているうちに、そこにいる私は私じゃないんだって、息が止まりそうだったの」
「……なぁに? それ」

 夢という単語に私はわざとらしく首を傾げる。声は冷静を装っていたけれど、内心緊張してたまらなかった。前に聞いたニアの夢。操られていた彼は、失われた現実を覚えていた。今、目の前で寂しそうな目をしているベラもきっと……。

「エレノアと一緒にいて、すごく楽しいはずなのに。それなのに、エレノアも皆も私のこと見ていなくて、私はそこに存在しないんじゃないかってくらい、会話をしていても、心はこっちを見ていなかったの。私が何か話しても、水中で話しているみたいに誰にも何も聞こえていなくて。ただただ、息が詰まりそうになりながら、それでもその場所で毎日を過ごさなくちゃいけなくて。私の意思なんてすっかり消えちゃって、夢も目的も忘れちゃうの。そうしたら、前は当たり前にできてた笑顔ができなくなっちゃった。笑うことを忘れたの。それが、前に見た夢」

 瞳から光が薄れていくベラの表情は嘘じゃない。ベラを庭園で見かけた日を思い返す。あの怯えた表情。
 彼女が生きたそれも現実だ。
 あるはずのなかった、悪夢の時間。
 やっぱり彼女も覚えていた。ニアと同じく、あの日々が夢となって記憶の底にこびりついている。

「だから夢から覚めた時、すごく嬉しかった。それからね、毎日が余計に愛おしくなって、ロミィとも友達になれて……! 空を飛ぶ鳥みたいに、自由だーって、この日々を楽しまなきゃ損だって思うようになったの。うん、そう思っちゃうのが私だなって、ようやく自分に帰ってこれた気がした」

 ベラの瞳に輝きが戻る。

「重荷って言うの? そういうものが肩から全部下りていった気分。寝て、起きただけでそんな風に思えちゃうの、不思議だよね。夢ってすごいなぁ……」
「……ええ、そうね。夢は、すごい力を持っているのね」
「ね! ロミィもそう思う? だからね、なんでも素直に、全力で楽しまないとって思っているの。プロムだって、気が抜けないのは当然でしょう?」
「ふふふふ。ええ、分かるわ。ベラの張り切りも当然ね」
「もう! まだ私の情熱に追いついてないなぁ?」

 からかっているわけではなかったけれど、ベラにはきっとそう聞こえた。だからベラは頬を小さく膨らませて、未だジュニアプロムに対して冷静な私を窘めるように見る。
 ジュニアプロムは私だって楽しみだ。けれどまだ課題が残っているから、ベラほどに意識を向けることは出来ていない。それは、彼女に対して少し申し訳ない。

 でも、時期が来たら、きっと誰よりもプロムに緊張しているはず。だから今は許して欲しい。
 そんなことを思いながら、すっかり黙ってしまったエレノアをちらりと見る。
 紅茶の水面を見つめたまま、彼女は何かを考えているように見えた。もしかしたらエレノアの悪夢のことかもしれない。オルメアのヒロイン役を演じた彼女にとっての悪夢は何だったのだろう。
 ついそれが気になってしまい、私が口を開こうとしたところでベラが手を叩く。

「さぁさ! 早く部屋行って寛ごうよー。エレノアの話もあとでゆっくり聞いちゃうからね」

 威勢のいい音に目が覚めた私は、ベラに続いて立ち上がる。
 そうだ。
 私たちは今日、ベラの家にお泊りに来たのだ。
 エレノアのルージーに関する話を相談という体で聞きたくて、どうせだからとお泊り会をすることにした。

 もちろん、二人と同じ部屋で寝るのなんてこれまでなかった。
 まぁ、前に車でベラが寝ていたことはあったけれど。
 とにかく、私は少し興奮している。
 ベラの悪夢の話を聞けるなんて思っていなかったし、もしかしたら、エレノアのあの時の本心が聞けるかもしれない。
 それはきっと、無意識のうちに気にしていたものだから。

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