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⑤【オタクたちの遠征:夢】【似てない兄妹:ぬいぐるみ】

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【オタクたちの遠征:夢】

 『──なお、運航再開見込みについても今後の天候次第ではまた変更が生じる場合がございます』

 無情なアナウンスが頭上を走っていく。
 声の主が見えるわけでもないのに、正澄は黒目だけを天井に向ける。神経をすべてアナウンスに集中させているせいか、無意識のうちに彼の口はぽかんと開かれていった。

「あー! どうか! どうか奇跡が起きますよーに!」

 その隣では、友人である成谷が両手を合わせて必死に願いを請うていた。

「俺が講義をサボったツケがここにくるなんてあんまりすぎるぜ。神様、俺が何をしたって言うんだ!」
「いま自分で講義サボったって言ったろ」

 成谷の痛々しい叫び声を聞いた哉太が呆れたように顔だけで彼の方を振り返る。

「Mon Dieu, s'il te plaît, sauve cet idiot」
「今のはよく分かんないけど分かった気がする。ももちゃん、俺のこと馬鹿って言ってない?」
「Non. Je ne suis pas sûr」

 成谷は自らの顔を指差し、隣に座る百華に対して一言申す。だが相変わらず語学学習に夢中な百華は彼の方を一瞥することもなく首を横に振るだけだった。

「でも、百華はフランス語のことずっと勉強してるよな。どこかの成谷とは違って勉強熱心でいいことだ」
「悪かったって。ほんと、今度のライブは俺がチケット代奢るからさ」

 哉太のふざけ調子に成谷は申し訳なさそうに眉尻を下げて元気なく笑う。

「でもなんで百華ちゃんはそんなにフランス語勉強してるの? 学部は語学系とかじゃなかったよな」

 ふとした疑問を口にした正澄はそれぞれが通う学校とその専攻を思い返す。ここに集う五人は皆大学生だが、同じ大学に通う圭人と哉太以外の学び舎はばらばらだ。

「百華ちゃんって……法学部、だったよな?」
「そうだよ」

 正澄の記憶の答え合わせをしてくれたのは成谷だった。続けて彼は百華の真剣な表情を横目で見やってから仲間たちの方を向く。

「前にダッパーのミュージックビデオでパリで撮影したやつがあっただろ? それでももちゃん、その聖地巡礼をするんだって意気込んでるんだって」
「なるほどな。いつか行くパリのために勉強してるってことか」
「そ。聖地巡礼の夢の旅ってわけ」

 哉太が感心したように頷くのを見て成谷は本人になりきったつもりで得意気に笑ってみせた。

「夢のためかぁ。なんかいい響きだなぁ」

 正澄はずっと同じ体勢をしていて固まりかけていた身体をぐっと伸ばしてふやけた声を出す。

「お前ら夢とかある? 俺はね……なんだろうな、資産家?」
「資産家かよ。分かるけどなんか夢のない夢だな、正澄」
「やっぱ持つべきものは友と金だろ。だから俺は資産家を目指す。そうすればダッパーのライブ全通だって夢じゃないし。そう言う哉太はどうなん?」
「俺? 俺は夢とか考えたことないかも。強いて言えば──うーん……ない」
「あらっ、なんだお前の方が夢ないじゃねぇか」

 少し考えてから呆気ない答えを出した哉太の肩を軽く叩き、正澄はけらけらと笑いだす。

「百華ちゃんは聖地巡礼、哉太はなし、成谷は?」

 続けて正澄は百華のスマートフォン画面をのぞき込んでいた成谷に訊ねる。

「とりあえずのところは進級」
「ちっさ」

 あまりにも現実的すぎる望みに正澄と哉太の反応が重なった。

「笑うなって! ま、夢なんてまだまだこれからいくらでも湧いてくるだろ。それこそダッパーのライブももっと通いたいし、来年の周年ライブでは絶対に遅刻なんかしない余裕を手に入れてやる。これでどうだ!」
「いやそんな得意気に言われても……」

 えへんと偉そうに腕を組む成谷に正澄と哉太は目を見合わせて困惑する。

「──ま、じゃあ成谷はそうとして……圭人、お前はどうだ」

 二人からの盛大な反応を待ち構えている成谷をよそ目に正澄は一人吹雪に目を向けていた圭人に声をかける。自分の番が終わったことを認識した成谷がしょんぼりと寂しそうな顔をしたので哉太は彼の肩を優しく撫でて微かに笑いかけた。
 これまでしばらくの間黙っていた圭人は突然のフリに目を丸める。

「え──? 俺?」
「そうそう。この中だと圭人の夢が一番期待できるな。お前頭もいいし、なんにでもなれそう」
「いや買い被りすぎ」

 正澄の言葉に圭人が苦笑すると成谷がぐっと身を乗り出して首を横に振る。

「いやいやいや! 圭人、遠慮することないって。この中で将来性があるのは圭人とももちゃんくらいなんだから。そうだよな正澄?」
「分かるけど。それ自分で言ってて悲しくない?」
「そりゃそうだけど、でも実際そうだし」
「まぁ異論はない。俺たち凡人も頑張ってはいるんだけどなぁー」
「そもそも土台が違うからさ。見える世界も変わるよな」
「二人とも悲観しすぎじゃね? ってか正澄はそんなんで資産家になれるのかよ」
「なんだよ哉太、凡人だって成り上がれますぅー」
「成り上がれるけど、正澄はどうかな」
「ちょっと、君たち俺にもっと優しくしてくれない?」

 成谷と哉太の二人に揶揄され、正澄は自らの胸を抑えて悲劇的な反応をしてみせる。だがその表情には笑みが浮かび、この状況を楽しんでいることが見て取れる。
 そんな三人のやり取りをじっと黙って見ていた圭人はもう一度吹雪を一瞥した後ですぅ、と小さく息を吸い込んだ。

「もうすぐ俺は死ぬ」
「──ハ?」

 静かながらも凛とした声は騒がしい空間にもよく通った。
 圭人の突然の発言に三人は声を揃えて彼の方を一斉に見る。ちょうど語学学習アプリで百華が正解を出したらしく、ピコン、という軽快な音のみが五人の間に響いた。

「え……? なんて言った……?」

 こわごわとした声は微かに震えていた。久しぶりに聞いた百華の日本語には驚嘆が潜み、圭人を見る彼女の澄んだ瞳は瞳孔が開き一回り以上大きくなっている。

「いつ言おうかと思ってたがちょうどいいから今ここで言う。俺、心臓が悪くて。俺の余命はもう長くはないと医者に言われてる。だから敢えて言えば俺の夢は今回のライブだったのかもしれない。記念の周年ライブってこともあるけど俺にとっては最後のライブになるかもしれないから。このライブに皆で行くのが楽しみだったんだ。皆と、最後のライブを見届けたかった──雪は、どうしようもないけど」

 百華の切実な瞳と目を合わせ、次に皆の顔を一人ずつ見ながら圭人はあっさりと自らの秘密を告白した。苦悩を滲ませるどころか、彼の声色は凛々しくも聞こえた。
 圭人の誠実な眼差しに仲間たちは言葉を失い、動揺のみが彼らの表情を曇らせていく。と、ゴトンと音がしたかと思えば、スマートフォンを床に落とした百華が口を開く。

「うそ────」
「あっ……ももちゃん!」

 一言、吐息に似た声を漏らした百華はそのままスマートフォンを拾うこともなくどこかへ駆け出してしまった。慌てて立ち上がった成谷がその背中を追いかける。正澄は戸惑いを隠せぬまま遠のく二人の背中と目の前の圭人を交互に見やることしかできず、哉太はただひたすらに圭人の落ち着いた瞳を瞬きもせずに見つめていた。



 「ももちゃん‼」

 ようやく走ることを止めた彼女に追いついた成谷は息を切らしながら必死に彼女の名前を呼ぶ。
 そんな彼の姿が鏡越しに見え、百華は蛇口から出てきた水に手を当てて眉をしかめる。

「成谷くん、ここ女子トイレだよ?」
「え……マジ?」
「そうだよ」
「やっば……ももちゃんのことしか見てなかったから気づかなかった」
「ばか」

 周囲を見回して青ざめていく成谷の顔を鏡越しに確認しつつ百華はバシャバシャと勢いよく手に水を溜めて顔を洗っていく。個室の扉が閉まってはいるものの、ちょうど二人のほかに使用者の姿は見えない。そのおかげで成谷の焦りも徐々に緩和されていった。

「胸打たれる言葉だけどこのシチュエーションでは言われたくなかったかな」
「ごめん……あ、ももちゃん、タオル」
「────ありがとう」

 びしょ濡れになった顔を服の袖で拭おうとする百華にタオルを差し出し、成谷は真っ赤になった彼女の目元に視線を向ける。

「ももちゃん、泣いてるの?」
「当たり前でしょ……」

 ぐすっと鼻をすすりながら百華は成谷に顔が見えないように背を向けた。が、鏡に映る彼女の表情は悲痛そのものだった。直前の仲間の告白にショックを受けていることは明白だ。

「……ももちゃん、圭人のこと、好きなの──?」

 成谷の静かな問いに百華はぐっと口内を噛みしめた。

「無神経。ふつう、そんな直球で訊く?」
「ごめん。でも……ももちゃん、すごく悲しそうだから」
「圭人くんは、大事な仲間だもん。そりゃ、哀しいでしょ」

 百華はタオルから顔を上げてふぅ、と呼吸を整えどうにか冷静さを装った。

「成谷くんは違うの? 圭人くんの話……いやだって、思わないの?」
「──うん。分かるよ。俺だって圭人のこと好きだから。あいつ、ほんといい奴だし。正直まだ信じられない、受け入れられてないってのが本音」
「…………うん」

 落ち着いたはずの百華の呼吸が再び乱れだした。百華の目に再び涙が浮かび始めたのを見た成谷は彼女の頭をそっと撫でる。

「ばか。こういう時は抱きしめてよ。泣き顔なんて見られたくない」
「ごめん」

 成谷の胸に額をぶつけた百華はそのまま静かに泣き続ける。成谷は行き場を失った両手を空気に泳がせ、結果、片手だけを彼女の肩に添えた。

「そう。私、圭人くんのこと好きだったよ」
「──そっか。うん、そうだよね。辛いよね……」
「でも一番つらいのは圭人くんだと思うから。だから、圭人くんの前では泣きたくないの。私たちが落ち込んでたら、きっとだめなの」

 百華のぼろぼろの声が胸元でくぐもり、成谷は空いていたもう片方の手で彼女の背中を撫でる。できれば彼女の苦しそうな呼吸を落ち着かせたかったのだ。
 詰まる息とは反面に自らを律する彼女の気丈な振る舞いはあまりにも痛々しい。
 しかし一方で、成谷には女性用トイレという自分には異質な空間に滞在し続けることに対する罪悪感もあった。ここに誰かが入ってきたら何と思われるだろうか。妙な緊張がぶり返し、百華の息遣いを直で感じる彼の心臓は殊更に激しく鼓動を打ち始める。



【似てない兄妹:ぬいぐるみ】

 保安検査場の外に戻れば、待機空間よりも自由が待っている。が、同時に動き回る人の数も膨大で、どちらにせよ騒がしいことに変わりはない。しかし自由度が高い分、ずっと中に籠っているよりも良い。
 もう一度保安検査を受けるのは面倒ではあるが、先に旅先に着いている両親に大体の荷物を一緒に運んでもらえたおかげで手荷物は最低限のものしかない。どうせそこまで手間もないのだ。ならばこちらに出る選択は正しかった。
 そう思った汐音は何か暇をつぶせることはないかときょろきょろ視線を散らす。
 この空港には何度も来たことがあるせいで大抵の施設は行き尽くしてしまっている。せっかく謝礼を貰える機会も得たところだ。あまり無駄遣いもしたくない。とすれば、結局のところぶらぶら歩くか、どこかのカフェで休むくらいが限界か。
 上着のポケットに両手を突っ込んだまま、身軽な汐音は人の流れに逆らって歩いていく。このまま真っ直ぐに進めば国際線の到着口に行き当たる。飛行機が飛んでいない今、もしやそちらの方が人も少なく落ち着けるかもしれない。
 特段喧騒が嫌いなわけではない。けれど生徒がいなくなった校舎と同じ感覚で、なんとなく、人の気配が少ない空間というのはどこか冒険心を煽られて仕方がないのだ。
 目的地を頭に描き、国内線ターミナルビルと国際線ターミナルビルを結ぶ連絡施設を迷いなく行く汐音の視界にいくつかの動物たちが入ってくる。

「シュタイフか」

 連絡施設を結ぶ大きな通路の両側に展示された数々の動物のぬいぐみたちを見つめ、汐音はぼそりと呟いた。シュタイフディスカバリーミュージアムと呼ばれるこの場所は、その名の通りテディベアで有名なシュタイフ社のぬいぐるみが展開されている。歩いているだけでも無料で鑑賞できてしまうためいつもぼんやりとしか見ていなかった。が、時間を持て余した環境でまじまじと観察してみると、通路に配置された動物たちはどうにもシュールな感じがしなくもない。
 とはいえ楽しそうに写真を撮っている人たちを見れば、一見すると不思議な光景でも遊び心があって悪くはないものだと思えてくる。
 汐音も妹の香凜に付き合ってぬいぐるみ遊びをした過去があった。彼女は特に動物のぬいぐるみが好きだった。いつだったか、父と行ったゲームセンターで初めて取れたぬいぐるみを妹にあげたとき、えらく喜んでいたことを未だに覚えている。
 だからこそぬいぐるみのもつセラピー能力の高さや愛おしさも理解はできる。
 今は妹も趣味が変わってもうぬいぐるみ遊びをしてはいない。けれど、少しだけ懐かしい気持ちが蘇ってきた汐音の表情が僅かに綻んでいった。
 まさしくここは欠航が続く混沌とした空港内では貴重な癒しのスポットだ。
 汐音がそんな感慨にふけっていると、大きなぬいぐるみと一緒に撮影ができるエリアで一箇所だけ異様な雰囲気を放っている場所があることに気づく。
 ちょうど白熊のぬいぐるみと写真を撮れる撮影スポットなのだが、一組の親子が困惑した様子で立ちすくんでいるのだ。

「どうかされましたか」

 白熊をじっと見つめたまま寂しそうな顔をしている小さな女の子のことが気になり、汐音は思わず彼女の母親に声をかけた。すると。

「あ……あそこで写真を撮りたいのですが、ちょっと、今は難しそうで……」
「へ? なんで──」

 母親のおどおどとした様子に汐音が首を傾げると、ちょうど白熊の後方から女の泣き叫ぶような声が聞こえてきた。

「待って……‼ 待って、待って陽彩くん! ちゃんと……っ、ちゃんと帰るからっ! ね? お願い、許して、怒らないで。あやまる。あやまるからっ。ごめんなさい……──そんなこと言わないで、ごめ……あ、陽彩く……あっ、切らないで──だめっ、ま──っ」

 癒しの空間には似つかわしくない甲高い絶叫が響き、周囲でぬいぐるみを見ていた人たちもざわざわと不穏な空気を滲ませていく。
 よくよく見れば、大きな白熊のぬいぐるみの背後に隠れてしゃがみこんでいるピンク色のコートの若い女の姿がある。
 彼女は自分があらぬ注目を浴びていることなど露知らず、スマートフォンを耳に押し当てたまま声を荒げ続けていた。
 後ろを向いている彼女の表情を見ることはできないが、声だけで伝わるその剣幕にこの親子が戸惑うのも無理はない。
 余計な面倒に首を突っ込むのは本望ではない。とはいえ特段急ぎの用事もなければこの親子を放っておくことも気が引ける。
 汐音は母親に会釈をした後で白熊エリアに足を向けた。ほかの動物たちは写真を撮る人々で賑わっているのに明らかにそこだけは避けられている。汐音の動きに周りの人間たちもごくりと息をのみ込んだ。

「あのー……、ここ、撮影スポットなんで、電話は──」

 できるだけ穏便に事を済まそうと、汐音はピンクのコートを着てうずくまる彼女に、自らの中では最大限に優しい声色で注意を促してみる。
 ちょうど電話を切られた直後らしく、彼女は過呼吸気味になりながら画面に指を伸ばしているところだった。どうやらかけ直そうとしていたようだ。
 汐音に声をかけられた彼女は邪魔をしないで、と言わんばかりの勢いでバッと振り返ってくる。

「え──?」

 彼女と目が合った瞬間、思わず汐音の声が漏れた。
 声の調子だけだと必死なことしか汲み取れなかったが、こちらを向いた彼女の顔は涙でぐしゃぐしゃに崩れ、まったくの余裕がなく、まるで誘拐犯からの脅迫に怯えているかのように取り乱していることがその表情から伝わって来たからだ。

「え……? 大丈夫?」

 涙目の彼女と目線を合わせるように屈みこめば、彼女はふるふると力なく首を横に振った。

「むり……もうわたし、おわっちゃった」

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