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⑧【初心者マーク】【仲良し旅行:璃沙】【堂前充】【オタクたちの遠征:提案】

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【初心者マーク】

 「あのぅ、こちら、落とされましたか」

 囁くように遠慮がちな声が背後から聞こえ、神田林は何事かと振り返る。
 振り返った先にいたのは金色のショートヘアが目に鮮やかな長身の女だった。
 女は神田林と目が合うなりニコリと愛想良く笑みを返してくる。
 退職前、同じ職場にいた若手社員を思い出させる爽やかな微笑みだ。若干の懐旧を抱きつつ、神田林も無意識のうちに会釈を返していた。
 すると彼女は手にしていたメモをそっと神田林に差し出してきた。

「あっ」

 神田林は慌ててそれを受け取る。どちらかといえば、奪い取るに近い素早さだったかもしれない。

「鞄から落ちていたようでして」
「あぁ……そのようですね。ご親切にありがとうございます」
「いえいえ」

 神田林はメモの内容を見られぬよう、いそいそとその紙きれを鞄に戻す。彼の焦った動きを金髪の女は大らかな笑みで見守っていた。齢は倍以上違うというのに、彼女の佇まいはどっしりとしている。泰然とした彼女の態度は行きつけの屋台の店主からもらった大阪の観光名所のメモを慌てて隠す神田林とは大違いの貫禄だった。
 そんな彼女の毅然とした眼差しを浴びていると少し前に去って行った同じ瞳を思い出してしまう。姿形は似ていないが、そのはっきりとした瞳の色はまさにあの人を彷彿させるものだった。

「あっ、そうだ。少しお尋ねしたいんですけど──」
「な、なんでしょう」

 神田林が彼女の瞳の奥に違う人物を見つけていると、目の前の彼女はハッと両手を叩いて澄んだ瞳を輝かせる。

「ピンクのコートを着た、私と同じくらいの年の女の人を見ませんでしたか。えっと、髪の毛はこのくらいの長さで、目が丸くて大きい人なんですけど」
「ピンクのコート……ねぇ」

 ゴミと見間違えられてもおかしくない落とし物を親切に拾ってくれた彼女の助けになりたいとは思うが、あいにく神田林にはそのような特徴の若い女をこの空港で見た記憶はなかった。

「──すみません。ちょっと、わからないです」

 この答えがきっと彼女を落胆させると分かってはいたが、正直に答えざるを得ない。神田林は申し訳なく肩をすくめてから誠意を込めた声で彼女の問いに答える。

「あー、そうですよねぇ。すみません、変な事を聞いて」
「いえ、まったくお気になさらず。人を探しているのですか」
「はい。友人なんですけど──ちょっと、喧嘩しちゃって」

 金髪の女はやっちまった、と言いたげなおどけた表情をして情けなさそうに笑う。

「はは。これだけ混乱していれば気も立ってしまうものです。きっと彼女もあなたに会うために探しているはずですよ」
「あはは。そうだといいなぁ。早く仲直りがしたくて落ち着かないんです。ありがとうございます! なんだか元気が出ました」

 同情が織り交ざった神田林の穏やかな口調を受け、金髪の女はぴしっと親指を立て、明るく会釈をする。

「それでは。あなたも良い旅を!」

 去り際に大きく手を振り、溌溂とした微笑みの彼女は早足で神田林から離れていった。その力強い背中を神田林は少しの間じっと眺める。誰もが簡単に不審者に成りえる昨今。自分の立場を自覚している神田林も本当であればそのように若い女の姿を注視するような真似をしたくはなかった。
 けれど彼女の瞳の奥に見つけてしまったあの人の影を思い出してしまえば、今の自分の行動を責めることもできなかった。
 あれからどのくらいの月日が流れたものか。
 神田林にしてみればつい一週間前くらいの感覚なものだが、実際にはもう二年近くが経過しようとしている。
 さようなら。今までありがとう。
 そう言って清々しさすら感じる軽やかな微笑みで家を出ていった彼女の頭頂は自分とは違い美しい色に染められていた。まるであの親切な彼女の金髪のように。
 長年連れ添った割にはあっけない終わりだった。もしかしたら、今去って行ったあの女性の方が丁寧な態度だったかもしれない。
 別れた妻の勝気な瞳をぼんやりと視界に重ね、神田林は微かに口角を持ち上げた。



【仲良し旅行:璃沙】

 こちらに向かって歩いてくる彼の両手には温かそうな飲み物が二つ。
 しっかり蓋を閉じられているので湯気こそ目には見えないが、足早に戻ってきて早々にカップを手放した彼の仕草を観察していれば、中に入っている液体がなかなかの高温であることは察せられる。

「ブラックコーヒーで間違ってなかった?」

 目の前に置かれたカップを早速飲もうとする璃沙に対し、向かいに座った彼は念を押すように訊ねる。

「合ってます。そんな意外ですか?」
「ブラックってよりはミルクティー飲んでそうだから」
「それ偏見。わたしそんな顔してるの?」
「いやどう見てもお砂糖とミルクって感じじゃないですか」
「なにそれ」

 コーヒーを一口飲んだ璃沙はカップを机に置いてジトッと彼を睨みつける。この若い男はぬいぐるみに隠れて電話をしていた自分をカフェまで連れ出してきた。そんな彼の悪気のなさそうなきょとんとした表情を見た璃沙ははぁ、と息を吐く。
 確かに彼の言うことも納得できなくはない。そもそも既に名も知らない年下の彼に迷惑をかけてしまっているのだ。ここはもう少し自分も大人になるべきだろう。
 璃沙は態度を改め背筋を伸ばして彼に向き合う。

「でも──ごめんね、買いに行かせてしまって。ありがとうございます」
「いやそれはいいですけど。調子はもう大丈夫ですか」
「うん。恥ずかしいところを見られちゃったな……」

 男の問いに十数分前の自分の行動を思い出し、璃沙は肩身が狭そうに視線を下げる。カップの隣には、涙を拭いたばかりのタオルが置いてあった。

「ごめんなさい。声をかけてくれて助かりました。わたし、取り乱していたから」
「確かに取り乱してた。誰と電話してたんですか。彼氏?」

 好青年な見た目をして案外ずけずけと踏み込んでくる。もう一度コーヒーを飲み、璃沙は苦笑とともに小さく頷く。

「彼氏にしては随分怖がってたように見えましたけど。そんな冷たい人なの」
「容赦ないなぁ……」

 恐らく彼は自分が見たままの感想をそのまま声に出しているだけなのだろうが、初対面の、しかも年上の女性に向かって随分と度胸のある態度だ。
 親切なのか無神経なのか判断しかねる彼の複雑な性質に翻弄されつつ、璃沙は困ったように眉尻を垂らす。

「今日は記念日だったの。友だちとの旅行に行くのを許可してくれたのも、その記念日の記念時間に間に合うからっていうのが条件だった。毎年同じ場所、同じ時間に写真を撮るのが恒例で。でもほら、飛行機が飛ばないでしょ。だからそのせいで約束は台無し。向こうはすごく怒ってて、わたしは謝るしかなくって」
「それであの電話?」
「そう。飛行機の遅延で完全に愛想尽かされちゃった」
「でもそれってあなたにはどうすることもできないのに。そんなことで嫌われるなんて彼氏心狭すぎじゃないですか」
「ふふ……そう、だよねぇ」

 まるで自分事のように不快感を露わにして彼氏のことを批判する彼の口ぶりが面白く、璃沙は思わず吹き出してしまう。

「陽彩くんは確かに短気だよ。わたしが誰かほかの人と話しててもすぐに引き剥がそうとするし、真白──あ、彼女は長い付き合いの友だちなんだけど……そんな彼女と遊びに行くときでさえもね、逐一状況を報告しないと機嫌悪くなっちゃうんだ。今回の旅行でも百回以上連絡したかもしれない」
「めんどくさ」
「ふふふ、君は素直だね」
「いや誰でもそう思うって、大半は。受け取る側も自由がないようなものでしょ」
「鋭い」
「──あなたも大変だったんすね」

 呆れ混じりにため息をついた彼は自分のカップを口元に運ぶ。

「あっつ……」
「猫舌?」
「そう。猫舌って損しかない」
「あははは」

 まだ出会ったばかりだというのに彼の飄々とした振る舞いを見ていると自然と笑みがこぼれてきた。久しぶりに心が軽くなった気がして、璃沙は気のままに肩を揺らし続ける。

「笑いすぎ。俺だって猫舌克服したいんすから」
「ごめんなさい。でも別に猫舌は悪いことじゃないと思うよ。ほら、危険なものを察知する能力が高いだけ。きっと防衛本能が強いの。それって生物として生き残るために大事なことじゃない?」
「急に話が壮大になった。猫舌って、ただ舌の使い方が下手なだけらしいですから」
「それはそれで可愛いと思う」
「嬉しくないんですけど」

 今度は反対に彼の方が璃沙のことをジトッと睨みつけてきた。が、その反抗的な仕草すら年上の璃沙にとっては子ネコの反撃の如く可愛らしく思えた。

「そうだ。あなた名前はなんていうの」
「汐音。あなたは?」
「わたしは璃沙。汐音くんはこっちに住んでるの?」
「そう。旅行のために空港に来てた。恒例の家族旅行」
「へぇ、いいな楽しそう」
「どうだか。前は楽しかったけど──」
「ん? じゃあ今は──?」

 汐音の眉が歪んだのを見て璃沙は前のめりになって訊ねる。

「最近は……妹が、ちょっと」
「妹さん? 汐音くんお兄ちゃんなんだ。汐音くんは──大学生、だよね。妹さんは?」

 汐音の外見から彼の属性を推測した璃沙は首を傾げて妹の情報を探る。

「妹は中学生」

 汐音の答えはシンプルだった。しかしその声色は重く、何やら事情がありそうだと邪推せずにはいられなかった。

「中学生かぁ。多感な時だよね。その辺りで兄妹の関係性が変わっても自然なことだけど」
「それだけならいい。でも違くて」

 璃沙に気を遣われていることには汐音も気づいているようだ。彼は気まずそうにカップを握りしめて伏し目がちになる。

「あいついじめられてるんです。なのに俺になにも言ってくれない。なにも言ってくれないからなにをすることもできなくて。なにもできないのが悔しい」
「そうなんだ……」

 汐音の語調から「いじめ」の意味するところが深刻だということが分かる。璃沙は慎重に言葉を探し、辛そうな表情の汐音にそれを伝える。

「妹さん、きっと家族に迷惑をかけたくなくて気を遣っているのだと思う。汐音くんに、余計な心配をかけたくないんだよ」
「それはあると思う。俺、もうすぐ留学するんです。そうしたら妹は一人になる。俺がいなくても大丈夫だって思わせたいのかもしれない」
「きっとそうだと思う。だから汐音くんは、いつだって妹さんの居場所になるよってことが分かるようにしてあげるといいと思う。居場所があるんだって分かるだけで希望になるから。あの人なら、この人なら、わたしの味方でいてくれるって。そんな存在がいるだけで、心はほんの少しかもしれないけど救われる」
「──璃沙さんもそう?」
「え──?」

 汐音の瞳が璃沙の方を向く。その意味が璃沙にはすぐには分からず、きょとんと数回瞬きをした。

「失礼かもしれないけど、きっと璃沙さんも同じかなって。彼氏のこと。ましてや璃沙さんは自分のことだし。いじめとは違うけど、璃沙さん、彼氏に縛られてるから」
「……えっと」
「璃沙さんは彼氏のことが好きなんだろうけど、相手はその感情を利用してる。もちろん相手も璃沙さんのこと好きなんだろうと思うよ。その表現の仕方が歪みすぎてるのはあるけど。さっきの璃沙さんの怯え方は異常だった。彼氏に何言われたの」
「──もうお前なんか知らない。帰ってきたら覚悟しろよって言われた。きっと……すごく怒られる」
「ほら」

 璃沙の答えに汐音は思った通りだと言わんばかりにと椅子に背を預ける。

「精神的に追い詰めて束縛して独占して──いじめと何が違うの。そこに愛情があるなんて俺には思えないな。なんで我慢するの。璃沙さん、そういうのが好きなの?」
「それは──」

 璃沙の脳裏には走馬灯のように陽彩との思い出が蘇ってくる。出会いからつい先日のことまで。だがその中に、自分が彼を求める理由が見つからない。恐らく最初は持っていたはずなのに。明確に分かっていたその感情が、今は泥にまみれて何も見えなくなっていた。たぶん、その泥の中に僅かに石が残っているだけ。磨けば輝くはずの宝石が眠っているだけ。しかし本当に、その石はまだ輝きを保っているのだろうか。

「──わからない」

 顔を伏せ、璃沙はぎゅっと拳を握りしめた。
 陽彩との楽しかったはずの思い出は朧げですべて幻覚だったかのようにも錯覚する。ただ一つ、記憶の中でくっきりと輪郭の残るものがあった。それだけは、確かに存在するものだと胸を張って言えるもの。

「そっか……」

 ぽつりと呟いた璃沙の泡沫の声に汐音の眉がピクリと動く。

「そう、だね……うん、汐音くん」
「璃沙さん? どうかした?」
「さっきの答え。分かったよ。わたしもそう。居場所があるから、きっと……無意識のうちに、大丈夫だって思えてたの。それが本心なのか自分を見失ったとしても。居場所があるからって。でもわたし、今まで気づけなかった。少しだけ勇気を出せばいいだけだったのに。それですべてが終わってしまうわけがなかったのに」

 顔を上げ、璃沙は何かを吹っ切ったような様子で汐音に微笑みかける。

「汐音くん、あなたは強いね。気遣われることに慣れちゃうと、人ってその恩恵を忘れちゃうの。傲慢なことだけど、それが当たり前だって勘違いして……切実なその想いは忘れられてしまうの。だから誰かの心配をするのはずっとずっと辛い。なかなか気づいてもらえないのだから。人の心配する方が辛いよ。汐音くん、あなたは何もしていないわけじゃない。ずっと妹さんのことを気遣って、心配して、大事に思ってる。自分に出来ることを探してる。それって当たり前にできることじゃないよ」

 汐音を励ます璃沙の脳内には彼女の大事な友人の姿がくっきりと浮かんでいた。
 これまでの真白の気遣いを思い返せば、自分はそれのほとんどを無下にしてきた気がする。汐音と同じく、彼女もまた勇気をもって自分のことを守ろうと挑んでくれていたのに。
 彼女の想いに気づけなかった自分を情けなく思い、璃沙の涙腺が微かに緩む。恥ずかしい。なんて自分勝手なのだろう。

「さっきも言った通り、妹さん、今は迷惑をかけたくなくて黙っているのだと思うけど、きっと、そのうちに……話してくれる時がくると思う。気づいてくれる。だって汐音くん、すごく素敵なお兄さんだから」
「迷惑なんて──そんなの気にしなくていいのに。俺はどんな妹だって構わない。ただ力になりたいだけ。それが分からないなんて、あいつはどんくさいんだ」
「ふふ……そうかもしれないね」

 腑に落ちていなさそうな汐音のぼやきに璃沙はクスリと笑う。
 彼の言葉がまるで、自分のことを指しているかのように思えたからだ。



【堂前充】

 「よっし。ようやく見つけたぞ」

 ダークグレーのコートのポケットからスマートフォンを取り出し、カメラモードに切り替える。これは充にとっての標準装備だ。
 視線の先には売店で買い物をしているカーキのダウンジャケットを着た男がいる。
 ラウンジで彼を見失ってからしばらくして、施設内を駆け回った充はどうにか目標を視界に捉えることに成功したのだ。

「──にしても、いくらなんでも子ども扱いすぎないか」

 頬に貼られた絆創膏を撫でながら充は不満気な声でぼやく。
 結局人の厚意を弾き飛ばすことなど出来なかった充は丁寧な怪我の手当てを受けることとなったのだ。

「俺、もう三十超えてるんだけどな……」

 近くのガラスに映った自分の姿を見つめ、充は首を捻る。

「そんなに童顔に見えるかな」 

 ラウンジで手当てをしてくれたあの女性には自分は一体何歳に見えていたのだろう。ふとした疑問が頭に浮かび充は少しだけ自分の幼さに虚しさを覚えた。
 若く見られることを悪いとは思わないが、やはりそれなりの貫禄を身につけていきたいものだ。せめてもう少し落ち着きのある雰囲気を纏うことができれば違うのだろうか。
 悶々としつつも充は気を取り直して目標の動きを観察する。
 肩にかけた鞄にはボス直伝のお手製探偵道具が詰まっている。むしろ荷物はそれしかない。もはや充にしてみればお守りと言っても過言ではない大事な仲間たちだ。チャックを開け、鞄の中身をちらりと一瞥した充はこれで大丈夫だと言わんばかりに得意気に微笑む。

「もう見失うものか。準備は万端だ。さぁ、どこからでもかかってこい」

 あとは尻尾を出すのを待つだけ。
 人の逢瀬を心の底から待ち望むなど、日々数字と睨み合っていた前職当時には思いもよらなかったことだろう。
 だがやはり、現職に就いたからには流石に自覚する。自分は非日常的な刺激を本能的に求めていたのだと。
 カーキのダウンジャケットはどうやらお土産選びに時間をかけているらしい。
 能天気な顔をして、その裏には一体どんな下衆な本性を隠しているのか。
 想像するだけでもわくわくしてしまう。そんな充の高揚に呼応するかのように何やら辺りも賑やかになってきた。騒がしさに振り返れば、決定的瞬間を逃すまいとスマートフォンを構える充の背後を大学生らしき集団が通り過ぎていく。

「ふん。お気楽なことだ」

 自分もかつては同じような立場に属してはいたが、今となっては過去の黒い歴史。今はそれよりももっと刺激の強い職を手にしているのだ。その立場を守るのに精一杯。若者はせいぜい模範的な黄金時間を楽しめばいい。
 彼らのことを鼻で笑い、充はすぐさま目標へと視線を戻す。
 目標は、相変わらずチョコレートとスナック菓子のどちらを買うかを永延と悩み続けている。



【オタクたちの遠征:提案】

 柱に張り付いたようにして動かないダークグレーのコートの人影を通り過ぎたところで成谷が申し訳なさそうに息を吐いた。

「やっぱ、ド真面目に課題を優先させないほうがよかったかな」

 漏れ出た成谷の嘆きを圭人がすかさず否定する。

「いや、単位も大事だって」
「でもさ……前入りしなったのは浅はかだったかもしれないし……やっぱり後悔するよ」
「やめろ成谷。お前は何も悪くない」

 圭人に慰められるように肩を叩かれ、成谷は力なく頷いた。その時、圭人の隣を歩く百華の横顔が目に入り、成谷の胸がチクリと痛む。

「嘆いても仕方ない。とにかく正澄に続け」

 圭人と成谷の会話を前で聞いていた哉太が二人を顔だけで振り返ってそう告げる。

「そうそう。過ぎたことより前を見よ」

 百華も哉太に同意してニコッと笑う。
 百華の微笑みに成谷も哉太たちの意見に同意したようだが、圭人だけはぽかんとした様子で腑に落ちない表情をする。待機所を離れる前、自分以外の四人が輪になって何か作戦会議をしていたが、自分はそこに入れてもらえなかったからだ。

「それはいいんだけど……正澄、どこに向かってるの」
「それは内緒」

 一人現状を把握できない圭人をよそ目に正澄はシーッと人差し指を自分の唇の前に添えた。

「保安検査、また受け直しになるぞ」
「いーのいーの」
「それでまた時間かかると思うけど」
「気にしない気にしない」

 圭人の言葉をのらりくらりと能天気に切り抜け、正澄は決して行き先を言わぬままに歩みを続けた。

「ほらさ、さっき圭人が言ってくれたじゃん」
「──なにを?」
「俺たちとライブに行くこと、それが夢だったのかもしれないって」
「うん、言った」
「だからさ、俺、思ったんだ」

 怪訝な表情をしている圭人の肩を組み、正澄はニヤリと得意気に笑う。

「ライブはどこでもできるって」
「ハ?」

 友人が何を言っているのか全容が掴めず、圭人は間抜けな顔で口を丸く開く。

「じゃーんっ! 着きましたぁっ」
「ハ? え? なになに」
「んふふふふ」

 不吉な笑みとともに正澄はいつの間にか手にしていたダッパーのペンライトを顔の横に掲げてスイッチを入れる。すると正澄のドヤ顔がオレンジ色に照らされていった。

「よし、ほら開いたよ。はやくはやく……!」

 正澄が圭人の気を引きつけている間にこそこそと背後で動いていた成谷が小声で二人を呼び込む。彼の声の方を見れば、二人以外の三人がちゃっかりとある部屋の中に入っていた。暗い空間にペンライトがうごめくのが見える。何やらそれを懐中電灯代わりに作業をしているようだった。
 そこで圭人は気づく。正澄が仲間を導いた先は空港内の貸会議室が並ぶエリアだった。三人が入っているのもその一つだ。本来ならば予約しなければ使用してはいけない。が、圭人にはそんな予約をした覚えはなかった。

「ちょっと待てって、勝手に使っちゃ駄目だろ」
「四の五の言うなって。バレなきゃ平気平気」
「いやバレるって」
「少しの間だけだから、ねっ?」
「はぁっ⁉」

 躊躇う圭人の背中を強引に押し、正澄は会議室の扉を閉める。
 中は真っ暗で、まだ目が慣れない圭人には仲間たちがうごうごと怪しい動きをしていることしか理解できなかった。

「お、おい……、一体なんだよ……」

 流石の説明不足に不安を覚えた圭人が声を震わせる。すると、突如として目の前に強烈な光彩が広がった。眩しさに目を細めれば、華やかな映像が浮かび上がったスクリーンの前で仲間たちが色とりどりのペンライトを天に突き上げ声を大にして叫ぶ。

「ダッパーの特別ライブ会場へ、ようこそ‼」

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