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⑪【オタクたちの遠征:会議室】【堂前充】【オタクたちの遠征:反省】

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【オタクたちの遠征:会議室】

 アイドルの笑顔に照らされれば否が応にも歓喜の悲鳴が沸き上がる。これはもはや本能だ。
 いつも見ているスマートフォンの小さな画面とは比較にならないほど、目の前で踊る彼女たちの姿は鮮明だった。
 冒頭から話題の曲を惜しみなく連発し、観客たちのボルテージを最高潮に押し上げていく。この場に集う者たちを誰一人として飽きさせてなるものかと覚悟した彼女たちの気迫の入った力強いパフォーマンスに応えるように、観客たちも各々がペンライトや腕を掲げて盛り上がる。
 中には一緒に歌いだす者も、思わずダンスを真似てしまう者もいる。各自の方法で、ステージ上から会場を仕切る彼女たちへの情熱を表現していくのだ。
 しかしここぞという合いの手だけは忘れず、その瞬間だけは皆が口を揃えて同じ言葉を発する。まるでステージに立つ演者と挨拶を交わすかのような一体感は格別で、彼女たちとの掛け合いによって会場の熱気は更に濃くなっていく。

「なぁ! やっぱりダッパーは最高だよな!」
「そんなこと、もう一年以上前からずっと言ってるだろ!」

 スクリーンに映し出されるアイドル四人に負けず劣らずキラキラの笑みを湛えた正澄の感嘆に、隣でペンライトを振りまくっていた哉太が得意げな表情で言い返す。

「しっ、ちょい待ち。次のソロ、ちょっとアレンジしてるところが堪らないんだよ。お前らうるさいから呼吸音も立てるなよ」
「過激派。成谷はいつもそう言うな」
「しょうがない。この曲、成谷くんの人生らしいから」

 前のめりになって中央で正座する成谷に哉太と百華があたたかい眼差しを送った。

「もう何度も観てるのにな」

 そうぽつりと呟いた正澄を圭人が横目でちらりと見やる。
 暗闇に押し込まれてから怒涛の展開で忘れかけていたが、今五人がいるのはdazzling partyのライブ会場ではなく空港内の会議室だ。
 圭人は正澄がほかの三人を集めた時の光景を思い返してみる。この即興の企みを皆に提案したのは正澄だ。スクリーンに魅入ってうっかり盛り上がってしまったところではあるが、自分たちがしていることが褒められた行為ではないことに間違いない。
 再びスクリーンを一瞥し、圭人はペンライトの色を切り替えた。成谷の目の前で歌う彼女のメンバーカラーは赤だ。思うところはあれど、ここがどこであろうと一応、ファンとしての矜恃は守りたい。
 スクリーンに投影されたのは仲間内で何度も鑑賞を重ねた最新ライブの映像だった。ホテルでも観れるようにと、遠征をするときには必ず誰かがライブディスクを持ってきている。
 強烈な赤に灯るネコの顔を見つめ、圭人は成谷の邪魔にならないよう小声で囁く。

「──やけに手際がいいことで」

 隣でのほほんとしている正澄にだけ聞こえれば問題なかった。圭人の望み通り、彼の声が聞こえた正澄の鼻先がゆっくりと隣を向く。

「大学の研究発表でもしょっちゅうこういうことはやってるからな。そりゃ鍛えられる。映像投影なんてお手のもんよ」
「教授もびっくりな早業だな。で、なんでこんなことを──?」
「なんでもなにも。俺たちは今日、ライブを楽しむために家を出た。消化不良なんて気持ち悪いだろ」
「立ち入り禁止の場所に潜り込むのも気持ちがいいとは言えないけど」
「なーに言ってんだよ。終わったらちゃんと全部元に戻すし。心配すんなって。すべて俺に任せなさい」

 圭人の複雑な面持ちを見やった正澄はけらけらと笑いながらペンライトを軽く振ってみせた。しかし圭人の表情は浮かないままだ。

「──俺のせい?」
「エ?」
「俺が余命なんて話したから、気、遣わせちゃったりした?」

 圭人の顔がほのかな赤色に染まる。ペンライトを見つめたままの彼の瞳は目の前のネコではなくもっとずっと遠くを見ているようだった。決して目には優しくない鮮烈な赤色は瞬きをしない圭人の瞳を刺し続ける。だが圭人は、その光を痛いとも眩しいとも思っていない様子だ。

「俺のためなんだろ?」

 念を押すような圭人の問いに正澄はぐっと息をのみ込む。言い逃れはできない。圭人の指摘は正しかった。彼の思い上がりでもなんでもなく、圭人のために、というのがこの企みの発端なのだ。

「──だったらいけない?」

 冷静に心を読んでくる圭人に若干の悔しさを抱きつつも正澄は開き直ってニヤリと笑う。すると圭人はペンライトから目を離して困ったように正澄を見る。正澄の声がやけに明るく、軽やかだったことに少し面を食らったらしい。

「いけないっていうよりは……いや、そりゃ嬉しいけど。なんか気を遣われるのは慣れないっていうか。悪いなって」
「なんで悪いって思う必要があるんだよ。俺たちがやりたいことをしてるまでだ。俺たちだって圭人と一緒にライブに行きたい。圭人と、まだまだ楽しいことをしていたいんだよ。でも天気には勝てねぇ。さすがにそんなこと操れないから。だから俺たちでできることをする。この疑似ライブは今回間に合わなかったライブの代替。似非でもいい。ここで皆でライブすることで、気持ちを消化して前に進みたかった」
「前に進むってどういうことだよ」
「気持ちが落ち着かないままは嫌なんだ。皆思ってることは同じだし。圭人、俺たちはお前のことを諦めたりなんかしない。いつだって助けになる。病気のことを忘れたいなら俺たちもお前が病気だってことを忘れるし、気が晴れない時は一緒に戦う。とにかく、お前と一緒に前に進みたい。お前と違って俺たちは今日事情を聞いたばかりだ。だからスタートラインを合わせたいんだよ。このライブがその一歩。ここから、俺たちも圭人と同じ道に立つ」

 すらすらと迷いなく口を動かす正澄はぽかんとする圭人の顔をペンライトで指す。桜色のネコの光によって、暗がりに消えかけていた圭人の表情が途端に朗らかな色に照らし出される。

「さ。次は俺の十八番だ。てめぇら、心して聴けよー!」

 圭人の返事を聞かぬまま、正澄はニーッと歯を見せて笑って前に出ていく。

「なんだよ正澄が歌うのかよ」
「じゃあ私も歌いたい!」
「えっ、ずるい。俺も歌っていい?」
「しょうがねぇなぁ、じゃあ皆、前に出ろ前に」

 スクリーンの前を陣取った正澄はいつの間にかマイクを手にしていた。ライブ映像に合わせて歌い出す正澄に続き、百華と成谷も前に出て一緒に歌い始めた。カラオケで何度も歌う定番曲の歌詞はとっくに脳に刻み込まれている。背後に流れる本家よりも大きな声で歌っていく三人の歌声に哉太が口笛を鳴らす。

「ははっ、いいぞー!」

 囃し立てる哉太の歓声に呼応して、三人の歌声にもどんどん気持ちが入っていく。一歩後ろから四人の様子を見ていた圭人は、赤色のままだったペンライトをふと見下ろす。そして。

「哉太、俺たちも歌おう」
「え? でも俺音痴……」
「そんなの誰が気にするかよ。ほら、いいから」

 ペンライトをしっかりと桜色に切り替えた圭人は前にいた哉太の腕を引っ張ってスクリーンの前へと誘う。
 成谷の隣に並んだ圭人と目が合った正澄が微かに頷く。アイコンタクトを送り合い、二人は同時に口角を持ち上げた。
 ライブ映像を背景に前を向く五人の前には観客は誰もいない。けれどそんなことはお構いなく、五人はステージに立った気持ちになって好き勝手に歌声を奏でた。
 一曲が終わり、自分たちに拍手と歓声を送り合った五人は次の曲も歌い出す。そうしているうちにライブ鑑賞はいつの間にかカラオケへと移ろっていった。
 互いの得意曲に大いに盛り上がり、時に映像に魅入りながらも五人は束の間のライブを楽しんだ。
 ここは空港の会議室。無断で立ち入り、勝手に機材を使っていることなどもはや誰も覚えていないくらいに五人は即席ライブに夢中になっていた。しかし突如として開かれた扉によって、彼らは強制的に現実世界に引き戻されることとなる。

「こらっ! なーにしてるの」

 扉の向こうから現れた濃紺の制服は会議室の電気を点けてスクリーンの前で歌い踊る五人を呆れたように叱責する。
 急に明るくなった視界に目を細め、五人はぎくりと心臓を縮こまらせた。
 ずかずかと会議室に入ってくる女警備員は両手を腰に当てて仁王立ちで溜息を吐く。

「まったく──青春は人に迷惑をかけないでやってよね」



【堂前充】

 「ありがとうございましたー」

 売店の店員のにこやかな笑みに会釈をし、充は台に置かれたあたりめの袋を手に取った。

「──なにか、ゴミでもついてますか」

 店員の双眸が自分の顔をじっと見ている。視点の動かない彼女の眼差しが気になった充はさり気なく訊ねてみた。すると彼女は自らの頬を指差してにっこりと笑う。

「絆創膏、可愛いですね」
「あ……えっと──それはどうも」

 何と返事をするのが正解なのか分からなかった。自分がウサギの絵柄の愛らしい絆創膏を顔に貼り付けていることが頭から抜けていた充は途端に恥ずかしくなって声色を落とす。
 和やかな店員の微笑みにもう一度頭を下げ、充はいそいそと売店を立ち去った。
 買ったばかりのあたりめの袋を開け、気恥ずかしさを誤魔化すように数本を口に放り込む。それをむしゃむしゃと力強く噛みしめながら、充は近くの椅子に座り込んだ。まだ頬が熱い気がしてならなかった。

「はぁ……踏んだり蹴ったりだな」

 脱力し、天を仰ぐ充は今回の任務中に起きたことを振り返ってみた。
 ボスの期待に応えるために気合いを入れてこの地に足を踏み入れたものの街では雪で滑って尻もちをつくし、楽しみにしていたホテルのディナーブッフェではお腹を壊すし、今や頬にウサギまで鎮座している。
 肝心の目標が怪しい動きを見せるわけでもなく、むしろ彼を見失って焦ったのはこちらの方だ。このまま飛行機が動き出せば特にこれといった収穫もないままに大阪に帰るだけ。これではただの旅行未満の遠出をしただけではないか。

「なんもでなかったら、さすがに不味いよな」

 大阪で待つボスの顔を思い浮かべ、充はゾッと背筋を凍らせた。彼女は寛大な人間ではあるが、逆に何を考えているのか分からず心の奥で自分のことをどう評価しているのかまったく想像がつかない。失敗が多かったこれまでの実績から優秀だと思われていないことだけは確かだが、もし今回も依頼人の信頼を裏切るだけの事態になれば流石に彼女も自分を見切るかもしれない。
 彼女に怒られるということはないだろう。が、充が最も恐れていることは彼女に愛想を尽かされることだった。
 この仕事は、もっと長く続けていたかったのに。
 もはや最悪の結果だけしか思い描けず、充は脱力する気も失せてしゃきっと姿勢を整えた。あたりめを頬張り、張り詰めた精神状態で一点を見つめる。

「だめだだめだだめだだめだ。余計なことは考えるな」

 精神を落ち着かせるために充はひまわりの種を与えられたハムスターの如く一定の速度であたりめを噛んでいく。想像だけで絶望するのは充の悪い癖だった。前々職で同僚に勧められた禅の極意をもっと詳しく学んでおけばよかったと、充は数年ぶりの後悔をする。
 せめて形だけでもと即席の瞑想を試みた充は両目を閉じて鼻先でゆっくりと酸素を吸い込んでいく。と、意外なことに、呼吸法を変えただけで神経が研ぎ澄まされていくような気がした。面白いくらいに思考がクリアになっていく感覚がある。思わぬ効果が嬉しくなり、充はもう一度酸素を肺に取り入れようと深呼吸する。
 が、その途中で背後から声をかけられ充の肺は中途半端に膨らんだまますぐに萎んでしまった。

「あれ? もしかして三雲みくもさん──ですか?」
「え……? 違います、けど」
「あっ」

 充が首を横に振ると、声をかけてきた同年代くらいの女の表情が気まずそうに固まる。制服を見るに、彼女は近くの売店で働く従業員のようだ。

「すみません。お召し物がよく似ていたもので……人違いでした」
「いえ、そんな謝らなくても大丈夫です」

 彼女は充のダークグレーのコートに視線を落としながら申し訳なさそうに頭を下げる。どうやらこのダークグレーのコートは彼女の知り合いが着ているものに似ているらしい。

「これ、出た時に話題になっていたものなので、同じコートを着ている人もきっとたくさんいますから」
「ごめんなさい。そうですよね。前に一緒に働いていた人も同じものを着ていたもので。なんだか恥ずかしいです」
「いえいえ」

 勘違いに恥じらう彼女に親近感を覚え、充は同情するように優しく目元を緩める。

「それでは失礼しました」

 終始恥ずかしそうなまま、彼女は充に背を向けて去って行く。彼女を見送った充はトイレから出てきた目標に視線を移す。随分と長いことトイレに入っていたが彼もお腹でも壊したのだろうか。そんなことを思いながら、充は目標の動きに合わせて立ち上がった。
 トイレから出てきた彼は心なしか浮かない顔をしている。やはりお腹が緊急事態を迎えているのか。彼の強張った表情を注意深く観察し、充は少しずつ彼との距離を詰めていく──と、突然、目標の顔が陰る。またトイレにでも行くのか。充がそう推測した数秒後、その推理が正しくないことが明らかになった。
 充の足もピタリと止まり、目標の視線の先に意識が向かう。彼が見ているものが何か分かった途端に充の心拍が高速で踊り出す。

「やった……ついに……!」

 あたりめを一本口に運び、充は興奮を抑えようとその場で足踏みする。
 彼が見ているのは濃紺の制服に身を包んだ凛々しくも若い女警備員だ。表情に若干の疲労を滲ませた彼女はインカムで会話をしている。その姿に瞳が吸い込まれてしまったかのように、目標は彼女を見つめたまま石の如く固まってしまった。
 いかにも怪しい。
 ようやく見つけた綻びに充の口角が微かに斜めに持ち上がる。
 きっと、彼女こそが依頼人が危惧している浮気相手に違いない。まさかこの空港で働いているとは予想外だったが。お楽しみは最後の最後に取っておくということだろうか。
 決定的瞬間を捉えるためにスマートフォンを胸元に携えた充は、来たるシャッターチャンスの時を逃さぬよう焦る気持ちを抑えて神経を落ち着かせる。彼女が仕事の会話を終えたところで声をかけるか。恐らくそうだ。そうだと言ってくれ。祈るような思いで充はあたりめを喉に流し込んだ。
 キリキリと胃が痛む感覚に逆らいつつ、充はじりじりとスマートフォンを顔の前へと持ち上げていく。画面の中には目標と警備員の姿がバッチリと映し出されている。この調子だ。充はより一層、画面に意識を集中させた。
 すると突然画面がダークグレーに包まれる。驚いた充がスマートフォンを下げると、目の前をダークグレーのコートを着た男が通り過ぎて行ったところだった。

「なんだぁ……びっくりした。壊れたのかと思った」

 ほっと胸を撫でおろし、充はスタスタと去って行くその男を見やる。
 自分とよく似たコートの後ろ姿をぼんやりと見つめ、充はぼそっと独り言を吐く。

「やっぱり、お揃いは何万人といるか」



【オタクたちの遠征:反省】

 ちゃきちゃきした女警備員に会議室を追い出された五人はとぼとぼと国内線ターミナルビルへと戻って行く。
 自分たちを注意した彼女の真摯な態度を思い出し、正澄が大きな溜息を吐いた。

「やっぱ見つかっちゃったか。さすがに反省するな」

 大胆な行動を恐れずにとるのが彼の特徴でもある。が、同時に繊細な面もあって人一倍反省も早い。

「しょうがない。騒ぎ過ぎたもんね」

 百華が淡々とした口調で肩をすくめると正澄の肩ががっくしと沈み込む。

「身も蓋もねぇな。ま、確かに調子に乗り過ぎたかも」
「だけど楽しかったよ正澄。提案してくれてありがとう」

 落ち込む正澄に向かって成谷がグッと親指を立ててみせる。

「もうあとは大人しくしてよう。ライブには行けなくとも単純に旅行を楽しむことに切り替えようぜ」
「それもいいな」

 哉太の意見に圭人がくすくすと笑いながら賛同する。

「いいね。私、行きたいお店があるんだ。皆にも付き合ってもらっちゃおう。あー、早く飛行機動かないかなー」
「どんな店?」
「えっとね、ここなんだけど。キャラクターグッズが売ってて」
「げっ。めっちゃ混んでそうじゃん。まじかよ」
「えー、いいでしょ? 行こうよ。近くにあるお店のご飯も美味しいらしいよ」
「まじ? じゃあ行ってもいいかも」
「正澄、単純すぎて心配」

 百華と正澄のやり取りに成谷が静かに突っ込みを入れる。圭人は彼らの会話を楽しそうに眺め、哉太もまた、そんな圭人の横顔に視線を向けた。
 すると、前を歩く三人を見ていた圭人の瞳が不意に違う方向に興味を示す。ちょうど長身の金髪の後頭部の傍を通り過ぎる瞬間だった。圭人の動きに釣られた哉太も同じ景色を瞳に映す。目を引く金髪の前にはピンクのコートが佇んでいるのが見えた。

「──そう、例えば大病とか大怪我とか、それくらいのショックがないと性格なんてなかなか変わらないんだから」

 何やら真剣な物言いだった。聞こえたのは通り過ぎる刹那に触れた会話の一部にすぎない。だが彼女の言葉は哉太の耳にやけにこびりついた。
 それは圭人も同様だったようだ。
 金髪頭を過ぎた後で、彼は来た道をちらりと振り返った。

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