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⑮ All aboard!

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 「はい、どうぞ。同僚から是非お礼にって。協力者さん」

 カフェの机にチョコレート菓子を一つ置いた佐那はにっこりと笑って椅子を引く。

「私は特になにも……礼を言うなら、ほかの二人かと」
「何言ってるの。あなたも力を貸してくれたでしょう。すごく助かったんだから」

 椅子に腰を掛けた佐那は遠慮がちにチョコレート菓子を見つめる重岡に感謝の意を込めて念を押す。
 勤務時間を終え私服に着替えた彼女の印象は制服姿の時とはまた違う。きびきびとした雰囲気はすっかりと息を潜め、彼女の本来の陽気な人柄が際立っていた。

「それにあとの二人はもう搭乗したのか姿が見えないし。改めてお礼を言いたかったけど、ずっと待たされてたんだもんね。これ以上足止めさせるわけにはいかないよ」

 窓の外に目を向け、佐那はちょうど空へと飛び立っていった飛行機を眺める。
 大雪によって時が止まっていた空港がようやく息を吹き返したところだ。活気を取り戻した空港内は人々の安堵と歓喜に満ち溢れている。なんとも清々しい気分だった。この賑わいを耳にするのが佐那は嬉しくてたまらなかった。この場所から、皆はそれぞれの目的地に向かって出発する。たくさんの想いを乗せた飛行機を見上げた佐那の口角が柔らかく持ち上がっていく。
 おまけに今日に限って言えば彼女が喜ぶ理由は他にもある。意識せずともその感情が顔に出てしまうのも仕方のないことだった。
 嬉しそうに空を見つめる佐那と向かい合って座る重岡はカップを持ち上げ紅茶を喉に注ぐ。紅茶の味は重岡には少し物足りなかった。が、さんざん胃腸を虐めてきたコーヒーを再び飲むつもりには流石になれなかったのだ。
 紅茶の味に渋い顔をした後で重岡は雲の中に入っていった飛行機を見送った。

「あの盗撮犯は警察に?」
「うん。ここのところずっとトイレから小型カメラが見つかってたんだけど、その犯人はずっと分からなくて。さっき退勤前に口を割ってくれた。やっぱりあいつが犯人だった。三雲みくもって人。ねぇ聞いて、しかもね、あの三雲の奴、少し前までこの空港のテナントで働いてた従業員だったんだよ?」
「それはなかなか……」
「でしょ? バイトするより盗撮の方が映像売って稼げるからって理由で辞めたらしいんだけど。その時の経験から中に潜り込むのは彼にしてみれば楽勝だったみたいで。不正に侵入してはカメラを隠し、データはリモートで回収するを繰り返す常習犯になってたの。今回カメラを回収するところに出くわしたのはラッキーだったのかもしれない。あの見つけてくれた女の子にも感謝しなくちゃ」
「嬉しそうだな。本当に、ずっと追ってたんだな」
「当たり前でしょ? それが私の仕事だし、卑劣な奴を放っておくことなんて絶対許せないもん」

 佐那は顔の前で拳を握りしめてにこにこと笑いながら空気を捻り潰す。拳に込められた力から、彼女にとって犯人確保がどれだけの悲願だったのかが窺える。彼女の逞しい眼差しを見た重岡は伏し目がちに微笑んだ。彼女に見られることを避けているような不器用な微笑みだった。
 重岡が佐那に遠慮していることは既に彼女にはバレバレだった。肩身が狭そうな重岡の様子をじっと見て、佐那はやれやれと拳を机に下ろす。

「で──? どうしてあなたはここにいるの?」

 重岡が何かを言いたそうにしているのはいくら鈍感な人間でも分かるくらいに明らかだ。本題に入ろうと、佐那は机の上で腕を組んで訊ねる。

「仕事?」
「────まぁ、そんなところだ」
「そっか。あ、そうだ。確か結婚したんだよね? こんなところで油を売ってていいの? もう飛行機動いたんだし、早く帰らないと怒られちゃうんじゃない?」

 歯切れの悪い重岡とは対照的に佐那はからからと笑いながらふざけ調子で続ける。

「今の奥さん、私の存在を知ってるの? もし知らないならバレたらまずいんじゃないの。こんな大きい子どもがいるって。子どもっていうか、もう大人だけど。会うのは何十年ぶりか……分からないけど。あ、そりゃそっか、分かるはずがないよね。だって私、まだ赤ちゃんだったし」
「佐那……」
「まさかこうやって対面で顔を合わせる日が来るなんて私も思いもしなかったけど。どうして? どうしていまさら、私の前に現れるの? これって偶然? 偶然ならしょうがないって言わせるつもり?」

 矢継ぎ早に言葉を繰り出す佐那に重岡の眉がだんだんと垂れさがっていく。返す言葉もないようで、佐那の言い分をすべて胸に受け止めているようだ。
 真実を求める佐那の懸命な瞳に宿る熱に重岡はごくりと息をのみ込む。最後に触れた娘の手のひらの温もりを思い出し、罪悪感に圧し潰されてしまいそうだった。
 目の前の子どもは最後に見た赤子からは想像もつかないほどに立派な大人に成長している。空港の治安を守り、正義感に満ちた優しくも頼もしい人間に。

「佐那──すまなかった」

 三十一年前に背を向けた娘に自分が言える言葉など何もなかった。ただ過ちを犯したことをひたすらに謝りたい。それだけの願いだった。
 深く頭を下げる重岡の暗い表情に佐那は鼻先から細い息を吐く。

「──事情は、今のお母さんたちに聞いてる。実の両親二人がまだ大学に入る前に私が生まれて、その後すぐに私を生んだお母さんは亡くなった。まだ若すぎた娘の選択に母の両親は激怒して、実の父親から私を引き離したって。それでそのまま、娘が亡くなったことに耐えられなかった両親は私を養子に出した。聞いた話だけど、祖父母はひどく後悔していたみたい。高校の時に引っ越しさえしなければ、あの男にも出会わず娘も間違った選択をすることはなかったのにと」
「……佐那が生まれてすぐ、私は彼女の父に拒絶された。彼女の家には厳格な掟があった。私も、私の両親も逆らうことは許されず、問答無用で──君は養子に」
「そうみたいね。祖父は私との縁を完全に切りたかったのかもしれない」

 重い口調で過去を振り返る重岡に佐那はあっさりとした声で答える。

「本当に申し訳なかった。私があの時、君を守れていれば──」
「守れていれば? 幸せになれたかもしれないって?」

 佐那は組んだ腕に体重をかけてぐっと前のめりになった。

「それは心配いらない。私は充分に幸せだから。確かに血の繋がった人たちに存在を否定されたのは話だけ聞けば悲しいし、ショックに思う。でも実際のところ、そんな人たちと離れられたのはラッキーだったとも思える。養子に出された私は、私を必要としてくれた人たちの元へ行けた。そこでしっかりとした環境を与えられ、愛情にも恵まれて暮らしてきた。もしあのまま祖父母のところにいたらどうなっていたのか分からない。それが例えばあなただったとしても。今の私は絶対にいない」

 自信に満ちた眼差しで佐那はニコリと笑ってみせた。組んでいた腕を解き、姿勢を真っ直ぐに戻した佐那は鞄から自分用のチョコレート菓子を取り出し口に放り投げる。

「あなたにしてみれば不本意なことだったのかもしれない。でも結果、あなたは私に幸福を教えてくれた。傍にいるだけが相手を守ることになるとは限らないってことかな」

 イチゴ味のチョコレートに舌鼓を打ち、佐那は満足気な様子で笑みを湛える。

「だから罪悪感なんて持たないでほしいと思ってる。もちろん苛立つこともあったけど、私は気にしてないから」

 娘のあっけらかんとした様子に重岡は呆気にとられて眉を上げる。

「何か言いたそうな顔。驚いた? 私、やっぱりあなたたちの期待には応えられなかったのかな」
「いや──」

 自虐気味にくすくすと笑う佐那を止めるように重岡は首を横に振って語調を強める。

「そんなことは決してない。驚いたのは確かだ。でもそれは……君が私の想像なんか遥かに超えた素晴らしい人間になっていることに、だ。私と一緒にいたら、きっとそうはならなかった。私のような──こんな愚かな人間と一緒では」
「ちょっと、そんなこと言わないでよ。愚かだなんて、少なくとも父親であるあなたが自分を悪く言うところを聞くのはあまり気持ちがいいものでもないし」
「いや、私は愚か者だ。君にどうしても会いたかったがずっと勇気が出なかった。それは君と別れた三十一年前からずっと変わらない。どうにかして手に入れた君の写真をいつも持ち歩いては君を想ってた。どうか幸せでいて欲しいと」
「じゃあ──どうして今になって会う気になったの」
「最初は君に会うことを躊躇っていた。自分には資格がないし、君に迷惑をかける。でも今回が最後の出張だと思った時、もうこれっきりで君との縁が完全に切れてしまうと思った。もう懺悔の時は訪れないと。これが最後のチャンスだと」
「懺悔?」
「ああ。私の妻は不妊症に苦しんでいた。そんな彼女を見て余計に私は反省した。なぜあの子を手放したのかと。君が奇跡の存在だと気づけなかった。当たり前のことなんかじゃなかった。なのに──私はそんなことも分からずに君の手を離した。あまりにも愚かだろう。反抗の牙を抜かれても、爪を剥がされようとも何をされても、そんなことするべきじゃなかったんだと。妻が妊娠した時、私は喜びよりも後悔ばかりだった。この子を守ることは命に代えても誓える。だけど君のことは、もう、そんな誓いを立てることも許されないのだと思うと」

 重岡の指先が虚しく体側に垂れる。萎びた花のように生気を失くした父の姿に佐那は穏やかな口調で囁く。

「お父さんは、私のことをずっと守ってくれたよ」

 娘の落ち着いた声に父の顔がほんの少し上を向く。

「だからもう自分を責めないで。生まれてくる子どものことを精一杯愛して。私はもうとっくにあなたのことを許してる。それでも気が済まないのなら、私との約束を守ることで自分を償って」
「なんでもする。お前との約束ならなんだって守る」
「うん。じゃあ、奥さんと子どものことを一生をかけて守り続けて。絶対に家族を幸せにしてあげてね」
「──約束する」
「それと……一つだけ、お願いを聞いてほしいんだ」
「なんだ? なんでも言ってくれ」
「えっとね」

 前のめりになって問う重岡に佐那は立ち上がるように指示をする。佐那に言われた通り彼女の前に立った重岡は、次は何をすればいいと急かすような眼差しで佐那を見つめた。そんな父の懸命な眼差しを捉えた佐那の瞳はたおやかな笑みを描く。そしてにっこりと笑った次の瞬間に、佐那は右手を勢いよく振り上げてそのまま彼の頬をビンタした。
 空気が破裂したかのような激しい衝撃音がカフェに鳴り響き、皆の視線が集中する。重岡はあまりの痛みに何が起きたのか分からず、真っ白になった視界で佐那にその真意を求めた。すると佐那は今度は力強く抱きついてくる。

「馬鹿親父! 何が懺悔だ。会いに来るのが遅いんだよ!」

 泣き笑いながら佐那は重岡の胸元で本音をぶちまける。

「お父さんに会ったらこうやって絶対に叱ってやろうって思ってたの。きっと無駄に思い悩んでるんだろうなぁって思って。そんな余計な気遣いはいらないから早く顔を見せろって。私がお父さんの顔をすぐに分かったのがなんでか分かる? お母さんたちに頼んで、数年前にお父さんの写真を入手してもらったからだよ。私は、ずっと待ってたのに!」
「ごめん──ごめん、佐那」
「私、お父さんたちには感謝してるの。事情は聞いてたから、私を捨てたなんて全く思ってない。二人にはありがとうってずっと言いたかったの。二人がいなきゃ、自分は絶対にこの世界を知ることもなかったんだから。だから、ありがとうって、言いたくて」

 重岡の胸から顔を上げた佐那は涙で濡れた頬を手の甲で拭きながら照れくさそうに笑う。

「ありがとう、お父さん」
「──こちらこそ、ありがとう、佐那」
「どういたしましてだよっ」

 もう一度重岡を抱きしめ、佐那は嬉しそうに身体を横に揺らす。佐那に引っ張られるようにして身体を左右に揺らす重岡は彼女の頭をそっと撫でた。

「それにしても、佐那は心だけじゃなく力も強いんだな。ビンタ、かなり効いたよ」
「そりゃそうだよ。私、空手で全国制覇したこともあるんだから」
「それは立派なことだ」
「でしょう? だからもう私のこと怒らせないでね。約束を破ったらただじゃおかないから」
「ああ。誓うよ」

 重岡の迷いのない返事に佐那は父の背中をぎゅうと抱きしめた。

「うん。信じてるからね」



【関西国際空港行き】

 数時間ぶりに聞く華やかなアナウンスに導かれ、人々はそれぞれの搭乗券を片手に飛行機へ乗り込んでいく。
 堂前充もその一人。ボスとの通話を終えた後、充は少ない荷物とともに飛行機へと渡った。
 今回の目標となった重岡功が出張のために北海道に通っていたこと。また空港警備員の娘に会うことを断腸の思いで決意していたこと。その娘を悩ませていた盗撮犯を自分たちが捕らえることができたこと。ついでの話も含め、ボスにすべてを報告した充は疲れ切った顔で座席に座り込む──いや、もはや沈み込む、という表現の方が適切だろう。
 結局、重岡が思いを馳せていたのは不倫相手ではなく幼い頃に生き別れとなった実の娘だった。重岡が過去に赤子を養子に出したことがある事実を今の妻もなんとなく話は聞いていたらしく、それを知る充のボスは話を聞くなり拍子抜けしたようにけらけらと笑っていた。
 しかし詳細までは知らないだろうとのことだったので、充の報告結果をもって夫婦の間で何かしらの話があることは確実だ、というのがボスの見込みだった。
 どちらにせよ妻にしてみれば最も恐れていた結果ではなかったことは確かだ。

 それを幸いと受け止めるか、物足りないと感じるか。当人であれば間違いなく前者だろうが、第三者としてみればなんとも言葉を濁すところかもしれない。
 少なくとも充にはそうだったようで、依頼人の悲しむ顔を見なくて済む安心感と、労力に割の合わない虚無感の両方が胸の中をひしめき合っていた。
 早々にスマートフォンを機内モードに変更した充は感情の処理がままならずに溜息を吐く。もうこのまま大阪に戻るまではふて寝してやろう。そんな気分だった。しかし充が瞼を閉じた直後に、すぐにその予定は崩される。

「すみません。そちらの席、いいでしょうか」

 客室乗務員に連れられた一人の白髪男性が充に声をかけてきたからだ。どうやら席の交換があったらしい。

「はい。どうぞ──あ」
「おや、あなたはさっきの──」

 充と目が合った白髪男性が目を丸めて会釈する。充も彼に続けて同じ動作を返す。
 客室乗務員が連れてきたのは、つい先刻、ともに盗撮犯を捕らえた仲間の一人だった。犯人の足を引っかけた神田林だ。

「すみません、お休みのところを」
「いえ。たぶんどうせ眠れませんから」

 神田林が中央の席に座れるように一度立ち上がり、充は彼の気遣いに力なく答える。充の半ばすべてを諦めたような言い回しに神田林は座席のシートベルトを閉めながら「おやおや」と興味深そうに笑った。

「こちらにはお仕事で来ていたのですか」
「はい。でもあまり良い成果は得られませんでした。いや良い結果だったんでしょうけど。なんだか心許なくて。棚ぼたで得た結果という感じで」
「はは。なかなかに大変なお仕事をされているのですね」
「まぁ、そうなのかもしれないです。でもこれまで色んな職に就いてきた中で一番やりがいも感じる。だから余計に焦っているんだと思います。自分に向いてなかったらどうしようって。それを認めたくないのかもしれません」

 座席のポケットから冊子を取り出す神田林に充はぽつりぽつりと不安を語る。神田林は嫌な顔一つせず充の心細さに寄り添っていた。

「今の仕事が好きなのですね」
「度重なる転職の末に流れ着いた場所で。だけどドジばかりで。上司は極レア級の人格者ですし……その分、曲者なんですけどね」
「それはなんだか楽しそうです」
「はい。他人の人生に割り入るような仕事ですけど……なんか、ドラマに参加してるみたいで楽しくて。はは、こんなこと言ってる時点でプロ意識に欠けてるんですけど」
「まだ始めたばかりですか」
「そろそろそうは言えなくなる頃です」
「それは結構」

 眉根を寄せつつ参ったように笑う充に向かって神田林は大きく頷く。神田林の懐深い眼差しに充は肩をすくめてみせた。

「なんか、新米って名乗るのは気が引けちゃいますね。もう社会人生活十年以上経つのにって思うと。ふと我に返ります」
「そんなことはないですよ。世の中にどれだけの知らない世界や仕事があるものか。いくつだって、誰だって、新人に戻ることはあるのです。年齢も性別も関係ない。新人だと名乗ってはいけないルールなどない。あるとすればそれは自分で枷をつけているだけでしょう」
「なるほど。それは考えたことなかった」

 神田林の大らかな語調に充は目から鱗と言わんばかりに表情を輝かせていく。

「仕事が好きだと言えるのならばそれは恵まれたことです。その気持ちを大事にしていれば、きっと理想の仕事をする自分に近づけると私は思います」
「確かにそれは分かります。この仕事を見つけるのにたくさん寄り道をしましたから」
「誰もが主役で、脇役にもなる。そんな世の中です。焦らずにいきましょう」
「ははは。そう思えば気が楽になった感じです。ありがとうございます、仕事のこと誰かに相談したかったんです。なかなかその機会もなくて。あなたに聞いてもらえて、なんだかほっとしました」

 充の安堵したような穏やかな笑みに神田林は自分の心も躍っていることに気づく。彼の悩みを少しでも軽くできたのなら嬉しかった。そういえば営業時代もそうだ。人の笑顔を見ることが好きだったのだ。問題が解決した時に得られるあの笑顔は何物にも代えがたい特別な報酬だった。埃を被っていた感情が目を覚ます。
 冊子を膝に置き、神田林は服のポケットに移した大阪観光メモを一瞥する。
 帰ったら、もう少し詳しくシニアボランティアの話を聞いてみよう。自然と気持ちは前向きになっていた。
 肩の荷が下りたのかすっきりとした面持ちの充の横顔をちらりと見やり、神田林は彼にお礼を告げる。

「こちらこそ。かくいう私も、新米なのです」



【羽田空港行き】

 振替便は満席で希望の時間に席が取れただけでも運がいいことだった。
 バラバラの席に座る予定の哉太たちは互いの座席番号を確認しながら機内に乗り込む。後方の席に座る哉太と正澄は早々に奥へと進み、残された圭人と百華と成谷は荷上げのために詰まっている通路で立ち止まる。

「ももちゃん」

 なかなか動かない行列の先を背伸びで観察する百華に成谷がこっそりと声をかけた。百華が成谷を振り返ると、彼は身体を屈めてひそひそ声で百華に提案する。

「俺、さっき慣れない勉強して疲れちゃったから移動中は寝たいんだよね。だから席、代わってくれない?」
「え? でも私の席知らない人に囲まれてるし真ん中の席なんだけど」
「いいからいいから」

 きょとんとする百華の疑問を振り払い、成谷は百華が手に持っていた搭乗券を奪い取る。代わりに自分が持っていた搭乗券を渡した成谷は百華の前にいる圭人を一瞥してから軽く百華にウィンクする。

「は? もしかして──」
「圭人」

 成谷のぎこちないウィンクを見た百華の低い声に被せて成谷が圭人の肩を叩く。

「俺寝る予定だからももちゃんと席交換した。よろしく」
「ちょ、成谷くん!」
「うん。わかった。よろしく、百華ちゃん」
「ぅえっ? あ、うん……」

 成谷が搭乗券をひらひらと揺らすと圭人は軽く返事をした後で百華に笑いかけてきた。突然自分に向けられた笑顔に対応できず、百華は声を濁らせつつも辛うじて頷くことができた。

「じゃ、俺この列だから」
「ああ、後でな。えっと俺たちは──あ、あそこかな」

 百華が何かを訴えかけたそうな目で成谷を見ると、彼は逃げるように自分の席へと去って行った。百華が成谷の背中に怨念を送る間にも、圭人が二人が座る席を見つけて弾んだ声を上げる。

「百華ちゃん窓側じゃなくて大丈夫?」
「ぜんぜんへいき!」

 顔の前でブンブンと搭乗券を振り、百華は圭人の背を押して窓側に座るように促す。急展開に慌てるあまり耳が赤くなってきたところを見られたくなかったようだ。
 仄かに熱を帯びたまま圭人の隣に座った百華は彼に気づかれないように静かに深呼吸する。自分を気遣ってくれたとはいえ成谷のお節介がほんの少し恨めしかった。

「今日は色々と大変だったな。でも無事に出発できそうでよかった。なんだかんだで逃走劇のごたごたも見れて退屈もしなかったし。結果的には楽しかったかも」
「ね。盛り沢山だったね」
「でもこっからの旅が本番だ。こっちも楽しもうな」
「うんっ。圭人くんも行きたいところがあったら遠慮なく言ってね! 私、調べ物得意だし。どこへだって行くから」
「ありがとう。百華ちゃんもね」
「ふふふ。うん」

 しかし圭人の笑顔を特等席で見れる喜びに浸るうちに成谷への文句も勘弁してやるかという気になってくる。
 百華は自分の頬がふにゃふにゃに崩れていることを自覚しないままに圭人には見えない角度でガッツポーズをしてみせた──が。

「あ、あの──」

 なんともタイミングの悪いことに、百華の隣の席に座ろうとしていた女の子にその光景をばっちり目撃されていた。中学生くらいの女の子だった。彼女と目が合った百華は気まずそうに愛想笑いを返す。

「コホン。どうぞ、お座りください」

 いかにも演技じみていたが、恥ずかしいところを見られた以上はもうそんなことはどうでもよかった。百華の丁寧なエスコートに、その女の子は「失礼します」と礼儀正しくお辞儀をしてから席に座る。

「あ、荷物、上にあげちゃいますか?」

 気まずい空気をどうにか変えたかった百華はリュックを抱えたままの彼女にそう訊ねる。

「やっぱり、上に載せた方がいいですか?」
「どうせなら寛げた方がいいでしょう。ほら、貸してみて」

 女の子からリュックを受け取った百華は通路に出て荷物を上げようとリュックを持ち上げた。するとリュックから見覚えのあるアルファベット形のキーチェーンがぶらりと垂れ下がる。

「あれ? これってダッパーのグッズ? 前回のライブの……確か会場限定のやつだ! もしかして、あなたもダッパーが好きなの?」
「え──? はい。そうです」

 百華の嬉しそうな声に女の子は驚きつつもこくりと首を縦に振る。

「やっぱり! すごーい。これ、私買えなかったんだー。すぐ売り切れちゃったでしょう。本物初めて見た!」
「えと……お兄ちゃんが買ってきてくれたんです。研究旅行のついでに」
「へー! 優しいお兄さんだね」

 リュックをしっかりと棚に収めた百華は流れるように席に戻り興奮気味に目を見開く。

「私たちもダッパーが好きでね、本当は今日もライブに行く予定だったんだよ。あ、ごめんね一方的に喋っちゃって。私、百華。ダッパーの話になると止まらなくって」

 女の子が口を開く機会を奪っていることを自覚した百華は反省しつつも自己紹介をする。まさかの新たな同志の発見が嬉しかったのだ。
 百華が彼女の声を聞こうと口を閉じると、呆気にとられていた女の子もハッと息を吸い込んでから名乗りを上げる。
 はじめは急に話しかけられて戸惑っていたが、次第にはにかみを見せた彼女もまた、同じ趣味を持つ人に会えたことを喜んでいるようだった。

「私は、香凜です」
「香凜ちゃん! よろしくね」
「はい……! よろしくお願いします」

 香凜の朗らかな笑顔を見た百華は早速一番好きな曲が何かを訊ねてみる。
 まだ出会ったばかりの彼女。しかし、もういくらでも語り合う準備は万全だった。



 真白と璃沙が飛行機に乗り込んだのは行列の最後の方だった。
 盗撮犯とのまさかの遭遇の様子を語っていたらいつの間にかぎりぎりの時間になっていたのだ。
 あんなにも待ちわびた飛行機に乗り遅れそうになった真白と璃沙は、機内の通路がまだ詰まっている様子を見てひとまず胸を撫でおろす。

「危なかった。これ逃したらもう今日の便は取れないよ」
「ねー! 間に合ってなにより!」

 真白の迫真の表情に璃沙は同感だと言わんばかりにふぅ、と肩の力を抜く。

「でももしもう一泊ってなっても、それはそれでよかったかも」
「まぁ分からなくもないけど仕事がね。さすがにもう休めない」
「真白の職場は忙しいんだねぇ」
「璃沙のところは休めるの?」
「理由を話せば大丈夫でしょ! なんか旅の終わりって寂しくてさ。延長できるならそれもいいなって思っちゃって」

 璃沙の能天気な笑顔に真白もつられてクスリと笑う。

「じゃ、また旅行行こうよ。今度は南の方に行く?」
「それもいいなぁ。あ、海外って手もあるよ。雄大くんに会いに行くとか?」
「あいつのために旅費かけるのいやだなぁ」
「えー、いいじゃん。ロンドン行ってみたいし」
「んー。まぁ確かに。帰ったら計画してみようか」
「いいねいいね。なんだかわくわくしてきた」

 真白が乗り気になると璃沙は嬉しそうに胸の前で拳を踊らせた。すると璃沙の陽気なダンスを笑って見ていた真白の瞳が、ふと違う場所へと吸い寄せられていく。彼女の黒目が明後日の方向を見やったことに気づいた璃沙が隣の通路に目をやると、荷物を上げ終えたばかりの今時の髪型の若者が立っていた。

「あ、汐音くん!」

 璃沙の明るい声に呼ばれた若者が二人の方を見る。璃沙と目が合った汐音は「あ」と声を出して軽く会釈をした。

「同じ便だったんだね。妹さんは?」
「近い席は取れなくて。たぶん、あっちの方」
「そうなんだ。旅行、楽しんでね」
「うん」

 返事をした汐音の視線が今度は璃沙の後方へと向かう。何事かと璃沙が後ろを振り返ると、ちょうど後ろに並んでいた紳士が咳払いをしてみせた。彼に促されて列の前方を見やれば、渋滞は解消され、璃沙と真白が通路を塞いでいる状態になっていた。

「あっ……すみません! じゃあ汐音くん、またねー」

 慌てて通路を進みながら璃沙は汐音に向かって手を振った。
 嵐のように去って行く璃沙たちを眺めつつ、汐音は照れくさそうに彼女に手を振り返す。その様子を璃沙の後ろを歩く青柳に見られていることに気づき、汐音は途端に恥ずかしくなって急いで座席に姿を隠した。

「ねぇ、次の旅行も北海道でもいいよ。あ、それかイタリア」
「なんで。まさか汐音くんとやらに会いに行く気じゃ……」
「えへへ。それは内緒ー」

 席に座るなりニヤニヤと意味深に笑う璃沙は真白の指摘にシーッと人差し指を立てた。

「もう、しょうがないなぁ」

 璃沙の移り気の早さに半ば感心しつつ、真白は座席のシートベルトを締めた。
 真白たちが席についてほどなくして、飛行機は離陸の準備に入った。離陸の瞬間の緊張を乗り越えるために冊子を読んで心を落ち着かせていた真白は、次第に浮き上がっていく機体の感覚にぎゅうっと瞼を閉じた。どうにかこのまま無事に目的地に着けますようにと祈りを込める。目には見えずとも地上が遠くなっていくのが身体に伝わってきた。
 離陸してしばらく経つとシートベルトのランプが消え、本格的に空の旅が始まっていく。
 視界の隅では客室乗務員たちが微笑みを湛えて乗客たちの安全を見守っている。

 冊子を読み終えた真白は隣に座る璃沙がいつの間にか眠っていることに気づく。
 ようやく帰路についたここまでの旅路は予想よりも長く、波乱に満ちていた。一度はこの旅行を後悔しかけた。けれど彼女の寝顔を見れば、そんな気の迷いも過ぎ去りし過去だと懐かしさすら覚える。
 旅を終えるのが寂しいと言っていた彼女の気持ちはよく分かる。名残惜しさの漂う機内の空気をいっぱいに肺に取り込み、真白は窓の外に目を向けた。外は真っ暗で、すっかり夜を迎えている。ずっと雪に覆われていたせいか夜空を見たのが随分と久しぶりに思えた。
 ふと、翼の向こうに黄金に輝く真ん丸の光が見えてくる。

「月……」

 思わず声に出た光の正体に真白の表情が無意識のうちに綻ぶ。
 束の間の輝きは堂々と飛行機を照らし、まるで自分たちのことを温かく包み込んでいるようだった。
 もしかしたらこの月は、あの大雪の裏側でずっと地上を眺めて見守っていたのかもしれない。皆の旅の起点と終点を祝福しながら、静かに、厳かに。
 そこまで考えた真白は、月面に彼の顔を思い浮かべてクスリと笑う。

「なんてね。雄大のドラマチックが移っちゃったかな」

 この短い間に色々なことを乗り越えた気がしてつい感傷的になってしまっていた。
 ただそんな自分に嫌な気もしなかった。むしろ嬉しい気持ちに心が満たされる。月光に輝く真白の瞳が柔らかに弧を描く。
 この旅の終着地を過ぎたとしても変わらずに月がそこにあると思えば、きっと今日のことを思い出せる。
 その記憶の欠片がこの先、どんなことも大丈夫だと背中を押してくれるはずだ。
 真白はそう確信して飛行ルートに視線を投げる。道のりは順調。モニターに映る地図には徐々に目的地が見えてきた。
 月夜に光の線を引き優雅に進む飛行機は、滑らかな雲を率いて今宵も乗客たちを未来まで運んでいく。


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