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1.強制リクルート
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凡庸、退屈、男性会社員。
私を評する時、大抵はこの三つの単語の羅列で済んでしまうらしい。
それを言った友人の残念な人間を見る目といったら、中々のものだった。
しかしそれは私も自覚するところであり、むしろ自負すると言った方が正しい程だった。
本来人々はもっと普通であることを感謝すべきだろう。
何故ならば普通であるという事は、順風満帆であるという事なのだから。
平凡であり続けるのは努力のいる事で、刺激的なアクシデントを踏まないようにするのもまた一苦労。
波風が一つも立たない人生は波乱万丈な人生よりも希少であるという事を、誰だって理解できるはずだ。
ゆえに私はそれを手に入れるべく十二分にこなしてきた。
勉学に励み、健康に気を使い、そうして立ちはだかる関門をいくつも通過してきた。
当然、それでも失敗をするもので、私の人生は最善とは言い難い。
だが、次善は逃さなかったつもりだ。理想と現実の折り合いをつけることには成功したはずだ。
毎日コーヒーを嗜み、夜には読書に勤しみ、週末は散歩をして過ごす。
そして少しずつ貯まる貯蓄を見ながら、老後について夢想する。
そんな『平々凡々な日常』を盤石なモノにしていたのだから。
だからだろうか。かつて『なんか詰まらないですね』と言った後輩の足元が、ひどく脆く見えたことがあったのだが、まあそれを言っても仕方がない。
私は私の事で手一杯なのだ。誰かが落とし穴に嵌ったとして、差し伸べる手などない。
ああそうだ。私は決して、英雄症候群を罹患した事は無いはずだ。
特別な『何か』や、選ばれし『存在』にされるなど真っ平御免だったはずだ。
私の幸せとは『平凡』であることで、その上、全て私の中で完結するはず、だったのだ。
「おはようございます。水徒様」
「……」
だから私は棺桶のような箱の中で謎めいた女に見下ろされ、悲鳴を噛み殺す
明らかに異常なことが、私の人生において許されざることが起きている。
はっきり言おう。女の幽霊に憑りつかれたかと思った。
だが彼女の言葉と周囲の状況は、それよりも悪い事態であることを意味していた。
先ず私はミナトという名前ではない。
第二に彼女の言葉は私の母国語ではない上、聞いた事もないはずなのに、容易に聞き取れている。
そして最も重要かつ当たり前の事だが、私のベッドは決してこんな、鉄で出来た箱にクッションを敷いたような形状ではない。
私の寝床は激安のパイプベッドだ。
内心の戸惑いがパニックになる前に押し殺しつつ、身を起こせば……眩暈がしてきた。
ああ、明らかだ。私の愛すべきワンルームではない。
これほど高い天井はマンションではありえない。その上、ゴシック調の古めかしい装飾とそれが古びる様を見る事など、日本ではまず無理な筈だ。
ここは悪夢か。いや悪夢にしては全てが生々しい。
クッションの手触りも、埃臭い空気も、肌寒さすら。
それに私はここに来る前の事を微かに覚えている。
ワンルームでコーヒーを淹れていた時……。
ヤカンを持つ手が、黒くなり、指先が解けるように溶けて……。
「……」
指を確認すれば、今はごくごく普通の健全な指だった。
アレは一体何だったのか。否それよりもそんな事よりも。
私が、必死に築き上げてきた日々は……何処だ。
「おはようございます」
「おはようございます。初めまして、で良かったですか?」
挨拶を丁寧に返して置く。私の凡庸であり続ける気質がそうさせた。
一般的な礼儀を持ってすれば、この異常事態も過ぎ去ってくれると、祈っていた節もあったが。
「はい。私はソフィア。貴方のお世話を致します、朱華姫でございます」
「はねず、き?」
「貴方は災厄を封ずる器、私はそれを支える者でございます」
ああしかし、叩きつけられる異常な文言の数々。私の願いは聞き届けられなかったようだ。
そして思い出した。
散々、たっぷりと人生訓を御高説していたというのに、私はすっかり忘れていたのだ。
人生の落とし穴とはいくら注意しようと避けようもない、理不尽なモノであると。
私が作った慎ましくも居心地の良い居住空間も、社会で築き上げた地位も、コツコツ貯めた老後資金すら、全ては水の泡となる可能性があるのだと。
それを直感で感じてしまった。
「私は佐是 要と言います。初めまして、ソフィアさん。しかし、初対面で言うのも大変失礼と重々承知なのですが少々……」
「?」
「ふて寝をしてもよろしいですか?」
「どうぞ。おやすみ下さい」
初対面の人間にこんな事を頼むなど、一般常識を愛する私にあってならない事ではある。
が、最善を得られないなら次善に甘んじなければならず、最悪を免れる為には犠牲が必要なこともある。
今、あらゆる泣き言を押し殺すには、先ずは硬く目を閉じる必要があった。
大の大人が泣き喚く様など、誰も見たくは無いだろう。
人生には避けようもない理不尽な落とし穴が幾つもある。
しかし私が落ちた落とし穴は、どれほど深く暗いものなのか。
それを語るはソフィア、朱華姫という謎めいた職業に就くである。
纏う服は黒く古めかしい修道服だが、それが喪服のように見えるのは着ている人間の表情のせいだろう。
彼女には全く感情が無かった。表情を伺う事を『顔色を見る』というが、それならば彼女の顔色は無色だった。
黒い服に無色の表情、モノクロに染め上げられた淑女とでも言えばいいか。
唯一の色彩と言えば胸を飾り立てる緑のブローチだが、それすら物悲しく見えてくる。
モノクロの淑女は質素な教会のような建物を案内しながら、これまた色の一切ない声音で説明を続ける。
「この世界はかつて王と信徒の加護により幸福に満たされていました。いまや石板でしかうかがい知ることのできない、豊かな時代があったのです」
歴史を残すのは為政者自身だ。悪い事など書きやしないだろう。
だから外様の私は積み上がった歴史の上に立つ、この建造物から察するしかない。
比較的古そうな……おそらく教会だろう。礼拝堂らしきものがあったので多分そうだ。
しかし古いと言っても歴史的建造物のような雰囲気は無いので、恐らく何百年を耐え抜いてはいない。
作りは豪華だが中身は質素そのもので、最低限の家具と設備で最低限維持し続けているのが見て取れる。
最低限。そう、最低限だった。
質素と言ったが私にはもっと適切な言葉があると知っている。
陰気。終末感すら感じさせるほどの陰りが支配している。
「かつて、と言う事は今は違うのですね」
「王達は全て倒れました。三つの災厄が牙を剥いたせいです」
三つの災厄か。聖書に乗りそうな出来事だ。
もしここに聖書があるなら、私のものにはもう一つ災厄を書き足して置こう。
拉致というのはさながら災厄に等しいのだと。
「しかし王達は私達に最後の力を授けてくれました。あなた方水徒を呼ぶ力です。それによって今、世界は災厄に襲われながらも小康状態を保っています」
「そうですか。……それが災厄に抵抗する唯一の術なのでしょうか? 自分で言うのもなんですが、私はただの小市民ですが」
「私達が求めているのは力ではなくその体質です。私達と貴方では体の作りが違うのです」
「作りですか? 一見して変わらないように見えますが」
「外見は、何も。ですが流れるものが違うのです」
そういうとソフィアが急に掌を上に向け、ポケットからナイフを取り出す。
かと思えば、自身の手のひらを切り裂いた。
「……」
思わず息を飲んだのは、急激な自傷行為に及んだ異常さもあったが、なによりその結果のせいだった。
彼女の傷から溢れたのは血ではなく、赤い霧のような物だったのだ。
ソフィアの血潮は、血脈に流れるものは……霧状の物質だった。
「我々の血では、災厄を閉じ込める事は出来ないのです。水徒様の中に流れる血液だけが、彼等を溶かし封じる事が出来るのです」
「……なるほど」
異常事態ではあるが、そんな事を言っていたら埒が明かない。
そもそも今朝の奇妙な出来事以来、異常続きなのだ。細かい事には目を瞑ろう。
目を瞑って、彼等の要求を考える。
彼等は災厄を封じ込めたい。その為には異人の血が必要だった。だから私を呼んだ。
些事を無視すればひどく簡単な話だ。トイレが壊れたから業者を呼んだ、というレベルの話である。
問題があるとするならば、彼女達が呼んだ『業者』が、どういう手順で『故障』を治せばいいかサッパリ分からない事だけだった。
「具体的に、貴方は私に何をさせたいのですか? 何度も言うようですが私は一般人、ただの人間です。祈祷も祝詞も上げられないのです」
「その必要はありません」
階段を上れば踊り場に、その大きな窓から外が見える。
細長い窓だった。景色も外も良く見えた。
そこを飛び回る竜と、それへ光の塊を投射する人の姿も。
「あのように、災厄を狩り尽くしていただければ問題はありません。後は災厄の骸から力が勝手に貴方の血へと流れ込みます」
「……」
問題だらけである。
ふざけるな。
立ち眩みに効くツボというのは何処にあるのだろうか。ああ、またふて寝をしたくなってきた。
が、しかしここにはベッドなどなく、そして喚き散らすわけにもいかない。
俺に与えられた選択肢は、折れかけた精神を立て直す以外になかった。
否、何を今更なことを。
そんな文言がふと脳裏をよぎる。
恐らくあまりの衝撃で脳が強制終了し、再起動したのだろう。
相変わらずの体調ではあるが、脳がしっかり論理的に動き出す。
そもそも心が折れようとやらねばならない事なんて、世の中には幾らでもあるだろう。
何せ社会は理不尽そのもの。被雇用者とは聞こえはいいが、労基法の端々が形骸化している以上、賃金の出る奴隷と変わらない。
躁鬱になろうと営業に出なければならない人間を見たことがあるはずだ。
骨が折れようと工場に行かなければならない人間の存在を知っていたはずだ。
それを素晴らしい事とは思わない。しかし生きる為にはそう言ったあがきが必須なのだ。
そしてそれは何処に居ようと変わらない筈だ。祖国に居ようと他国に居ようと。
異世界に行ったとしても。
「ソフィアさん、私は帰宅できるのでしょうか?」
「ここが貴方の家です。貴方を侵すモノのない安全な場所です」
「そうですか」
予想通り、帰還の目途もない。それを理性的に受け止める。
結構なことだ。背水の陣のお膳立ては出来上がっている。
それなら私も腹を容易に括れるというものだ。
腹を括って、問題への取り組みなり逃避なりを検討できる。
「私は竜殺しなどしたことがありません。人とも戦ったことがありません。ご期待に副えるかどうか……」
「ご安心ください。だからこそ朱華姫が居るのです。さぁ水徒様。どうぞこちらへ」
さて、せいぜい足掻くとしよう。
コーヒー、読書、散歩の為に。
私を評する時、大抵はこの三つの単語の羅列で済んでしまうらしい。
それを言った友人の残念な人間を見る目といったら、中々のものだった。
しかしそれは私も自覚するところであり、むしろ自負すると言った方が正しい程だった。
本来人々はもっと普通であることを感謝すべきだろう。
何故ならば普通であるという事は、順風満帆であるという事なのだから。
平凡であり続けるのは努力のいる事で、刺激的なアクシデントを踏まないようにするのもまた一苦労。
波風が一つも立たない人生は波乱万丈な人生よりも希少であるという事を、誰だって理解できるはずだ。
ゆえに私はそれを手に入れるべく十二分にこなしてきた。
勉学に励み、健康に気を使い、そうして立ちはだかる関門をいくつも通過してきた。
当然、それでも失敗をするもので、私の人生は最善とは言い難い。
だが、次善は逃さなかったつもりだ。理想と現実の折り合いをつけることには成功したはずだ。
毎日コーヒーを嗜み、夜には読書に勤しみ、週末は散歩をして過ごす。
そして少しずつ貯まる貯蓄を見ながら、老後について夢想する。
そんな『平々凡々な日常』を盤石なモノにしていたのだから。
だからだろうか。かつて『なんか詰まらないですね』と言った後輩の足元が、ひどく脆く見えたことがあったのだが、まあそれを言っても仕方がない。
私は私の事で手一杯なのだ。誰かが落とし穴に嵌ったとして、差し伸べる手などない。
ああそうだ。私は決して、英雄症候群を罹患した事は無いはずだ。
特別な『何か』や、選ばれし『存在』にされるなど真っ平御免だったはずだ。
私の幸せとは『平凡』であることで、その上、全て私の中で完結するはず、だったのだ。
「おはようございます。水徒様」
「……」
だから私は棺桶のような箱の中で謎めいた女に見下ろされ、悲鳴を噛み殺す
明らかに異常なことが、私の人生において許されざることが起きている。
はっきり言おう。女の幽霊に憑りつかれたかと思った。
だが彼女の言葉と周囲の状況は、それよりも悪い事態であることを意味していた。
先ず私はミナトという名前ではない。
第二に彼女の言葉は私の母国語ではない上、聞いた事もないはずなのに、容易に聞き取れている。
そして最も重要かつ当たり前の事だが、私のベッドは決してこんな、鉄で出来た箱にクッションを敷いたような形状ではない。
私の寝床は激安のパイプベッドだ。
内心の戸惑いがパニックになる前に押し殺しつつ、身を起こせば……眩暈がしてきた。
ああ、明らかだ。私の愛すべきワンルームではない。
これほど高い天井はマンションではありえない。その上、ゴシック調の古めかしい装飾とそれが古びる様を見る事など、日本ではまず無理な筈だ。
ここは悪夢か。いや悪夢にしては全てが生々しい。
クッションの手触りも、埃臭い空気も、肌寒さすら。
それに私はここに来る前の事を微かに覚えている。
ワンルームでコーヒーを淹れていた時……。
ヤカンを持つ手が、黒くなり、指先が解けるように溶けて……。
「……」
指を確認すれば、今はごくごく普通の健全な指だった。
アレは一体何だったのか。否それよりもそんな事よりも。
私が、必死に築き上げてきた日々は……何処だ。
「おはようございます」
「おはようございます。初めまして、で良かったですか?」
挨拶を丁寧に返して置く。私の凡庸であり続ける気質がそうさせた。
一般的な礼儀を持ってすれば、この異常事態も過ぎ去ってくれると、祈っていた節もあったが。
「はい。私はソフィア。貴方のお世話を致します、朱華姫でございます」
「はねず、き?」
「貴方は災厄を封ずる器、私はそれを支える者でございます」
ああしかし、叩きつけられる異常な文言の数々。私の願いは聞き届けられなかったようだ。
そして思い出した。
散々、たっぷりと人生訓を御高説していたというのに、私はすっかり忘れていたのだ。
人生の落とし穴とはいくら注意しようと避けようもない、理不尽なモノであると。
私が作った慎ましくも居心地の良い居住空間も、社会で築き上げた地位も、コツコツ貯めた老後資金すら、全ては水の泡となる可能性があるのだと。
それを直感で感じてしまった。
「私は佐是 要と言います。初めまして、ソフィアさん。しかし、初対面で言うのも大変失礼と重々承知なのですが少々……」
「?」
「ふて寝をしてもよろしいですか?」
「どうぞ。おやすみ下さい」
初対面の人間にこんな事を頼むなど、一般常識を愛する私にあってならない事ではある。
が、最善を得られないなら次善に甘んじなければならず、最悪を免れる為には犠牲が必要なこともある。
今、あらゆる泣き言を押し殺すには、先ずは硬く目を閉じる必要があった。
大の大人が泣き喚く様など、誰も見たくは無いだろう。
人生には避けようもない理不尽な落とし穴が幾つもある。
しかし私が落ちた落とし穴は、どれほど深く暗いものなのか。
それを語るはソフィア、朱華姫という謎めいた職業に就くである。
纏う服は黒く古めかしい修道服だが、それが喪服のように見えるのは着ている人間の表情のせいだろう。
彼女には全く感情が無かった。表情を伺う事を『顔色を見る』というが、それならば彼女の顔色は無色だった。
黒い服に無色の表情、モノクロに染め上げられた淑女とでも言えばいいか。
唯一の色彩と言えば胸を飾り立てる緑のブローチだが、それすら物悲しく見えてくる。
モノクロの淑女は質素な教会のような建物を案内しながら、これまた色の一切ない声音で説明を続ける。
「この世界はかつて王と信徒の加護により幸福に満たされていました。いまや石板でしかうかがい知ることのできない、豊かな時代があったのです」
歴史を残すのは為政者自身だ。悪い事など書きやしないだろう。
だから外様の私は積み上がった歴史の上に立つ、この建造物から察するしかない。
比較的古そうな……おそらく教会だろう。礼拝堂らしきものがあったので多分そうだ。
しかし古いと言っても歴史的建造物のような雰囲気は無いので、恐らく何百年を耐え抜いてはいない。
作りは豪華だが中身は質素そのもので、最低限の家具と設備で最低限維持し続けているのが見て取れる。
最低限。そう、最低限だった。
質素と言ったが私にはもっと適切な言葉があると知っている。
陰気。終末感すら感じさせるほどの陰りが支配している。
「かつて、と言う事は今は違うのですね」
「王達は全て倒れました。三つの災厄が牙を剥いたせいです」
三つの災厄か。聖書に乗りそうな出来事だ。
もしここに聖書があるなら、私のものにはもう一つ災厄を書き足して置こう。
拉致というのはさながら災厄に等しいのだと。
「しかし王達は私達に最後の力を授けてくれました。あなた方水徒を呼ぶ力です。それによって今、世界は災厄に襲われながらも小康状態を保っています」
「そうですか。……それが災厄に抵抗する唯一の術なのでしょうか? 自分で言うのもなんですが、私はただの小市民ですが」
「私達が求めているのは力ではなくその体質です。私達と貴方では体の作りが違うのです」
「作りですか? 一見して変わらないように見えますが」
「外見は、何も。ですが流れるものが違うのです」
そういうとソフィアが急に掌を上に向け、ポケットからナイフを取り出す。
かと思えば、自身の手のひらを切り裂いた。
「……」
思わず息を飲んだのは、急激な自傷行為に及んだ異常さもあったが、なによりその結果のせいだった。
彼女の傷から溢れたのは血ではなく、赤い霧のような物だったのだ。
ソフィアの血潮は、血脈に流れるものは……霧状の物質だった。
「我々の血では、災厄を閉じ込める事は出来ないのです。水徒様の中に流れる血液だけが、彼等を溶かし封じる事が出来るのです」
「……なるほど」
異常事態ではあるが、そんな事を言っていたら埒が明かない。
そもそも今朝の奇妙な出来事以来、異常続きなのだ。細かい事には目を瞑ろう。
目を瞑って、彼等の要求を考える。
彼等は災厄を封じ込めたい。その為には異人の血が必要だった。だから私を呼んだ。
些事を無視すればひどく簡単な話だ。トイレが壊れたから業者を呼んだ、というレベルの話である。
問題があるとするならば、彼女達が呼んだ『業者』が、どういう手順で『故障』を治せばいいかサッパリ分からない事だけだった。
「具体的に、貴方は私に何をさせたいのですか? 何度も言うようですが私は一般人、ただの人間です。祈祷も祝詞も上げられないのです」
「その必要はありません」
階段を上れば踊り場に、その大きな窓から外が見える。
細長い窓だった。景色も外も良く見えた。
そこを飛び回る竜と、それへ光の塊を投射する人の姿も。
「あのように、災厄を狩り尽くしていただければ問題はありません。後は災厄の骸から力が勝手に貴方の血へと流れ込みます」
「……」
問題だらけである。
ふざけるな。
立ち眩みに効くツボというのは何処にあるのだろうか。ああ、またふて寝をしたくなってきた。
が、しかしここにはベッドなどなく、そして喚き散らすわけにもいかない。
俺に与えられた選択肢は、折れかけた精神を立て直す以外になかった。
否、何を今更なことを。
そんな文言がふと脳裏をよぎる。
恐らくあまりの衝撃で脳が強制終了し、再起動したのだろう。
相変わらずの体調ではあるが、脳がしっかり論理的に動き出す。
そもそも心が折れようとやらねばならない事なんて、世の中には幾らでもあるだろう。
何せ社会は理不尽そのもの。被雇用者とは聞こえはいいが、労基法の端々が形骸化している以上、賃金の出る奴隷と変わらない。
躁鬱になろうと営業に出なければならない人間を見たことがあるはずだ。
骨が折れようと工場に行かなければならない人間の存在を知っていたはずだ。
それを素晴らしい事とは思わない。しかし生きる為にはそう言ったあがきが必須なのだ。
そしてそれは何処に居ようと変わらない筈だ。祖国に居ようと他国に居ようと。
異世界に行ったとしても。
「ソフィアさん、私は帰宅できるのでしょうか?」
「ここが貴方の家です。貴方を侵すモノのない安全な場所です」
「そうですか」
予想通り、帰還の目途もない。それを理性的に受け止める。
結構なことだ。背水の陣のお膳立ては出来上がっている。
それなら私も腹を容易に括れるというものだ。
腹を括って、問題への取り組みなり逃避なりを検討できる。
「私は竜殺しなどしたことがありません。人とも戦ったことがありません。ご期待に副えるかどうか……」
「ご安心ください。だからこそ朱華姫が居るのです。さぁ水徒様。どうぞこちらへ」
さて、せいぜい足掻くとしよう。
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