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4 競馬場
しおりを挟む一緒になってから、「道で逢っても話もしなくなって、だのに何で突然尋ねてきて、求婚になったの」と春菜は訊いた。信吾の答えは「春ちゃんは小さい時から好きやった。ライトでポロリ、ポロリしたんは、下手ではなくセカンドの春菜を見てばかりいたからだ」と何時にない冗談を言い、 「春菜が高校の制服を着るようになって、結んだ胸元のリボンに目が行くようになって、異性として完全に意識してしまった。そうしたら口が聞けなくなって、口が聞けなくなると、思いは膨れて、心臓が風船の様にはちきれそうになって、このままでは死んでしまうかと思って、絞ますために出向いた。まさか、首を縦に振るなんて考えもしなかった」と話した。 「春菜は何で首を縦に振った?」と訊いてきたので、春菜は「いっしょ」と答えておいた。
春菜の妻ぶりは申し分なかった。両親を気遣たし、従業員には配慮が行き届いたし、てきぱき指示を与え、元気な男の子と女の子を産んで、よき母であった。信吾が苦手とした帳簿類もこなした。福島に何軒か大口の得意先が出来、従業員も増やして5人になったのも、春菜の営業努力の賜物であった。 泰明も卒業して帰って来て、医院を継いでいた。丁寧な治療と、優しい気配りは、若先生の方がいいとなって、泰明の父の診療室は暇になった。「彼奴は、俺の商売敵だ」と老医師は喜んだ。
泰明はよく尋ねて来た。春菜は兄、泰明と信吾が「兄さん」「信ちゃん」と呼び合い、兄弟になったことが、ことのほか嬉しかった。一方、信吾は、春菜の〈歯科医〉の道を中断させてしまった、負い目をいつも持っていた。「お兄ちゃんと一緒の学校に行きたかっただけ」と春菜に聞かされていてもだった。 仕事場と住まいの両方は手狭になって、近くの古家を仕事場に借り、その裏に隠居部屋を作って両親を住まわした。信吾の父は好きな海釣りをもっぱらにし、忙しい時だけ手伝った。母は仕事場に出てくる春菜に代わって、家事や孫の世話に明け暮れた。信吾は印刷の機械も思い切って新しいものに切り替えた。
蓄えを叩いたのと、機械を担保にした手形で調達した。借入もなく堅実にやっては来たが、それが逆に銀行実績にならず、小さな印刷屋の大きな設備投資を銀行は相手にしなかったのだ。 明日までに80万円の決済金が要った。でないと、手形は不渡りとなってしまい、機械は差し押さえられる。福島の集金は営業を兼ねて春菜の役割であった。帰りには百貨店に寄って、買い物をしてくるのが春菜の月一の楽しみだった。 大抵は家族のための物だったが、たまには自分の洋服を買ってきて、「どうー?」と鏡の前でポーズをとることもあった。生憎その日は、上の男の子が熱を出して学校を休んだので、信吾が福島市内の得意先を回った。
その日は思いのほか順調に集金が出来、午前中に予定より20万円も多く集金できていた。魔がさすとはよく言ったものだ。気分がホットし、信吾は何故か直ぐに帰る気がしなかった。 真っ昼間から一杯やるわけにもいかない。気がつけば信吾は競馬場の中にいた。春菜と結婚して早々のころ一度競馬にはまって、家業を省みず春菜に苦労をかけたことがあった。二度と競馬場に近寄るまいと誓った。
だから、競馬のある福島市内の得意先の集金は春菜に任せたのだった。春菜は集金だけでなく、わずかあった得意先をつてに、何軒か開拓していたのだった。今回は明日までに必ず必要な金額だったので、春菜が行けないとなると、親方の信吾が出向くしかなかった。
久しぶりの競馬場の賑わいの雰囲気に、信吾は圧倒された。単調な日々の生活がどこか遠くに感じられた。午後のレースの一番目は2万張って6万円取れた。 取れたのはそれだけで、最終レースが終わったときには、10万円が残されただけだった。80万円を切ったとき思い切って帰ればよかった。僅かな金額を取り返そうとして深みに嵌ってしまった。博打とはそんなものだと懲りた筈なのに・・・。 途方にくれて競馬場の玄関前に立ち尽くしていた。
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