5 / 48
グランディ帝国編-第一章
第五話 「統帥セリーヌ」
しおりを挟む
朝霧が、分厚くも沈黙した灰色の毛布のように、砕石の谷の隅々まで満たしていた。
セリーヌは、とある石塊の上に静かに立っていた。その身を包むのは、青と白を基調とした精巧な革鎧。墨のように黒い長髪は寸分の隙もなく後ろで結い上げられ、紺碧の瞳が、霧の向こうにあるルカドナ要塞を凝視している。
副官である妖狼族のカイエンが、音もなく彼女の傍らに立った。銀髪を高く束ね、狼の耳が微かに動く。その琥珀色の瞳には、主君への気遣いが滲んでいた。
「セリーヌ様、あまりお休みになられていないのではありませんか?」
カイエンの低い声が、彼女を深い思索から引き戻した。セリーヌは、無意識のうちに固く握りしめていた左手を、ゆっくりと開く。
――その掌には、四つの半月状の爪痕が痛々しく残っていた。
「……問題ない」
彼女は短く答え、眉尻についた湿りを払った。だが、掌の爪痕がもたらす鋭い痛みが、昨夜の激しい感情を鮮明に呼び覚ます。まるで、昨日のことのように……いや、つい先程のことのように。
あの、卓を叩きつけた、己の手の痛みと共に――
……
バン!――
「馬鹿な真似を!」
セリーヌの手の平が、力任せに卓の上を叩いた。薄荷茶の入った銀の杯が、甲高い音を立てて跳ねる。その涼やかな衝突音が、天幕の中に木霊した。 ジェイミーの体が、気付かれぬほど微かにこわばる。
「もっと早く……あの子の計画の全貌を知っていれば。独断で行動させるのではなかった」
やがて彼女はこめかみを揉むと、両手を背後で組み、もう一度、長く重い溜息を落とした。
「こうなると分かっていれば」
「いっそ兵を率いて正面から防衛線を突破させた方がマシだった。少なくとも、彼女たちを戦場で死なせてやれた。墓石に『薬で倒された愚か者』などと刻まれるより、よほど名誉なことだ! ……ああ」
彼女が、このような卑劣な手段を用いてこの戦争に勝利することを、決して是としないのは明らかだった。
「……統帥様、今は時間がありません。我々に、もはや選択の余地はないのです。エドの計画は、確かに本意ではありませんが、あるいは、我々が掴みうる唯一の勝機やもしれません……」
「唯一の、一縷の勝機だと?」
セリーヌの表情は険しく、ジェイミーを射抜く眼差しは、やはり刃のようだった。
「あの子は、我ら魔族の軍が、グランディの防衛線を突破できぬとでも思っているのか!?」
彼女はジェイミーの目の前に立ち、その口調には信条を貫こうとする一途さが宿っていた。
「先日の月蝕の夜、我らは僅か三小隊で、奴らの東部戦線を切り裂いてみせた……。」「もし、民間人の犠牲を考慮しなかったならば……! 我らが力尽くでこの要塞を攻略しなかったのは、ひとえに、無用な殺戮を望まなかったからに他ならない! 我らが求める勝利は、断じて武力で人を屈服させることではない! 我らが求めるのは民の心だ! 我らが望むのは、いつの日か、人が我ら魔族に対し、偏見を抱かなくなる世界なのだ!」
彼女はジェイミーを見つめた。その瞳の奥に、一瞬、失望の色がよぎる。
「……もういい」
セリーヌは、まるで全てを諦めたかのように手を振った。その声は、ひどく疲れていた。
「下がって、カイエンとフィリスを呼んでこい。私の天幕で軍議を開くと伝えろ……」
ジェイミーは命を受けると、セリーヌに一礼し、天幕を後にした。 後に残されたのはセリーヌただ一人。揺らめく燭台の炎の下で、彼女は胸中に渦巻く波と向き合いながら、再び、深い思索へと沈んでいった。
セリーヌは、とある石塊の上に静かに立っていた。その身を包むのは、青と白を基調とした精巧な革鎧。墨のように黒い長髪は寸分の隙もなく後ろで結い上げられ、紺碧の瞳が、霧の向こうにあるルカドナ要塞を凝視している。
副官である妖狼族のカイエンが、音もなく彼女の傍らに立った。銀髪を高く束ね、狼の耳が微かに動く。その琥珀色の瞳には、主君への気遣いが滲んでいた。
「セリーヌ様、あまりお休みになられていないのではありませんか?」
カイエンの低い声が、彼女を深い思索から引き戻した。セリーヌは、無意識のうちに固く握りしめていた左手を、ゆっくりと開く。
――その掌には、四つの半月状の爪痕が痛々しく残っていた。
「……問題ない」
彼女は短く答え、眉尻についた湿りを払った。だが、掌の爪痕がもたらす鋭い痛みが、昨夜の激しい感情を鮮明に呼び覚ます。まるで、昨日のことのように……いや、つい先程のことのように。
あの、卓を叩きつけた、己の手の痛みと共に――
……
バン!――
「馬鹿な真似を!」
セリーヌの手の平が、力任せに卓の上を叩いた。薄荷茶の入った銀の杯が、甲高い音を立てて跳ねる。その涼やかな衝突音が、天幕の中に木霊した。 ジェイミーの体が、気付かれぬほど微かにこわばる。
「もっと早く……あの子の計画の全貌を知っていれば。独断で行動させるのではなかった」
やがて彼女はこめかみを揉むと、両手を背後で組み、もう一度、長く重い溜息を落とした。
「こうなると分かっていれば」
「いっそ兵を率いて正面から防衛線を突破させた方がマシだった。少なくとも、彼女たちを戦場で死なせてやれた。墓石に『薬で倒された愚か者』などと刻まれるより、よほど名誉なことだ! ……ああ」
彼女が、このような卑劣な手段を用いてこの戦争に勝利することを、決して是としないのは明らかだった。
「……統帥様、今は時間がありません。我々に、もはや選択の余地はないのです。エドの計画は、確かに本意ではありませんが、あるいは、我々が掴みうる唯一の勝機やもしれません……」
「唯一の、一縷の勝機だと?」
セリーヌの表情は険しく、ジェイミーを射抜く眼差しは、やはり刃のようだった。
「あの子は、我ら魔族の軍が、グランディの防衛線を突破できぬとでも思っているのか!?」
彼女はジェイミーの目の前に立ち、その口調には信条を貫こうとする一途さが宿っていた。
「先日の月蝕の夜、我らは僅か三小隊で、奴らの東部戦線を切り裂いてみせた……。」「もし、民間人の犠牲を考慮しなかったならば……! 我らが力尽くでこの要塞を攻略しなかったのは、ひとえに、無用な殺戮を望まなかったからに他ならない! 我らが求める勝利は、断じて武力で人を屈服させることではない! 我らが求めるのは民の心だ! 我らが望むのは、いつの日か、人が我ら魔族に対し、偏見を抱かなくなる世界なのだ!」
彼女はジェイミーを見つめた。その瞳の奥に、一瞬、失望の色がよぎる。
「……もういい」
セリーヌは、まるで全てを諦めたかのように手を振った。その声は、ひどく疲れていた。
「下がって、カイエンとフィリスを呼んでこい。私の天幕で軍議を開くと伝えろ……」
ジェイミーは命を受けると、セリーヌに一礼し、天幕を後にした。 後に残されたのはセリーヌただ一人。揺らめく燭台の炎の下で、彼女は胸中に渦巻く波と向き合いながら、再び、深い思索へと沈んでいった。
2
あなたにおすすめの小説
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
魚夢ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
花鳥見聞録
木野もくば
ファンタジー
花の妖精のルイは、メジロのモクの背中に乗って旅をしています。ルイは記憶喪失でした。自分が花の妖精だったことしか思い出せません。失くした記憶を探すため、さまざまな世界を冒険します。
記憶を取り戻して真実を知った時、ルイとモクの選ぶ道は?
クラス転移したからクラスの奴に復讐します
wrath
ファンタジー
俺こと灞熾蘑 煌羈はクラスでいじめられていた。
ある日、突然クラスが光輝き俺のいる3年1組は異世界へと召喚されることになった。
だが、俺はそこへ転移する前に神様にお呼ばれし……。
クラスの奴らよりも強くなった俺はクラスの奴らに復讐します。
まだまだ未熟者なので誤字脱字が多いと思いますが長〜い目で見守ってください。
閑話の時系列がおかしいんじゃない?やこの漢字間違ってるよね?など、ところどころにおかしい点がありましたら気軽にコメントで教えてください。
追伸、
雫ストーリーを別で作りました。雫が亡くなる瞬間の心情や死んだ後の天国でのお話を書いてます。
気になった方は是非読んでみてください。
パーティーを追放されるどころか殺されかけたので、俺はあらゆる物をスキルに変える能力でやり返す
名無し
ファンタジー
パーティー内で逆境に立たされていたセクトは、固有能力取得による逆転劇を信じていたが、信頼していた仲間に裏切られた上に崖から突き落とされてしまう。近隣で活動していたパーティーのおかげで奇跡的に一命をとりとめたセクトは、かつての仲間たちへの復讐とともに、助けてくれた者たちへの恩返しを誓うのだった。
処刑された勇者は二度目の人生で復讐を選ぶ
シロタカズキ
ファンタジー
──勇者は、すべてを裏切られ、処刑された。
だが、彼の魂は復讐の炎と共に蘇る──。
かつて魔王を討ち、人類を救った勇者 レオン・アルヴァレス。
だが、彼を待っていたのは称賛ではなく、 王族・貴族・元仲間たちによる裏切りと処刑だった。
「力が強すぎる」という理由で異端者として断罪され、広場で公開処刑されるレオン。
国民は歓喜し、王は満足げに笑い、かつての仲間たちは目を背ける。
そして、勇者は 死んだ。
──はずだった。
十年後。
王国は繁栄の影で腐敗し、裏切り者たちは安穏とした日々を送っていた。
しかし、そんな彼らの前に死んだはずの勇者が現れる。
「よくもまあ、のうのうと生きていられたものだな」
これは、英雄ではなくなった男の復讐譚。
彼を裏切った王族、貴族、そしてかつての仲間たちを絶望の淵に叩き落とすための第二の人生が、いま始まる──。
転落貴族〜千年に1人の逸材と言われた男が最底辺から成り上がる〜
ぽいづん
ファンタジー
ガレオン帝国の名門貴族ノーベル家の長男にして、容姿端麗、眉目秀麗、剣術は向かうところ敵なし。
アレクシア・ノーベル、人は彼のことを千年に1人の逸材と評し、第3皇女クレアとの婚約も決まり、順風満帆な日々だった
騎士学校の最後の剣術大会、彼は賭けに負け、1年間の期限付きで、辺境の国、ザナビル王国の最底辺ギルドのヘブンズワークスに入らざるおえなくなる。
今までの貴族の生活と正反対の日々を過ごし1年が経った。
しかし、この賭けは罠であった。
アレクシアは、生涯をこのギルドで過ごさなければいけないということを知る。
賭けが罠であり、仕組まれたものと知ったアレクシアは黒幕が誰か確信を得る。
アレクシアは最底辺からの成り上がりを決意し、復讐を誓うのであった。
小説家になろうにも投稿しています。
なろう版改稿中です。改稿終了後こちらも改稿します。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
復讐完遂者は吸収スキルを駆使して成り上がる 〜さあ、自分を裏切った初恋の相手へ復讐を始めよう〜
サイダーボウイ
ファンタジー
「気安く私の名前を呼ばないで! そうやってこれまでも私に付きまとって……ずっと鬱陶しかったのよ!」
孤児院出身のナードは、初恋の相手セシリアからそう吐き捨てられ、パーティーを追放されてしまう。
淡い恋心を粉々に打ち砕かれたナードは失意のどん底に。
だが、ナードには、病弱な妹ノエルの生活費を稼ぐために、冒険者を続けなければならないという理由があった。
1人決死の覚悟でダンジョンに挑むナード。
スライム相手に死にかけるも、その最中、ユニークスキル【アブソープション】が覚醒する。
それは、敵のLPを吸収できるという世界の掟すらも変えてしまうスキルだった。
それからナードは毎日ダンジョンへ入り、敵のLPを吸収し続けた。
増やしたLPを消費して、魔法やスキルを習得しつつ、ナードはどんどん強くなっていく。
一方その頃、セシリアのパーティーでは仲間割れが起こっていた。
冒険者ギルドでの評判も地に落ち、セシリアは徐々に追いつめられていくことに……。
これは、やがて勇者と呼ばれる青年が、チートスキルを駆使して最強へと成り上がり、自分を裏切った初恋の相手に復讐を果たすまでの物語である。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる