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プロローグ

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 ――私にはよく見る夢がある。それは多分二度と会えない初恋の男の子が出てくる夢だ。どんな夢かは目が覚めると忘れてしまうけどハッキリと覚えているのは、カエルのアクセサリーを私の手の平に握らせてくれるところでいつも目が覚めてしまう……。布団に潜ってもう少しだけそこにいたいのに、そんな感覚に包まれることが度々ある。



 ――十年前――

 修学旅行が待ち遠しくて、なかなか寝れなくて結局眠りについたのは今朝の二時頃だと思う。   

 今、私達は奈良公園。夢中でカメラを回し人懐っこい鹿を撮っていたけど、親友の希美の顔が真っ赤になってた。

「希美っ。バスで休んだほうがいいんじゃない?」

「ごめん。琴美が鹿に会えるの凄く楽しみにしてたのに。ほんとごめんね。さき戻ってていい?」

「ううん。いいの。気にしないで、一緒に行った方がいいよね?」

「心配ないわ……大丈夫。ひとりでいけるから」

「ハイ、ハイ、ハイっ!」

 テンションの高い班長の薫が、私たちの間に強引に割り込んで、希美の手を強引にグイッと引っ張って連れていく。

「いいよ。私、班長だからさー。もー、琴美も少ししたら来るのよ」

 実は、この三人の友達関係は少し複雑で。希美を中心に私と薫は友達として繋がっているだけだった。

 つまり、私と薫はそれほど仲がいいわけじゃない。どちらが希美の一番の友達か私に見せつけたいから薫はこんな態度をとっていたのだ。

 分かってる。周りから見たら仲良し女子三人組に見えるかもしれないけど、そうじゃないことぐらいは。

 でも、薫は毎日塾に通って勉強ばかりさせられているらしい。休みの日だって親に家に閉じ込められて勉強させられているとクラスでも噂になっている。私は希美と休みになれば遊べるのだから。ここは薫に頼もうと思った。

 それでも、友達を取られた感覚になるのは仕方ないよね。気持ちを切り替えようと、黄色い帽子を被り直し、他の鹿を触りに行くことにした。

 モフモフの茶色い毛を毛並みに沿って撫でてあげると鹿は気持ちよさそうに目を細めてそんな私を癒してくれる。
 
 日差しは眩しく気持ちの良い風が身体を通り過ぎる。緑の草原に寝そべる鹿をその隣で私も座り触っていたら、睡魔が徐々に襲ってきて、うとうと眠ってしまったようだ。

「やばっ」

 その場からすぐに飛び起きて、辺りを見回すも、同じ学校の生徒が誰一人としていなかった。すぐさま、さっき乗ってきたバスの停まる駐車場へ戻るも、あるはずのバスが見当たらない。

「うそでしょ……」

 その足で公園に戻るも、私の知る生徒や先生やはり誰もいない。まさか、そんなわけないよね。置いていかれた?

 ――どうしよう。どうしよう。どうしたらいいのよおおおおおおおーー。

 頭の中がぐちゃぐちゃになり、思わず、その場にへたり混んでしまう。多分薫に嫉妬して、希美のことほったらかしたせいだ。バチが当たった。しばらく俯いていると、誰かが近づいてくる足音がした。

「なんで泣いてるの?」

 目を擦りながら見上げるとニヤついた男子が、私の顔をジロジロ見ていた。泣き顔なんて見られたくないから顔を逸らしながら答えた。

「置いてかれたんだけど……」

「ふーん。大変だね」

 そう素っ気なく言うと、嬉しそうに私の周りをモンシロチョウのように走り回り、何処かへと飛んでいく。たったそれだけなの? まあ、そうだよね。知らない人なんだから。それでも、腹が立つ。

「な、なんなの……」

 当たり前だけど、ここには助けてくれる人なんて誰もいない。怖くなり、また駐車場へ、とぼとぼ歩いていく。

「お嬢ちゃん、そんなとこに突っ立ってられると、危ないからあっち行ってもらえんか」

 冷めた目をしたバスの運転手が私に注意してきた。日焼けした肌の黒い悪魔にしか見えなかった。

 追い出され、行き場を失いまた公園へと戻ってきた。何度公園と駐車場を往復したらいいのだろう。

 ――ヤバっ。トイレに行きたくなってきた。けど、その間にバスが来たら困るし。

 迫り来る尿意を必死で堪えながら、待ち続けるしか私に残された道はないのだ。絶対にクラスのみんなは戻ってくると信じるしかない。戻ってこないわけないし。

 それでも無言で見つめる時計の針が、十五分を周り、カチリと三十分が経過してしまう。

 脚がぴくぴくしてくる。もう無理っ……。もうこれ以上我慢してたらとんでもない事になってしまう。早くトイレにいかないといけない。


 顔を上げて、公園の奥、五十メートルぐらい先のコンクリーでできた公衆トイレを見つめる。

 大丈夫。五分くらいなら、ここにいなくても。大丈夫なはずだよ。

 勢いよくベンチから立ち上がると、トンっと誰かに後ろから肩を押されてしまった。その弾みで、生暖かいものが脚へと流れる。

「やー、やだっ……」

 心臓が締め付けられる思いで、振り返ると、そこには同い年ぐらいの男の子が立っていて、申し訳なさそうな切ない顔をしていた。

「あ、あ、あー。ご、ごめんなさい……」

「ひゃ、あ……」

 私はしゃがんでズボンを両手で隠そうとするが、それは無駄なあがきにしかならず、地面に水溜まりができてしまう。

「ご、ごめん。本当にごめんなさい。君は悪くないから。ど、ど、どうしよう。そうだ。これから家くる? この近所なんだけど。妹のがあるから」

 この騒ぎを聞きつけた周りの人達の冷めたい視線を感じた。最低っ! さっきまでは死にそうなぐらい困ってる私の事なんて見て見ぬふりをしてたのになんでこんな時だけ、見てくるのよ!

「うわー、漏らしてる」

「やばっ、あの子の足元みてよ!」

「バカっ、そんな事言わないの。さっさとあっち行くよ!」

 お母さんに怒られる子供の声が響き、恥ずかしさで顔が熱くなってくる。

 は? あんたのせいでこんなことになったのよ。周りにいた観光客がチラチラこちらを見て何か言っているけど。もう嫌っ。耳を抑えながら、トイレに向かって全力で走るしかなかった。

 けれども、「待って!」と大声で叫ばれて、公園の真ん中で腕を掴まれてしまった。

「はぁ……はぁっ……、君っ、修学旅行生だよね? このこと、内緒にするからっ。僕のせいだから。も、もしっ嘘ついたら僕が全部責任取るからっ」

「静かにしてよ。騒がないでよ。もうっ、どいて!」

「君の言うことなんでも聞くから」

 一人にしてよ。何なのこいつ。どこかに行って欲しいし。ん……なんでも? 違う違うっ。

「頼むからあっちいってよ!」

 彼はこの世の終わりみたいな暗く沈んだ顔になると、何を思ったのか、男子トイレへ入って行く。

 私も隣の女子トイレに駆け込み、鍵をかけて、トイレットペーパーでズボンとパンツを拭くという無駄なあがきをしてみた。
 トイレから出ると、彼も、同時に出てきて、ハッとしてしまう。 

 だって、この男子もズボンがびしょ濡れになっていたのだから。

「僕もやっちゃった」

「わざとだよね?」

「これで同じでしょ。家近いから付いてきて」

 この子は何を言ってんの? でもこのままだと、みんなに漏らしたのがバレてしまう。それだけは何としても避けたい。恐らく、卒業式までからかわれ。更には、田舎の小学校なので、中学も同じメンバーで、大人になっても、死ぬまで言われ続けるだろうと、このままじゃ、私の人生絶望じゃないの。

 そんなことを考えてたら、恐怖で背筋がぞぞっとして脚がプルプルと震えだす。

「は? あなたバカっ? なに漏らしてんの」

 手洗い場で水でもかけてきたんだ……。見え透いた嘘なんてついちゃって。こんなんで許すわけないじゃない。

「他の学校の体操服来てるし、駐車場と公園を行き来してたから置いてかれたんだよね?」

「置いてかれた」

 私は棒立ちのまま、じっとしてた。情けない、本当に情けない。ここを離れたら、もうみんなのところに戻れなくなる。私が不安な顔をしていると、彼はカバンをゴソゴソ探りだす。

「どうしようかな……。これ大事なものなんだけど……」

 彼は二つのカエルのお守りのうちの一つを私の手の平の中にそっと置いた。

「これをつければ、必ずお家に帰れるから。大丈夫! 手の平のこのホクロに誓うから」

 綺麗なクリスタルのカエルのアクセサリー。

 彼の真っ直ぐな眼差しが、私の心臓を貫いた。

 でも、視線を彼のズボンに移すと笑いが止まらない。しかも私のホクロに誓うとかなんなのよ!

 手にホクロがあるから、ホクロマンとかクラスの男子に言われて傷ついてたのに、この子に言われると、和むのはどうしたわけだろう。

 ほんとうにバカな男子!

「あ……、ありがと」

 結局、私はその子の家で着替えを貸してもらい、パートから帰ってきた彼のお母さんの車で宿泊地である京都へ送ってもらった。

 そして学校のみんなと合流することが出来たのだった。

「そういえば、君の名前なんて言うの?」

「こんな出会い方で恥ずかしくて名前なんて言えると思う?」

 名前……。私はただ漏らして、送ってもらっただけの痛い女子である。

 彼はそれ以上は何も聞いてこなくて、頭の上まで高々と腕を上げて大袈裟に手を振り、私も胸の前で小さく手を振り返す。二度と会うことはないけど、嫌いじゃないかな……なんて思ってた。遠くの土地の異性に優しくされて少し舞い上がっていたのかもしれない。

 ――それから私が公園に一人置きざりにされたのは、風邪をひいた希美が熱で倒れてしまったので、慌てた先生が運転手に早急に病院へ向かうようお願いしたからだと後から聞かされたのだった。
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