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後編
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以来、電話が嫌いになった。
季節がおなじ。和真と別れたのも、この時期だった。
牧瀬は図書館のカウンターに座り、機械的に業務をこなした。
元に戻っただけだ。工藤が来る前の状態に。真面目に勤務してさえいれば、生活に困らないだけの給料が毎月銀行口座に振り込まれる。淡々と月日は流れて、やがて和真と同じように思い出になる。
「お休みが入ったせいもあるけど、工藤くんの顔をしばらく見ていないわね」
井上がふとつぶやいた。牧瀬は感情を体から切り離し、口をつぐんだ。
あの告白から一週間が過ぎようとしていた。五月に入り、準備室は今日から鹿ノ沢古墳群の発掘作業に入る。工藤が今夜、牧瀬の部屋に泊まるとは思えない。
いや、工藤はもう牧瀬と休み時間すら共にすることはないだろう。
出かける約束もキャンセルだ。それがどうした? 工藤が来る前の生活に戻っただけじゃないか。
「後悔している?」
気づけば井上が牧瀬の正面に回りこんでいた。牧瀬は井上が知るはずもない工藤とのことを、指摘したように思えて体がこわばった。
「森くんに言ったこと」
とうに忘れていたことを蒸し返され、牧瀬は不快感に顔を歪めた。
「謝罪はしません」
牧瀬は立ちあがると、カートに乗せられた返却処理を終えた本を手に取った。そんな牧瀬の態度に、井上はため息をついた。
「森くんも災難よね。憧れの人にこうまで冷たくされたら、わたしだったら三日は寝込んじゃうわ」
牧瀬は耳を疑った。誰の、憧れ? 本を整理する手が止まった。怪訝な視線を井上に送ると、牧瀬は笑みを返された。
「いつでも冷静で、周囲がどうこう言っても自分の信条を貫く。お酒に強く、そのうえ禁欲的、更には理知的。無駄なものは一切もたず、なにものにも縛られずに暮らす」
「誰のことですか?」
「牧瀬くんに決まってるでしょう」
牧瀬は首をふった。そんなのは、現実の自分とかけはなれている。見知らぬ他人だ。森の馬鹿げた見解を、牧瀬は取り合う気にもならなかった。
「正しくは、森くんの目に映る牧瀬七生の姿。簡単に言えば、隣の芝生は青いってことよね。同期の森くんには酷なことだわ、牧瀬くんみたいな存在が身近にいるなんて」
井上の口ぶりに牧瀬は憮然とした。
「俺がいったい何を? 森は俺にはないもの全てを持っている。あいつから羨ましがられることなんか、俺はひとつもないです」
思わずふだんよりぞんざいな言葉を井上に返してしまった。言ってから牧瀬は井上に背を向け、窓の外を見下ろした。
視線はそのまま、博物館準備室の玄関に行く。発掘現場へは自家用車で直接出向いたのか、工藤の車はなかった。牧瀬は小さく舌打ちした。こんなときでさえ、なにげに工藤の姿を探す自分が嫌だった。
「わたしも同年代の人から何度も言われたわよ。一人でいいわね、自由でいいわねって。でも、今はそんなこと言う人はいない」
「皆さん、結婚している自分のほうが勝者だって、優越感からですか?」
生意気を通り越し、無礼な発言をする牧瀬を井上はあやすような目で見た。
「違うわよ」
「何が?」
「みんなが懸命に暮らしているって、分かったから。どんな立場であれ、環境であれ」
そんな、その程度のことなら今でも分かることだ。ありきたりのことを、したり顔で言われて、牧瀬は猛烈に反論したくなった。
牧瀬が口を開きかけると、井上が笑いながら片手でそれを制した。
「分かっているって言いたいんでしょう? 聡明な牧瀬くんだもの、反発する言葉は山ほどストックしているはずよね。でも、もう少しだけ皆を許してあげて。おなじ修羅を生きる者として」
「仏教用語を持ち出して煙にまく気ですか」
「ほんと、牧瀬くんには小手先じゃ太刀打ちできない。降参するわ」
井上は両手をあげて、ポーズを取った。その顔に不快感はなく、むしろ楽しげに笑っている。笑顔のわけを牧瀬には理解できず、眉をしかめた。
「せめて、お客さんの前ではにこやかに笑ってよ」
井上はやって来た初老の婦人の本をていねいに受け取って、貸出の手続きをした。牧瀬は一抱えの本を持ってフロアーに出た。
馬鹿げた話だ。誰もが、と井上は言ったけれど、少なくとも皆と自分との間には大きな隔たりがある。
伝えたとたんに終わる自分の恋はどうすればいいのだ。誰にでも与えられている、ささやかな願いを叶えることの出来ない自分は……誰よりも、苛酷な生を強いられるではないか。
ぶつけどころのない怒りだけが、体のなかにあった。
本を書架に戻す手は、いつもより荒くなった。
季節がおなじ。和真と別れたのも、この時期だった。
牧瀬は図書館のカウンターに座り、機械的に業務をこなした。
元に戻っただけだ。工藤が来る前の状態に。真面目に勤務してさえいれば、生活に困らないだけの給料が毎月銀行口座に振り込まれる。淡々と月日は流れて、やがて和真と同じように思い出になる。
「お休みが入ったせいもあるけど、工藤くんの顔をしばらく見ていないわね」
井上がふとつぶやいた。牧瀬は感情を体から切り離し、口をつぐんだ。
あの告白から一週間が過ぎようとしていた。五月に入り、準備室は今日から鹿ノ沢古墳群の発掘作業に入る。工藤が今夜、牧瀬の部屋に泊まるとは思えない。
いや、工藤はもう牧瀬と休み時間すら共にすることはないだろう。
出かける約束もキャンセルだ。それがどうした? 工藤が来る前の生活に戻っただけじゃないか。
「後悔している?」
気づけば井上が牧瀬の正面に回りこんでいた。牧瀬は井上が知るはずもない工藤とのことを、指摘したように思えて体がこわばった。
「森くんに言ったこと」
とうに忘れていたことを蒸し返され、牧瀬は不快感に顔を歪めた。
「謝罪はしません」
牧瀬は立ちあがると、カートに乗せられた返却処理を終えた本を手に取った。そんな牧瀬の態度に、井上はため息をついた。
「森くんも災難よね。憧れの人にこうまで冷たくされたら、わたしだったら三日は寝込んじゃうわ」
牧瀬は耳を疑った。誰の、憧れ? 本を整理する手が止まった。怪訝な視線を井上に送ると、牧瀬は笑みを返された。
「いつでも冷静で、周囲がどうこう言っても自分の信条を貫く。お酒に強く、そのうえ禁欲的、更には理知的。無駄なものは一切もたず、なにものにも縛られずに暮らす」
「誰のことですか?」
「牧瀬くんに決まってるでしょう」
牧瀬は首をふった。そんなのは、現実の自分とかけはなれている。見知らぬ他人だ。森の馬鹿げた見解を、牧瀬は取り合う気にもならなかった。
「正しくは、森くんの目に映る牧瀬七生の姿。簡単に言えば、隣の芝生は青いってことよね。同期の森くんには酷なことだわ、牧瀬くんみたいな存在が身近にいるなんて」
井上の口ぶりに牧瀬は憮然とした。
「俺がいったい何を? 森は俺にはないもの全てを持っている。あいつから羨ましがられることなんか、俺はひとつもないです」
思わずふだんよりぞんざいな言葉を井上に返してしまった。言ってから牧瀬は井上に背を向け、窓の外を見下ろした。
視線はそのまま、博物館準備室の玄関に行く。発掘現場へは自家用車で直接出向いたのか、工藤の車はなかった。牧瀬は小さく舌打ちした。こんなときでさえ、なにげに工藤の姿を探す自分が嫌だった。
「わたしも同年代の人から何度も言われたわよ。一人でいいわね、自由でいいわねって。でも、今はそんなこと言う人はいない」
「皆さん、結婚している自分のほうが勝者だって、優越感からですか?」
生意気を通り越し、無礼な発言をする牧瀬を井上はあやすような目で見た。
「違うわよ」
「何が?」
「みんなが懸命に暮らしているって、分かったから。どんな立場であれ、環境であれ」
そんな、その程度のことなら今でも分かることだ。ありきたりのことを、したり顔で言われて、牧瀬は猛烈に反論したくなった。
牧瀬が口を開きかけると、井上が笑いながら片手でそれを制した。
「分かっているって言いたいんでしょう? 聡明な牧瀬くんだもの、反発する言葉は山ほどストックしているはずよね。でも、もう少しだけ皆を許してあげて。おなじ修羅を生きる者として」
「仏教用語を持ち出して煙にまく気ですか」
「ほんと、牧瀬くんには小手先じゃ太刀打ちできない。降参するわ」
井上は両手をあげて、ポーズを取った。その顔に不快感はなく、むしろ楽しげに笑っている。笑顔のわけを牧瀬には理解できず、眉をしかめた。
「せめて、お客さんの前ではにこやかに笑ってよ」
井上はやって来た初老の婦人の本をていねいに受け取って、貸出の手続きをした。牧瀬は一抱えの本を持ってフロアーに出た。
馬鹿げた話だ。誰もが、と井上は言ったけれど、少なくとも皆と自分との間には大きな隔たりがある。
伝えたとたんに終わる自分の恋はどうすればいいのだ。誰にでも与えられている、ささやかな願いを叶えることの出来ない自分は……誰よりも、苛酷な生を強いられるではないか。
ぶつけどころのない怒りだけが、体のなかにあった。
本を書架に戻す手は、いつもより荒くなった。
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