メイストーム

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 今年二十七歳になる。史彦は五月に、雄高は十一月に。
 この年齢になって思うことは、あの当時の安騎野のことだ。安騎野は二十八歳だった。目をつけた学生を次々襲い、荒れ果てたアパートで投げやりな生活をしたいた。
 学生だった雄高から見れば、安騎野ははるか遠い位置にいる『大人』だった。けれど自分がなろうとしている今、さして精神的に成長をしていなと感じられるのだ。
 佐野も同じだ。思っていたより、大人ではないようだ。
 雄高は、食材を買った百貨店の入り口近くにあるベンチに座わり、人の波を見ていた。ふだん行くスーパーではなく、わざわざマンションから遠い場所で買い物したのは、頭を冷やしたかったからだ。
 すぐ近くに桜の名所である城跡公園がある。開花宣言が出されてここ何日か、平日にもかかわらず花見客で賑わっていることはニュースで知っていた。花見客がグループで引っ切りなしに目の前を通る。相馬ゼミと勤務先の病院でも、もうすぐ花見が催される予定だ。 雄高は愛車のクロスバイクをベンチに立て掛け、気分が落ち着くのをひたすら待っ。佐野を手ひどく痛めつけた自分に嫌悪感を持つ。確かに、佐野の言い分は許せるものではない。あんな奴に二度と史彦に会わせたくない。
 けれど、自分の行為は安騎野のそれと五十歩百歩だ。本気ではなかったとはいえ、佐野をレイプすると脅かしたのだ。
 卑劣すぎるな、と雄高は胸のうちでつぶやいた。
 いっそ殴ればよかったのかもしれない。けれど、佐野の暴言はそんなものでは埋められないと思ったのだ。もっとひどい報復を与えて当然と、雄高はあのとき判定を下したのだから。
 雄高と史彦の行為を盗み見し、過去の出来事を探り、それを盾に史彦に関係を迫ろうとしたのだ。悪いのは奴だ。それなのに、こんなところで反省するなんて馬鹿げている。
 史彦との生活を守るためならなんでもする。
 同居するときに決心したことだ。つまらない罪悪感など捨ててしまえ。
 雄高は立ち上がると、提灯の明かりが灯る桜の森に背を向け、逆の方向に自転車を走らせ、帰路に就いた。
 雄高はマンションまで来ると、クロスバイクを肩に担いだ。マンションの駐輪場は物騒で、とてもじゃないが愛車は置けない。史彦はそんなに神経質にならなくてもと言うけれど、雄高は毎回部屋まで持ち運んでいる。
 ホールの自動ドアの前まで来たとき、急に人気を感じて雄高は緊張した。さほど遅い時間ではないが、周囲には誰もいないと思っていたのだ。身構えて振り返ると、佐野がポーチの明かりの下に立っていた。
「……」
 大学からそのまま来たらしい。図書館で見たままのスーツにコートを羽織り、左肩にディパックを背負い視線を落として無言で立ち尽くしている。両手をポケットに入れたさまは、まるでふてくされた子どものようだ。
 雄高は無視して進むと、マンションのエレベーターのボタンをおした。一階に待機していたエレベーターは一拍おいて上半分が透明になっている扉を二人の前に開けた。雄高が乗り込むと影のように佐野が雄高に続く。雄高は内心舌打ちしながら、佐野の存在を頭の中から無理やり消し、無視を決め込んだ。
「……ごめん」
 扉が閉じると佐野は絞り出すような声でうつむいたまま雄高に詫びた。雄高は腕組みして壁に寄りかかったまま、動かなかった。
「今日のこと、悪かった。謝る、だから……」
 エレベーターの箱の中は青白い蛍光灯の光で満たされている。そのせいか、佐野の顔をより青く浮き上がらせる。雄高は堅く口を閉ざしたまま、佐野のこわばった声を聞いていた。チャイムが鳴り、エレベーターが住まいのある六階に到着したことを告げる。
 雄高が自転車と供に降りると、佐野が雄高に追いすがった。
「だから、許してほしいんだ。お願いだから」
 雄高はエレベーターホールのまえで、佐野を見やった。
「書庫の続きをしに来た? 今度こそ本気で襲うぞ」
「えっ?」
 佐野が怯んだ。雄高は眉間の辺りからじわりと熱くなるのを覚えた。ついさっきはしおらしく後悔していたはずなのに、実際佐野を前にするとまたきつい言葉を吐き出してしまう。
「うんざりだ。いつもいつも俺を不快にさせたり、怒らせたりして後から謝る。いや、謝るフリをする。あんたさ、なにが目的?」
 雄高はわざとぞんざいな口調で佐野を追い詰めた。雄高の冷ややかな視線に、佐野は恐れるように顔を背けた。
「これ以上、俺たちに立ち入らせない。さっさと帰れよ」
 雄高は吐き捨てるように佐野に言い渡すと、廊下を進んで部屋の鍵を開けた。佐野が開いた扉に体を半分滑り込ませた雄高に駆け寄った。
「本当に、謝る。だから、だから……!」
 閉めようとした鉄の扉にしがみついて佐野は叫んだ。雄高は力ずくで扉を閉めようとしたが、佐野は足を半ばさし入れそれを阻んだ。
 ドアノブを握った雄高の手を佐野が掴んだ。ひやりとするその手の冷たさに雄高は一瞬頬がこわばった。
「だから、俺のこと嫌いにならないでくれよ」
 佐野の悲鳴のような声が響き、見開いたままの瞳から涙が一筋流れた。雄高と視線があうと眼鏡を慌ててはずし、目元を手の甲で拭った。
 その仕草に、雄高はまるで子どもを苛めたような後ろめたい気分を味わった。雄高はあきらめてドアを大きく開けた。
「とりあえず、入れよ」
 これ以上廊下で騒がれたら、近所迷惑だからと雄高は自分に言い訳しながら佐野を玄関に入れた。
 佐野はしばらく眼鏡をはずしたままだった。雄高は眼鏡なしの佐野の目の大きさに少し驚いた。それがやたらと佐野を幼く見せる。素顔のままなら、まだ現役の大学生で通りそうだ。
「今日は俺、どうかしてたんだ……あんなこと言うつもりなんかなかったんだ、本当に」
 肩を落として佐野は話した。雄高は自転車を壁の所定の位置にかけると、そのまま奥のリビングへと足を向けた。振り返ると佐野はまだ玄関にいた。雄高はリビングに明かりをつけ、ため息を吐いて佐野に話しかけた。
「あがれば?」
 佐野は雄高の言葉に少しためらいながらも、靴を脱いで部屋にあがった。どこかおどおどしているように見えるのは、雄高を警戒してなのか? 雄高は苦笑した。よほど薬が効いたらしい。
 リビングまで来ると、佐野は立ったままで話を続けた。
「写真見ただろう? 結婚式の」
 ああ、と雄高は頷いてコートを脱いだ。買って来た食品を冷蔵庫や戸棚に片づけ、いつもの癖でホーロー引きの薬缶を火にかける。
「むこうからの手紙だった。フラれたんだよ、俺」
「ありがちだな、海外在住が相手なら長距離恋愛も高難度だ。そのとばっちりが俺にむいたわけか?」
 佐野は悲しげに唇をかんで俯く。握った両手が少しふるえて見えた。
「そんなのは俺と史彦には無関係だろう」
「ああ……だから、謝るよ。碓氷さんとヒコのことを興味本位で調べたことも」
 素直に詫びる佐野から視線をはずして、雄高はお茶を入れた。そうすることで少しでも高ぶった気持ちを落ち着けようと。普段より、ていねいにお茶を温めたカップに注ぐと幾分か気持ちの波もおさまった。
 雄高は手で佐野に座るように指示し、お茶を供した。そして、佐野の正面に座わるとようやく重い口を開いた。
「安騎野のことは、もう一切言わないでほしい。佐野さんが知ったことはすべて胸の内にしまっておいてくれないか」
 雄高はテーブルに組んだ指を置いて、佐野を真っすぐに見据えた。正座した佐野が、ゆっくりと頷いた。
「佐野さんが何を知ったか、俺は聞かない。俺もどんなことがあったのか話さない。ひとつ言っておきたいのは、責任はすべて俺にあるということなんだ。史彦は被害者だ。少しも悪くない。ただ、あの件に関して史彦が深く傷ついたのは事実だ。今でもそれが心的外傷になっているー史彦を不安にさせるんだ。それは分かってほしい」
 真剣な面持ちで佐野はまた頷いた。そうやって一つ一つ佐野の意志を確認していかなければ、こんな危ない話しは出来ない。
「史彦は佐野さんと友人になりたいんだ。そんな奴の気持ちを裏切るようなことは、絶対にしないでほしい。それが出来ないなら、史彦を傷つけるようなことをする気なら、今すぐ俺たちからいっさい手を引け。俺は史彦を傷つける奴は、誰であろうと許さない」
 雄高の覚悟を秘めた声が、佐野を厳粛な気持ちにさせたのかもしれない。佐野は背筋を伸ばして雄高を見た。
「わかった、二度と口にしない。俺も純粋にヒコの友人になりたいんだから」
 真っすぐに雄高を見る佐野の瞳に、曇りはなかった。雄高はそれを信じることにした。今度は雄高が詫びる番だった。
「先だって佐野さんが見たことについては、俺も反省している。配慮が足りなかったよ……お客が泊まっていたのに……」
 口にしてから、雄高はあんな場面を佐野に見られていたことをいまさらながら意識して、顔が赤くなりそうだった。が、佐野は赤くなった。
「いや、そんなには……ちらっとだから」
 思わず視線を外すと、雄高は唐突に佐野の唇の感触を思い出して落ち着かない気分になった。勢いとはいえ、いま目の前にいる男とキスをしたのだ。
 恐らく、佐野は『さら』だ。意気がって雄高に自分から口づけたくせに、その後の雄高の行動にはただ怖がるだけだった。同性との肉体的な接触は経験していないのだろう。
「書庫の件も謝ります。佐野さんを精神的にいたぶったことを」
 これ以上恥ずかしくなる前に、雄高は佐野にすべてを謝罪した。
「俺のほうこそ……」
 佐野は顔の前で両手をふってうろたえた。その後しばらく二人とも気まずい沈黙の中、静かにお茶を飲んだ。もうぬるくなりかけていたが、今の雄高にはこれ以上においしくお茶を入れ直す自信はなかった。
「あのさ、碓氷さんって……」
 ぽつりと佐野は意味不明な言葉を吐いた。中途半端なところで切られた言葉は、そのまま宙に浮いた。雄高は思わず首をかしげ、佐野の言葉を待った。
「ニブイ?」
「え?」
 雄高の心臓がわけもなく跳ねた。そんな雄高の表情を楽しむように佐野は薄く笑った。雄高は今度こそ頬が熱くなる感覚を味わい、うろたえた。
「俺の目的が、未だにわからないなんてニブすぎるんじゃない? 心理学専攻してカウンセラーしていても、こと自分に関しては思慮不足だ」
 雄高は佐野が何を言っているのか分からなかった。いや、理解したくなかった。目眩のような困惑が雄高を襲う。
「お代わり、どうですか……」
 キッチンへと逃げようとした雄高の手を佐野が掴んだ。
「お茶なんかどうでもいい」
 真剣な眼差しの佐野が雄高を見上げている。雄高は体がふるえていることに気づいた。握られている手もかすかに佐野の手の中でふるえる。雄高のそんな体の変化に気づいたのか、佐野は雄高を握る手に力を入れた。
「なに怖がってるんだ? さっきは人のことを押し倒したくせに。手を握られたくらいでびびるなよ、キスまでした仲だろ」
 雄高は佐野の手を振り払った。雄高はその手を口元にあて、佐野から顔を背けた。
「あれは、違う!」
「へえ、どう違う?」
「またいつものパターンだ。結局俺を怒らせることしか言わないんだな。あんたの目的なんか知りたくもない。さっきの件はご破算だ。もう史彦に会うな、俺と校内で会っても話しかけるな」
 雄高は佐野にディパックを投げつけ、リビングの扉を開けた。ディパックを胸の前に抱いて呆然とした佐野が雄高を見つめている。雄高は佐野の挑発に乗ったことに後悔したが、怒りは止められなかった。
「……俺はヒコと友人になりたいよ。でも、雄高とは」
「いうな!」
 名前を呼ばれて雄高は頭に血が上り、その先の言葉を遮ろうとした。が、佐野は怯まずに続けた。
「恋人になりたい」
「なっ何言って……!」
 雄高の言葉を最後まで聞かず、佐野は雄高が俯いたわずかのすきに扉のすぐそばまでやってきた。雄高が顔をあげたときには、目の前に佐野が立っていた。
「恋人になりたい。雄高だって俺に興味があるだろう? ふだんは感情を荒立てない雄高が本気で俺には剥き出しの表情を見せるじゃないか。それって、俺が雄高にとって特別って事なんじゃない」
「ちがう」
 雄高は扉に体を押しつけ、佐野を睨んだ。このまま佐野のペースに巻き込まれては駄目だ。雄高は背中に汗がじわりと浮くのを感じながら言葉を必死で探した。
「ちがう……似てると思うだけだ。共通項が多いから」
「知ってる? 人を好きになる第一段階って、自分との共通点を意識することだってコト。それだけ俺に興味を持ってくれたら、全く脈なしじゃないよな」
 墓穴だ。雄高は唇を噛んで佐野をにらみつけた。佐野は雄高の目の前で勝ち誇ったような笑顔を見せた。
「パートナー変えてもいいんじゃない? ヒコとはもう十分つきあったんだろう。飽きない? 雄高は、多情そうに見えるけど。どう、外れてないよな俺の想像」
「史彦は特別だ。俺は史彦と歩いて行くと決めたんだ、十年前に。それ以外の未来なんて考えたことはない」
 雄高の中から徐々に脅えが消えていく。佐野の不自然さがおぼろげながら分かりかけてきたのだ。佐野はおそらく、結果ばかり知ったのだろう。十年前に、安騎野が雄高と史彦の前で自殺未遂を起こしたこと。もしかすると、安騎野の退職の理由も突き止めているのかも知れないが、それまでの過程は知りようがない。
「雄高を三角形の頂点とすると、両側に安騎野とヒコがいてそれでトラブったんだろう。痴情のもつれが事件の真相……」
 雄高は佐野の想像力不足のありがちな推理に笑った。そんな単純な理由などではないのに。得々と話す佐野の愚かしさを雄高は笑った。所詮、自分たちにあったことなど、自分たちの痛みなど佐野に分かるはずがない。それを分かち合えるのは、唯一史彦しかいないのだ。雄高は自分の気持ちをゆっくりと確かめた。
 ただ笑う雄高に佐野は少したじろいだように見えた。雄高はその隙を狙って再び佐野のネクタイを掴んだ。書庫でそうやったように。
「その名前は口にするなといったろう。俺が多情でも、あんたは相手にしない。何より、あんたは無理だ。男との経験なんかないんだろう。俺の服を脱がせたところで、ふくよかな胸も濡れるヴァギナもないぜ。あの写真の彼女のような。ごつごつの身体に、ついてるモノはあんたとおんなじペニスだ。キスていどで怖がっていたじゃないか。男同士のやり方も知らないくせに。肉体的嫌悪感は乗り越えられない」
 佐野の唇がわななくのが見えた。今の言葉は的を射ていたのだ。佐野の顔が悔しさに歪むのを見て、雄高は余裕を取り戻した。
「俺は同性相手に勃起できるけど、ストレートの奴とはやれない。無理やりする趣味もない。だから、あんたは俺の恋人にはなれない。俺の恋人は史彦だけだ」
 雄高は突き飛ばすように佐野を解放した。佐野はまゆをしかめたまま雄高を見据えたが、もう脅威は感じなかった。
「もっとも、身体の関係だけがすべてじゃない。俺は史彦との生活を守る。史彦以上に大切な存在なんかないから」
「……」
 佐野の意気込みはしぼんだようだ。肩を落として床に座り込み呆然とした表情を浮かべた。
「淋しいだけだろう、失恋したから。手近にいる俺と寝たところで、淋しさは埋まらない。それぐらい分かっているんだろう」
 雄高は佐野にたいしてかすかな哀れみを感じた。淋しさの根源は、とりあえずの関係ではその場しのぎにもならない。後から余計に空しくなるだけだ。
 雄高は佐野がなぜ自分を標的にしたのか、不意に理解した。佐野は史彦を大切に思っているのだ。だから、自分のダークサイドは見せたくないし、史彦の身体を傷つけたくないのだ。恐らくは……。
 結局、雄高と史彦の周りに集まる連中は皆、史彦を選ぶわけだ。そして、手を出せずに一緒にいる雄高で我慢する……そういうパターンでもできあがっているのか。雄高はひそやかにため息を吐いた。
 だから、雄高は相手の心に触れられない淋しさもよく知っている。いくら身体の関係を増やしたところで、安騎野まで手が届かなかった。だからこそ、年に一回とはいえ、相手の心を手中に収めているという充足感が味わえる『お父さん』との関係を雄高はひそかに気に入っていた。史彦に対して悪い事だとは知りながら。
 もしかすると、雄高は史彦自身に長いこと嫉妬していたのかも知れない。安騎野は史彦を手に入れたかったし、佐野は史彦のことが好きゆえに手を出せずに、欲望だけを雄高に向ける。雄高はいつでも史彦の身代わりだ。
 おまえには、なにか欠けたものがあるのだ、と耳元でささやく声がする。
 それはまるで、黒い刻印だ。ずっと封印していた思いだ。雄高は慄然とした。
「俺は……おれは」
 弱々しく佐野がつぶやいた。あの学食で見せた表情とよく似ている。佐野の素の顔だ。頼りなく、今にも崩れてしまいそうな。雄高は何も言わずに佐野の顔を見つめた。
 重苦しい空気がリビングにただよう。音のない部屋はまるで時間が止まってしまったように感じられ、再び雄高のなかにかすかな罪悪感が芽生える。
「佐野……」
 雄高が言いかけたとき、玄関のノブが回る音がしてこの場にそぐわないほどの明るい声が聞こえた。
「ただいま。あれ、お客さん? 雄高ぁ」
「史彦、お帰り」
 史彦が買い物袋をさげた格好でリビングに現れた。雄高は一瞬あせった。剣呑な場面に急に加わった史彦に今あったことを気取られないように、いつもと変わらぬ様子で振る舞った。つい先ほど胸に宿ったほの暗い史彦に対する恨みのようなものも、すべて意識下に押し込める。
「モト、来てたんだ。ちょうどいいや。俺、来週の木曜日に休みを取ったんだ。モトもその日は休みだっていってたよな。遊びにいこうよ」
「ああ」
 笑顔の史彦に合わせるように、佐野はほほ笑んだ。いつの間にか、打ち沈んだ表情は消えて、その変わり身の早さに雄高が驚いた。
「鮨折(すしおり)多めに買って来てよかった。夕飯はまだ? 一緒に食おうよ」
 史彦はコートを脱ぎながら、佐野と雄高に話しかけた。雄高は床に脱いだままのコートを拾い上げると、部屋の引き戸を開けた。
「俺、仕事。佐野さん、ゆっくりしていっていいよ」
「雄高?」
 雄高の高飛車な物言いに、さすがの史彦もまゆをひそめた。かまわず雄高は冷たい瞳で佐野を見やった。佐野はその瞳に挑むような笑みを返し、何も知らぬ史彦とを素早く見比べた。雄高の目元がピクリと痙攣する。が、そのまま戸を閉め視界から佐野を締め出した。
「あいつ時々、お天気屋になるから気にしないでいいよ、モト」
 史彦の弁護にもならない言葉に腹を立てながら、雄高はベッドにカバンを投げつけた。
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