ゆらぎ堀端おもかげ茶房

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来訪者たち

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 引っ越してから一週間後、私はエプロン姿で朝から通りに面した店側のガラス拭きをしていた。
 店の前の掃き掃除はさっきひと通り終わっている。今日もよく晴れている。連休中には、さして見どころのない澄川にも観光客がいてにぎやかだった。連休が終わって賑わいが去り、ようやく日常生活が回りだしたよう。私は額に浮かぶ汗を手の甲でぬぐった。

 昨日は澄川市の起業セミナーの初日だった。セミナー卒業生で先に起業した女性レストランオーナーの講演と、担当者との顔合わせがあった。
 私の担当市職員は、頭を一つ下げて名前を言った。
五十嵐善郎いがらしよしろうです」
 言うなり彼は自分の受け持ちのメンバーを前に私の方を見た。
「江間さん、商売をする気があるなら、まず庭の草取りや店の窓ガラスを掃除したらどうなんですか」
 前置きなしの、名指し発言に私の口が思わずぽかんと開いた。
「江間さんのお住まいは、いいところなのに。蔵のすぐ後ろが堀川で、しかも船着き場が残っている。そこから一直線上に来れるし、交差点端だから目立つ。それなのに、荒れ放題の庭って」
 五十嵐は腕組みして、呆れたようにため息をついた。太い黒縁の眼鏡に作業服なのに律義にネクタイをしている。七三に分けた黒ぐろとした髪に同じ割合で白髪が混じっているから、年齢の見当がつかないけど、おそらく自分と同年代かと思う。五十嵐職員の指摘に、他のメンバーが苦笑いをしている。顔から火が出そうだった。
「先日引っ越したばかりで手が回らなかっただけです、今日からでもやります」
 本当のことを言えば、引っ越してから夜によく眠れていない。古くて大きな家に一人きりだ。気味悪いとかそういうこと以上に、不用心に感じられてどうしても眠りが浅くなって、日中ウトウトしてぼんやり過ごしてしまう。そんな個人的な事情を伏せて言い返すと、彼は私が事前に提出した書類を見ながら更に尋ねた。
「下水工事はお済みですか」
「え、下水工事……?」
「困りましたね。十年前から堀川や水路には生活排水が入らないように条例が制定されたんですよ。早急に工事してください」
 同席した五十嵐担当のメンバーは、お気の毒様という視線を私に向けた。

 下水道工事!? 
 どうしよう、さっさと工事をしろだなんて。とんだ計算違いだ。
 計算外の出費に、血の気が引いてめまいがした。伯父が住んでいた頃にはなかった条例だ。工事って、いくらかかるの?  開店資金、慰謝料でどうにかなんて虫が良すぎる考えだった。
 もう夜眠れない、なんて言っている暇はない。
 今まで年に数回の手入れを地元の人にお願いしていたけど、今年に入ってからは私が移り住む前提で、しばらく掃除も草取りもしていなかった。おかげで裏庭は草ボーボー。破れた板塀と並行する歩道から荒れ放題の庭が見えてみっともない。明日は庭の草取りをしよう。そう決めた。

 ガラスは拭くと土埃で雑巾が汚れた。
 入口の引き戸は、伯父が店をしいた当時のままで木の建具が使われている。防犯上、心もとない。
 店のスペースだけでも天上を抜いて、太い梁や柱が見えるように作り替えたいって思っていたけど、リフォーム代って安くないだろうな。町家のリノベーションだし。
 慰謝料が一瞬で消し飛んでしまいそうで怖い。なんといっても、カフェを開くまでは無給なのだ。
 そういえば企業ゼミで、追い打ちをかけるように更に言われた。

「カフェを開きたいとのことですが、提供するお菓子や飲み物はどうしますか」
 五十嵐職員の眼鏡のレンズ越しに険しいまなざしを感じる。
「私が作ります。三年間、個人教室ですが製菓全般を習いましたから」
「……職歴を拝見すると、ここ十年ほどは仕事をされていませんし、接客も飲食業も初めてですよね」
 五十嵐職員は渋い顔をした。言外に『できるんですか』と問われているように感じて、私はうつむき歯を食いしばった。
 商売を思い付きで始めていいことじゃないことくらい分かっている。
 でも、戻ってきた自分の居場所は生まれた家にはもうなかった。同居する弟夫婦にも気兼ねする。
 だから、自分のやれそうなことを、と考えたんだけど。
 さんざんきついことを言われて講座が終わり、立ち上がったら職員五十嵐は私と肩の高さが同じだった。
 偉そうな口をきいても、百六十七センチの私と一緒じゃない、チビが! と、心のなかで暴言を吐く。そうするとすこしばかり溜飲が下がった。
 私の夫はもっと背が高くて……、もう私の夫ではないのだけれど。
 未練がましい自分に喝を入れたくて、一心不乱にガラスを磨いた。
「こんにちは!」
 やたら元気な声に振り替えると、ふわふわの髪とふわふわなチュニックを着た小柄な女性が明るい笑顔で立っていた。
「あ、やっぱりシオリちゃんだ」
 顔の前で小さく手を打って、笑うと両頬にえくぼができた。あまりの突然のことに、わたしは雑巾で顔を隠しそうになったが、ふっくらとした女性の顔をじっと見ていて不意に思い出した。
「み、みず江ちゃん……?」
「そう、幼稚園で一緒だった、沢田みず江だよ。相変わらず背が高いんだね、汐里ちゃん」
 思わず二人手を取りあって小さく何度もジャンプする。いきなり懐かしい幼馴染に会えるなんて。
「ここのお店、幼稚園に行くとき通るたびに、汐里ちゃんが『おじさんのお店』って言ってたの覚えていたの。そしたら、誰か引っ越してきたって聞いたから」
「うれしい、ありがとう」
 ろくに知り合いもいない町だから、なんだかホッとして泣きそうになった。
「……ひとり?」
 みず江ちゃんは、遠慮がちに聞いてきた。私は手をつないだままうなずくと、うつむいた。みず江ちゃんの左の薬指には、銀の指輪があった。左手首にビーズのブレスレット、七分袖のブラウスにふわりとしたブラウンの髪。子どものころのままのイメージで大人になっている。そういえば、みず江ちゃんとよく折り紙やあやとりをしたっけ。
「そっか。うん、ごめん」
 私は首を左右にふった。顔を上げるときには、がんばって笑顔を作ってみた。
「ううん、会えてうれしい。みず江ちゃんは?」
「覚えてるかな。うちの実家、自動車整備工場してるの。お婿さんもらって、私は子育てしながら事務員している。男の子だけ、三人。ちょうど幼稚園に末っ子を送っていく道だから」
 にこにこ笑うみず江ちゃんは、きっといいお母さんなんだろうな。
「ここに住むの?」
「う、うん」
 カフェを開くことは、言わずにいた。ひとに話すとなると、なんだか気後れする。
 次の句を言いあぐねるわたしに、みず江ちゃんが小首をかしげたとき、また電話が鳴り響いた。店の隅で黒電話が派手な音を立てている。
「じゃあ、また来るね」
 ジェスチャーで電話に出るように私を促すと、手を振って帰っていった。もう少しお喋りしたかったのに、と腹立ちまぎれに受話器を取って耳にあてた。
「もしもし?」
 しかし、なんの応答もなかった。もう一度呼びかけたけど、受話器は静まり返ったままだ。さらに問いかけようと口を開いたときにブツっと切れて発信音だけが残った。
「なんなの……」
 間違い電話なのかな。受話器を置いて、上がり框に腰をかけた。みず江ちゃんと話していたときには気付かなかったけど、お店は日中でも電気をつけないとやっぱり暗い。
 やることや、やるべきことを一気に思い出して溜め息が出た。こんなので、やっていけるのかな。ぼんやりしていたら、ガラスをノックする音がして柔らかな声がした。
「ごめんください」
 初め、逆光でよく見えなかった。声の主は店の奥へと視線を送っているようだ。小首をかしげると、長い黒髪がさらりと揺れた。すらりとした足の形がよくわかるスキニーのパンツにシンプルなシャツを着ているだけのようなのに。その影絵のような姿を見ただけで美しい人だと思った。
「あ、はい」
 私は慌てて立ち上がって、その人のところへと駆け寄った。
 間近で見るその女性は印象的なアーモンド型の目をしていた。瞳が大きく、まるで白目などないように見えた。前髪がかかる白く秀でた額から鼻筋が通っていて、少し厚めの唇のはしを上げて微笑んでいる。
 女の私でもつい見入ってしまうような魅力的な顔立ちだ。
「こちらは、何かのお店ですか」
 尋ねられたというのに、数秒息きをするのも忘れて彼女を見つめてしまった。
「あの……?」
「あ、こっここは昔は乾物屋で、あ、こんどカ、カフェを」
 知らず知らずに緊張して、うまく話せない。けれど、彼女はいぶかしげな顔をすることもなく、私のつたない言葉に耳を傾けている。
「まあ、カフェですか。すてき。ここの前を通るたびに、とても雰囲気のある建物だなあって思ってたんですよ」
 彼女の耳たぶで、雫の形をしたピアスがキラリと光を反射した。
 知り合いのみず江ちゃんには言えなかったのに、見ず知らずの人にはカフェのことを話してしまった。
「カ、カフェが開けたらなーって。リフォームして、庭のほうでも休んでもらえるように……」
 と、そこまで言って思わず振り向く。店から草が生い茂った荒れた庭が丸見えだった。一気に頬が熱くなった。昨日の五十嵐職員に言われたときより恥ずかしい。
「草とり、草取りはするんです、ええ、ちゃんと」
 また不審な受け答えになってしまった。彼女はくすっと笑った。
「お手伝い、しましょうか」
「え、そんな、そんな」
 まさか、初対面でそんなこと。それもそうですね、と彼女は顎に指をあてると一つうなずいて顔を上げた。
「ですよね。わたし、甲斐谷といいます」
「かいたに?」
 伯父と同じ苗字だ。
「この辺ではありふれた苗字で、まるで偽名みたいだけど。甲斐谷小夜子(かいたにさよこ)といいます」
 それからていねいにお辞儀をした。ふわりと薄荷のような香りがした。
「前からここのお家のファンでした。何かお手伝いできることがあったら、させてください」
「ファン、ですか」
 ええ、と小夜子さんは満面の笑みで首を縦に振った。
「古い建物がすきなんです。嫁いで来てから知りましたが、澄川には魅力的な建物が多くていいところですね。ここのお家は昔ながらの佇まいがとても素敵。蔵もあって、昔話の挿絵みたいです」
 頬を染め、一心に語る小夜子さんの熱意とは逆に穴があったら入りたい気持ちだった。素敵、といわれる蔵は近くで見るとひびが入り、瓦が落ちている。そして庭は手入れ不十分。塀も破れている。
「すみません、一方的に。ここ、よく通るのでまた寄らせてください」
 小夜子さんは顔の前で手を合わせて、にこりと微笑んだ。
「ええ」
 私が答えると、小夜子さんはやった! と叫んで小さくガッツポーズをした。美人なのに、なんだか茶目っ気のある人だ。
「ほんとですよ」
 小夜子さんは私に何度も念を押すと、鼻歌を歌いながら帰っていった。
 あ……とにかく、裏庭をなんとかしなきゃ。午後からホームセンターで草刈鎌を買って来よう。お店の顔となる扉のガラスはみんなきれい磨いた。
 うん、まずやれることをやろう。
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