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1話
しおりを挟む朝比奈楓のことが好きだ、と気づいたのは高校二年の梅雨の終わりだった。
なりたくなかった、と言っても過言ではない。だって朝比奈楓は面倒くさい男だ。整った顔と柔らかい物腰で女子の人気を一身に集めているくせに、二人きりになるとすぐ甘えてくる。ちょっと返信が遅れると電話してくる。暇さえあれば「会いたい」とラインを送ってくる。私はそういう重たさが得意じゃない。昔から、誰かに密着されると息が詰まる感覚があった。
なのに好きになってしまった。人の感情というのは本当に理不尽だと思う。
付き合い始めたのはその年の九月だ。楓が三ヶ月かけてじわじわと距離を詰めてきて、私がとうとう根負けした。「仕方なく」という気持ちが全体の六割くらいはあった。残りの四割が「まあ悪くないか」で、そのどこかに「好き」がひっそり混ざっていた。
私は感情を表に出すのが苦手だ。嬉しくても無表情になるし、悲しくても声が出ない。好きな人の前でも同じで、「好き」という言葉を気安く口にできない性質だ。それが自分のどうしようもない部分だとわかっていたし、変えようとも思っていなかった。
だから付き合い始めてすぐ、楓に言われた言葉が今でも引っかかっている。
「冬華って、俺のこと本当に好きなの?」
意地悪な質問じゃなかった。本当に不安そうで、心細そうで、私はその顔を見て少し困惑した。こっちは必死で好きな気持ちを持て余しているのに、相手に伝わっていないらしい。
「好きだから付き合ってる」
そう答えたら、楓は安心したみたいに笑った。その笑顔がきれいで、私の胸がぎゅっとなった。「好き」が六割くらいに増えた気がした瞬間だった。
問題が起きたのは、それからしばらく経った頃からだ。
楓は、想像以上に重たい男だった。
スマホの通知が鳴り止まない。
授業中も、部活中も、夕飯を食べている最中も、楓からのラインが来る。内容は他愛ないことばかりだ。「今何してる?」「今日の弁当おいしかった」「昨日の数学の宿題終わった?」「明日会える?」。一件一件は大したことない。でも積み重なると、じわじわと息が詰まってくる。
返信が遅れると「どうしたの」と来る。未読のままにしておくと電話がかかってくる。「心配したんだけど」と言う声に棘はないのに、私は気まずくなって謝ってしまう。謝りたくないのに。スマホを見ていなかっただけなのに。
週一回は必ず一緒に帰って、月に二回はデートして、記念日にはプレゼントを渡す。楓が「ルール」と呼ぶそのリストは最初から存在したわけじゃなく、いつの間にか積み上がっていた。一個一個は断る理由がなかったのだ。一緒に帰りたいと言われれば断れないし、デートしようと言われれば行けるし、記念日を覚えていてくれるのは嬉しかった。でもそれが固定化されて「当然のこと」になった瞬間から、何かが変わり始めた。
義務になると、嬉しくなくなる。
嫉妬も激しかった。私が男子の友達と話しているのを見ただけで、楓は黙り込む。何かあったのかと聞けば「別に」と言うが、その後しばらく元気がない。あからさまに怒るわけじゃないし、責めるわけでもない。ただしょんぼりした顔で「冬華、あの人と仲いいの」と聞いてくる。その度に私は説明しなければならない。ただのクラスメートだ、塾が一緒なだけだ、幼馴染みだ。説明するたびに少し疲れた。
楓は決して悪い人じゃない。それはわかっている。ちゃんと気を遣ってくれるし、私の体調を心配してくれるし、誕生日は手作りケーキを持ってきた。嫌いになる理由がない。なのに、一緒にいると疲れてくる。
「仕方なく」という気持ちが戻ってきて、だんだんと私の中で面積を広げ始めていた。
ある土曜日、私はスマホを机の引き出しにしまって、一日ゲームをして過ごした。ラインの通知が来るのはわかっていた。でも見たくなかった。見たら返さなきゃいけないし、返したら返信が来るし、そのループが終わらない。だから見なかった。
夕方、電話がかかってきた。楓からだ。着信を見て、私はしばらく迷ってから出た。
「ねえ、大丈夫?連絡なかったから心配して」
心配するな、とは言えない。でも心配されたくなかった。一日くらいラインを見なくても死なない。
「ゲームしてた」
「そっか。ゲームか。……ねえ、今日会えない?」
「無理」
「なんで?」
なんでじゃない。会いたくないからだ。でもそれを正直に言うのも面倒で、私は「疲れてる」とだけ答えた。
「僕に会うのって疲れること?」
声に傷ついた色があって、私は少しだけ罪悪感を感じた。でもそれよりも「また始まった」という気持ちの方が大きかった。
「そういう意味じゃない。今日は一人でいたい」
「……わかった」
電話を切った後、私はしばらくスマホを眺めた。好きだったはずなのに、最近はその感情がどこにいったのかわからない。
翌週の月曜日、私は楓に「少し距離置きたい」と言った。
放課後の廊下で、二人きりだった。楓は一瞬止まってから、穏やかな顔のまま聞いてきた。
「それって、別れたいってこと?」
「そういうわけじゃない。ただ、ちょっと……窮屈なんだよね」
「窮屈」
楓が繰り返す。表情が読めなかった。怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも何も感じていないのか。
「毎日連絡しなくていいし、毎週会わなくてもいい。もう少し自由に付き合いたい」
「……冬華が嫌なら、そうする」
「嫌ってわけじゃ」
「でも俺のやり方が窮屈なんでしょ」
言い返せなかった。楓は小さく笑った。きれいな笑顔だったけど、目が笑っていなかった。
「わかった。冬華のペースに合わせる」
その日から、楓からの連絡は減った。毎日来ていたラインが、二日に一回になり、三日に一回になった。会う頻度も減った。私が望んだことだ。なのに、なぜか落ち着かなかった。
通知が来ない夜、私はスマホをぽんと机に置いて、天井を見上げた。静かだ。静かなはずなのに、どこか空洞みたいな気分がした。
これは気のせいだ、と思った。慣れれば平気だ、とも思った。
でも慣れなかった。
三日後には楓のラインを先に開いてしまっていたし、一週間後には「なんで来ないんだ」と思っていた。
自分のことが嫌になった。距離を置きたいと言ったのは自分だ。なのに、来ないとなると物足りない。どこまでわがままなんだ、と自分に呆れた。
問題が起きたのは、距離を置くようになって二週間後だった。
昼休みの中庭で、私は楓が知らない女の子と話しているのを見た。
友人と弁当を食べようとしていて、たまたま視界に入った。楓と、見たことのない女の子だ。私と同じくらいの年齢に見えるが、クラスが違うのか顔を知らない。二人は木陰のベンチに並んで座って、何か話し込んでいた。
私の足が止まった。
楓がにこりと笑う。相手の女の子が何かを言って、楓が頷く。親しげだ。距離が近い。私の胸の中で、何かが音を立てた。
「冬華?どうしたの」
友人に声をかけられて、私は我に返った。
「なんでもない」
弁当を食べながら、ちらちらと中庭に視線が向かう。楓たちはまだ話していた。女の子が笑って、楓も笑った。その笑顔を遠くから見て、私の中の何かがざわめき続けた。
鬱陶しい。窮屈だ。距離を置きたかった。全部本当だ。なのに、何なんだこれは。
午後の授業中もそのざわめきは収まらなかった。板書を写す手が止まった。シャーペンの先が紙の上でぴたりと止まって、私はその感覚の正体を考えた。
嫉妬、だと思う。たぶん。
認めたくなかった。あんなに鬱陶しいと思っていたのに、知らない女の子と楽しそうに話しているのを見ただけでこんなに胸がざわめくなんて、馬鹿みたいじゃないか。
でも否定できなかった。
楓の笑顔が脳裏にこびりついて離れない。あの笑顔を私に向けてくれていたはずなのに、今は知らない女の子に向いている。それだけのことなのに、なぜこんなに胸が痛い。
胸が痛い。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、私はようやく気づいた。
あ。まだ好きだ。
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