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水滴

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 蝉がうるさかった。ファストファッションの店で買った安いスニーカーのぺらぺらの靴底はコンクリートの跳ね返す暑さなど簡単に通して、足裏が灼けるように熱かった。あっついね、その辺のカフェ入ろうよ、あそこのパフェ、上にシャインマスカットいっぱい乗ってるらしいよ。僕がそう言うと、彼はあからさまに顔をしかめた。わざわざ甘いの食べに入るなんてインスタ映えまだ狙ってんの? そこのイタリアンでも映えるだろ。ははは、たしかにね。
 冷房のつんとした冷気がほてった全身をつつむ。ほんと暑くなってきたねえ。そーいやゆーきくん熱中症で倒れたって。耐えられなかったか、暑いもんなぁ最近。そうだよねぇ、僕らも気をつけないとね。あいつ細いしな。そうだねぇ。ぱたぱたと襟元から冷たい風を送り込む。端がぼろぼろになりかけている茶色い紙のメニューに、ぽたりと一滴の汗がこぼれた。どうする? 全部おいしそうだよ。俺ピザ食べたい。じゃあこれとこれかなあ、どう? おぉいいじゃん、それにしよ。

 体がそれなりに冷え、服と服のあいだに涼やかな風が通るようになってきたころ、ピザが運ばれてきた。彼はその大きな体からはあまり想像のできないようなやわらかな手つきで、すうとピザを切り分けていく。いつもピザの切り分けに四苦八苦する僕からすれば、魔法のようだ、と思う。
 そのピザは、すこし酸っぱいトマトと、すこし甘いドライトマトと、バジルが効いていて、普通のものよりも生地がぱりぱりしていた。おいしいね、こっちのシーフードのもうまい。たしかに。
 ひと通り咀嚼し、彼が口を開く。ていうか、知ってるかもしれないけど、高山、こんど結婚するらしい。え、え? りっちゃん? それほんと? うん、ほんと。そっ、か、びっくりした。こっちに残ることにした、ってこと? そうらしい。若干早すぎるかなとは思うけど、早いことに関してはまぁ……遅すぎるよりいいっていうか。まあそれはあるかもね。え、てか誰と? 俺も本人からは聞いてないからはっきりとはわかんないんだけど、あのままうまく行ってれば隼人か? 相手まで聞いてない。まあそうよねえ、隼人くん元気してるかなぁ。あいつならなんだかんだ元気だろ、多分。まあ、わかる。
 ぱさぱさと、夜に光った金髪を思い出した。隼人くん、本当に元気にやっているのかな。彼とりっちゃんが別れたことは、風の噂で知っていた。隼人くんとは特に仲良くもなかったのに、インスタでしか繋がっていないような友達がその友達から聞いたとか、なんとか。あれだけ好きあっているように見えたのに別れてしまうのか、と驚いた覚えがある。学生時代は彼らのことがうらやましかった。え、りっちゃんあいつと付き合うの?! と驚かれながらもみんなに祝福されたり、あまりの円満さに時には妬まれたりと、いわゆる普通の恋愛ができることが、どれだけ恵まれたことか。ああでも、もし本当に別れていたとて、彼は元気でいるだろう。この暑い暑い夏を、クーラーのきんきんに効いた明るい部屋で、我が物顔で過ごしていてくれたらいい。そうしてくれているのが、たぶんいちばん気持ちがいい。
 えぇでも僕結婚式招待されてないよ。なんかまだ婚約? の状態らしい、ちゃんと結婚はしてないみたいでさ。ああ、そうなのかぁ。そうらしい。
 ガラスコップの表面にびっしりと水滴ができては、重力に抗えず伝っていく。レモンの浮かんだ涼しげな水が太陽の光を受けて、きらきらきらきらと楽しげに揺れている。
 あぁ、そういえばさ。一枚ぽつりと残ったピザを口に押し込み、聞き返す。なに? 彼はコップの表面に人差し指をつける。結露した水滴がいくつかくっつき、ひとつになってテーブルまで伝った。彼が口を開く。俺、彼女できた。
 え、え、うそ。聞いてない。誰にも言ってないしな。えぇ、おめでと、やば、先こされちゃったよ。結婚式はいちばんに呼んでね。気が早いな、まだそんな付き合ってもないのに。でもりっちゃんだってさ、もう結婚するし。そうだけど。え、今何ヶ月? 3ヶ月くらい。じゃあこの前会ったときってもう付き合ってたんだ。まぁ、そうなるね。何で言ってくれなかったのさぁ。すぐ別れるかもしれないだろ、1ヶ月くらいじゃまだ言えないよ。そういうもんかなぁ。そういうもんだよ。彼はまたコップの表面に人差し指をつける。水滴が大きなかたまりになって、テーブルまで落ちる。
 千早はいい人いないの? いい人って言ってもいま出会いすらないよ。ていうか正直、怜央がこうして俺と会ってくれるのがわけわかんないし。気持ち悪くないの? なにが? え、だってふつう同性に好きだなんて言われたら気持ち悪いでしょ。気持ち悪い、とかじゃなかったけどなぁ、まあ正直驚きはしたけど。千早にとって俺とこうして会うことは負担? ううん、もう吹っ切れたし、負担ではないんだけど、もっと距離おかれると思ってたからさ。お前にとって負担じゃないなら、安心した。俺は、会いたい人に会って話したい人と話してたいだけだし。

 マイノリティはマジョリティの傲慢さにいつも敷かれて生きていかなくてはいけない。社会の普通から外れて生まれてきてしまった以上、一生そうだ。大多数側に生まれたというただそれだけで我が物顔をして街を歩き、大多数側に生まれたというただそれだけで少数派を見下す、そんなやつらにずっと。あいつら気持ち悪いよね、なにあれ。普通そういうのって隠して生きていくもんじゃないの? え、キモい、触られたくない。
 そんな世の中だからこそ、彼に惹かれた。俺のどこを好きになってもらえたのかわからないと彼は言うけれど、彼の見る、やわらかくて心地のよい世界のなかで暮らしたいと思った。何もマイノリティの自分だけではない、それぞれがそれぞれに地獄を抱えている、そしてそれは彼も同じだということもわかっている。けれどそれでも、彼の世界はきっと素敵だと、何か、直感のようなもので感じたのだ。
 彼女ができたと聞いてもそれほどショックを受けなかった自分が誇らしい。そうでしょう、怜央は素敵な人でしょう。会ったことも見たこともないその女の子に、精一杯のエールを送ることができる。
 怜央はさぁ。彼の目をまっすぐに見る。怜央はさ、とっても素敵な人だし、怜央を選んだそのひとも、きっと素敵な人だよ。これは僕が保証するから。彼はもうコップの表面に触れない。急だな、と言ってはははと笑う。ほんとだってば。またいつか会わせてね、僕、親友枠で怜央談義したい。ほんとになんなんだよそれ。まぁまたいつかな。いつかがあるんだ。あるかもしれないし、ないかもしれない。なにそれ。
 彼が窓の外を見る。外はまださんさんと光が降り注いでいて、まぶしい。ねぇまだ時間ある? もう1枚くらいピザ食べようよ、まだ暑そうだしさ。千早からそう言ってくるなんて珍しいな、いいよ、なんなら俺の家にでも寄ってく? え、いいの? 散らかってるけど。怜央の散らかってるって結局散らかってないから! でもお邪魔していいならしたいな。じゃあその辺でピザと、あとアルコールでも買って帰るか。えぇ嬉し。
 食べて飲んで笑って遊んで、君がいた夏だった。
 
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