視える後輩看護師の話

まつり

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視える後輩看護師の話②

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 結城李仁は『視える』看護師である。看護師と言う仕事柄、職場である病院は怪奇現象の宝庫だ。もちろんそう言った特異能力が無いにも拘らず『視えてしまう』看護師も存在する。それは偶然波長が合ったり、疲労が重なっていたり、常とは違う精神状態である時に『たまたま』視えることが多い。結城のように『視え過ぎる』人間は、看護師のように死に深く直面する職業は選ばないだろう。
 結城が大学卒業後に入職した病院は、三次救急病院だった。最初の二年間はICUで働き、その後ERへ配属された。ICUでも大概色々視えた。ICU、集中治療室は生命の危機に瀕している患者や、侵襲の大きい術後患者を24時間体制で看護している。オープンフロアが五床、個室が一床の作りで、様々な医療機器のチューブを繋いだ患者と常に空間を共にしている環境だった。その場で亡くなる患者も少なくない。そんな中、意識がある患者が時々『変な物が見える』と話すことがあった。心身にかなりの負荷が掛かった際、せん妄……一時的な意識障害によって幻覚や幻聴の症状が現れることがある。せん妄の症状として見えるはずのない何かが見えている場合が大半だが、そうではなく本当に視えている患者がいるのも事実だった。結城はICUで『視えたもの』は、まだ許容出来た。受け入れてはいないにしろ、うっすらとでも死を認識しているものが多かったからだ。しかし、ERは違った。ERに運び込まれ、治療の甲斐なく亡くなる患者は、自分がどうなってしまったのか全く分かっていない。自殺、事故、病気……。既に心停止している状態の患者も運び込まれる。CPR(心肺蘇生法)を施されながら搬入して来た患者の体の傍に佇むものが目に入ると、『ああ、もう戻ることは無い』と嫌でも分かってしまう。そう言ったモノたちが、ERという狭い空間に漂っていた。ERに異動して三年、結城は限界を迎えて前の職場を退職した。




「結城、お前何で看護師になったんだよ。病院とか格好の心霊スポットじゃん」
 桃太は勢い良くビールを飲み干すと、若干音を立ててグラスを机の上に置いた。正面に座る結城は相変わらずの三白眼で桃太を見ている。今日はサービス精神は無いようで、いつもの胡散臭い笑顔も無かった。
 八月も中頃。神志那主任からの助言を受けた桃太は、漸く重い腰を持ち上げ結城を飲みに誘った。結城と飲むのは病棟の歓迎会以来だ。その時は殆ど話をした覚えがないため、実質今回が初めてと言うことになる。
 アルコールが入っているからか、桃太の結城に対する態度も平素に比べやや友好的だ。しかし対照的に結城はシラフである。手元にあるのは烏龍茶だった。折角結城との親睦を深める場であるはずなのに、当の結城が飲まずに桃太ばかり酒を飲んでいる。
「こんなにたくさん視えるなんて思わなかったんですよ。看護師になるまでは、クリニックの外来しか行ったことなかったですし……。看護実習も昼間じゃないですか」
 結城は少し不貞腐れたような表情で、烏龍茶を煽った。桃太は、そういうものなのかね、と目の前の唐揚げを摘む。
「まぁ、看護師になろうと思ったのは……俺、歳の離れた妹がいるんですけど、その妹がまだが小さかった時、体が弱かったことがキッカケですね」
「へぇ……結城、妹さんいるんだな。今は大丈夫なのか?」
「はい。今は元気過ぎて憎らしいくらいです」
「そっか。良かった」
 桃太はそう言って笑うと、体を少し乗り出してポンポンと結城の腕を叩いた。結城も釣られて表情が柔らかくなる。桃太はそれを『妹のことを思い出し、思わず顔が綻んでしまう兄』として微笑ましく捉えた。桃太は二人姉がいる末っ子だ。妹や弟がいる同級生がいつも羨ましかった。
「結城は妹思いなんだな。良いお兄ちゃんじゃないか」
「妹思いかどうかは分かりませんが、桃太さんが褒めてくれるのは嬉しいです」
 普段ならば、桃太から結城に触れる事は滅多に無い。結城は桃太の予想外のスキンシップに更に機嫌を良くしたようだった。三白眼の目尻が緩んでいる。
 桃太はもうひと口ビールを飲むと、グラスを抱えて思い出したかのように「そう言えば」と声を上げた。
「そう言えばさ。さっき店に入る時、店員さん何か変な事言ってたよな。俺と結城の二人しか居ないのに、三名様ですか?って」
「ああ、あれは……」
 笑いながらそう言った桃太に、同じく和やかな様子で結城が答える。
「あれは、本当にもう一人いたんですよ。俺の隣に」
「……は?」
 結城は普通じゃ無いことを、さも普通のことのように話す。桃太の脳は一瞬思考を停止した。
「あ、一人ってのは、語弊があるかな。一体?……あの店員さん、視えちゃったみたいですね」
 結城は先程から、シメでもないのに白玉きなこやアイスクリームようなデザート系ばかりを食べている。こんなことを話している最中も、平然とアイスを口にしているのだ。こいつ、顔に似合わず甘い物が好きなんだな……と桃太は危うく現実逃避しそうになった。
「結城……」
「桃太さんが話題を振って来たから答えただけです」
「そうだけど!」
 結城が怖い話をすると、桃太はいつも泣きそうな顔になる。今日はその顔がさらに歪み、凛々しい眉尻は下がり唇に至ってはへの字になっていた。三十代のいい大人がこんな表情をした所で、普通は可愛いなどとは思わないだろう。しかし、結城は目を細めてそんな桃太の涙ぐむ姿を見ている。
「桃太さん、本当に怖がりですね」
 結城は溜め息を吐いて、桃太の手に握られたビールグラスをそっと外した。自分の手元にあったバニラアイスを掬うと、それを桃太の口に運ぶ。
「さぁ、甘い物でも食べてちょっと落ち着いて」
「……マジで腹立つわ」
 アルコールの力は凄い。人間の判断力を鈍らせ、普段より警戒心を希薄にする。桃太は悪態を吐きながらも、優しい声色と共に差し出されたそのスプーンに素直に食いついた。結城の目にはその一瞬がスローモーションのように映る。
「……美味しいでしょう?」
 結城がそう言って微笑むと、桃太は「こんなもので誤魔化されないぞ」と恨みがましく呟く。しかしそう言いつつも結城の手からスプーンを奪い取ると、またひと口アイスを食べた。
「だからいつも言ってるじゃないですか。桃太さんがいくら怖がったって、桃太さんに視えることはないし、何も起こりませんって」
 結城は備え付けのモバイル端末を操作し、烏龍茶をもう一杯オーダーする。何度目か分からない結城の説明にも、桃太は毎度の如く納得していない様子だ。
「でも、一緒について来てたじゃないか」
「それは俺について来ていただけです」
 桃太は結城のその言葉に大きく目を見開くと、ガシッと結城の腕を両手で掴む。結城のシャツが引き破られるのではないかと思うくらいの握力である。さすが元ハンドボール部だ。この握力は、経管栄養チューブのコネクターが外れない時や、点滴の三方括栓の蓋が外れない時に重宝されていた。
「え!?今も居るのか?」
「……居ません」
「その間が怪しい」
「……しつこいな、居ませんって」
 桃太は結城の腕を掴んだまま、忙しなく辺りを見回した。個室なので、この狭い空間には桃太と結城しかいない。結城は、腕力とは対照的にまるで小動物の様に怯える桃太の背中を撫でた。
「桃太さん、よく聞いてください」
 桃太は体を寄せ合っている恥ずかしさより、何かに縋りたい気持ちの方が最優先のようで結城の言葉に素直に頷いた。結城は桃太の反応を見て言葉を続ける。
「桃太さんは、桃太さん自身が一種の魔除けなんです」
「……え、何?」
 桃太は、真面目な顔で突拍子も無いことを言い放った結城を見上げた。当の結城はテーブルに備え付けられていたアンケート記入用のボールペンを手に取り、紙ナプキンにある文字を書く。桃太はそれが自分の名前だと気づいてさらにキョトンとした。
「これは桃太さんの名前です。『桃』には昔から魔除けの効果があるとされてきました。桃太郎然り、桃の節句然り。桃太さん、『古事記』はご存じですか?」
 結城の問いに桃太は首を傾げ「日本史で習った気がする」と答えた。結城は少し呆れたような表情をしたが、文系科目が苦手だった桃太は何となく覚えていたことの方が快挙である。
「まぁ、いいです。日本神話である『古事記』には、国生みの神であるイザナギノミコトが黄泉の国から帰る際、黄泉の鬼に襲われたところを桃の実を投げつけて撃退したという記述があります。このように、太古の昔から桃には邪気や魔を退ける力があるとされてきました」
 結城は紙ナプキンの上に書かれた『桃』の文字をグルグルと丸で囲む。桃太はそれを目で追いながら、うーんと唸った。分かるような分からないような……。名前に『桃』の文字が入っているだけで、果たしてそんな効力があるのだろうか。
「もちろん、名前だけでは無いですよ。桃太さんの体質もあると思います。魂……の話をするとちょっと胡散臭くなってしまいますが、桃太さんの魂、根幹が清らかなんです」
「……」
 魂が清らか……。結城はとてつもなく小っ恥ずかしいことを当たり前のように言っている。実際、魂が存在するかどうかも桃太には分からない。精神や感情はホルモンの分泌や脳の機関に由来するものだ。学生時代、内分泌と脳神経の授業が大の苦手だった桃太でもそれくらいは知っている。桃太は酔いが醒めてきたのか、急激に羞恥心を感じ結城から体を離した。
「そんなこと言われても、信じられるかよ」
「まぁ、そうですよね」
「それに、お前何でそんなに詳しいんだ?霊能力者か何かなのか?」
 桃太の問いに、結城は首を振る。そして「俺はただ視えるだけです」と自嘲気味に呟いた。
「廃業しましたけど父方の曽祖父以前は神職、母方の祖父は民俗学や哲学を研究している人でした。因みに母もサブカル愛好者で、有難いことに子どもの頃からその手の本に触れる機会が多かったんです。お陰で自分に視えているものが何なのか、とかそう言ったことの知識は多少得ることが出来ました」
「はぁ……」
 音で聞いているだけでも難しい言葉の羅列に、桃太の脳は理解することを放棄したようだ。とにかく『桃太は桃太自身が魔除けのようなものである』と言うことは分かった。
「つまり、俺には何も怖いことは起こらないと言うことなんだな」
「結論的に言うとそうなりますね」
 桃太はほんの少し安堵したが、とは言え結城が毎度毎度、桃太に恐怖話をすることが解せない。他のスタッフにその手の話をしている姿を目にした事がないのも不思議だ。結城は運ばれて来た烏龍茶を桃太の前に置いた。
「どうぞ」
「……サンキュ」
 桃太は差し出された烏龍茶をひと口飲むと、フゥと息を吐いて最大の疑問を結城に訊ねた。
「結城、お前さ。ずっと疑問だったんだけど、どうして俺にしか怖い話をしないんだ?」
 結城は桃太の質問に一瞬面食らったような表情をしたが、「ああ、そうですね……」と独り言のように呟いた。そして暫しの間を置くと、形の良い眉尻をやや下げた。普段は小憎たらしい後輩の珍しく年下然とした表情に、桃太も不思議と『可愛い一面もあるものだ』と言う気持ちになってしまう。しかし『いかんいかん、その答えによっては先輩、いや大人として厳しい対応を取らねば……』と瞬時にその思考を頭の片隅に追い遣った。桃太のことを馬鹿にしたり軽んじるような返答であれば、桃太とて堪忍袋の尾が切れると言うものだ。
 しかし結果、その小憎たらしい後輩が口にした言葉に、桃太は瞠目せざるを得なかった。
「……桃太さんになら、分かってもらえるような気がして。俺、桃太さんに甘えていたんですよね」
 結城は目線を落とし、空になったグラスを見つめている。桃太は思わず、こいつシラフだったよな?と心の中で自問した。今日の結城はオーバーサイズの黒いTシャツを着ているせいで、腕を上げた時にシャツの隙間から一瞬あの瘢痕が見えた。真っ白な腕に生々しく引き攣った傷。
「物心ついた頃から、他の人に見えないモノが俺には当たり前に視えていました。色んな、本当に目にしたく無いモノが。だけど、他の人には言えなかったんです」
「どうして……」
 桃太は『どうして言えなかったんだ?』と続けようとした。しかし結城は首を振ってそれを遮る。
「世の中、桃太さんみたいに優しい人ばかりじゃないんですよ。そんなこと言ったら、みんな俺のことを怖がるでしょう?」
「お、俺だって怖がってるだろ……」
「桃太さんは、俺の話に怖がっているだけで、俺を怖がってはないですよね?」
 まぁ、確かにそう言われてみれば……。桃太は首を傾げながら腕を組んだ。しかし、結城が桃太を怖がらせていることに変わりはない。その点を追求すべきかどうか……桃太は結城の予期せぬ吐露にどう反応すれば良いか判断がつかなかった。結城は手元のグラスから桃太に視線を合わせると、少しだけ歪んだ笑顔を浮かべる。
「……俺だって、安易に桃太さんを怖がらせたい訳じゃないんです」
「……」
 桃太の心を見透かしたかのように、結城はそう付け加える。その場に沈黙が流れ、桃太が何も言えずにいると結城が突然がくりと項垂れた。目縁に掛かった漆黒の髪を掻き上げ、そのまま片手で目元を覆う。
「……見ないでください」
「結城?」
「……恥ずかしいので」
 結城は目元を覆ったまま、「こんなこと言うつもりじゃなかったのに」「俺らしくない」などとブツブツと呟いている。静脈が透けて見えそうな白い耳先が赤くなっていた。確かに結城は自らのことを多く語る人間ではない。いつも軽口は叩くが、その本心を見せることは皆無だった。それ故、桃太も結城のこのような言動に少しばかり衝撃を受けている。桃太は『絆される』ということがどういう心境の変化から来るものかを、今まさに経験していた。先入観との高低差が激しい程、ふと垣間見えた相手の一面に人は心を動かされ易い。結城は淡々と自分のことを話していたが、自分が体験している恐怖を人と分かち合うことが出来ないことは、どんなに辛く苦しかっただろう。桃太は結城の頭を無造作に両手で撫で、その小ぶりな頭を抱えた。
「結城よ、まぁ……お前の気持ちは分かった」
「……何ですか、急に。髪をグシャグシャにしないでくださいよ」 
 結城は口では抗議の声を上げているが、桃太にされるがままだ。しおらしくなった大型犬を相手にしているようで、桃太は実家で飼っているハスキー犬を思い出した。
「結城が俺を頼ってくれているのは分かった。その結果、俺が怖い思いをすることに対しては許容は出来ないが、譲歩してやらないこともない」
「はぁ……」
 桃太は結城の頭から手を話すと、その手元にあった溶けかけたアイスを掬った。それを結城の口元まで運ぶと、スプーンの先で唇を突く。結城は突然の奇襲に驚き、覆っていた手を顔から外した。
「ほら、甘い物でも食べて」
「何ですか。桃太さん、絶対に酔っ払ってるでしょう?」
「俺もそう思う」
 桃太は笑いながら、少し開いた結城の口の中にすかさずスプーンを押し込んだ。桃太から押し付けられたアイスを口内で溶かしながら、結城は桃太をじっと見つめる。居酒屋のやや薄暗い照明の中でも、桃太はほんのりとした明るさを帯びていた。嫌なモノばかり視えてしまう散々な人生だったが、こんなに清浄で暖かいものが視えるのなら自分のこの鬱陶しい特異体質も悪くは無いと思える。結城は桃太の手を取って微笑んだ。
「桃太さん……酔っていても、今日のことは忘れないでくださいね」


 
 22時過ぎ。桃太と結城は居酒屋から離れ、駅へと向かっていた。
「桃太さん、帰り道一緒なので送って行きますよ」
 結城は全くアルコールを飲んでいないため、帰りはいつものバイクだ。駅横の駐輪場に停めているらしい。
「うーん、そうだなぁ。今日は送ってもらおうかなぁ……」
 半分酔いが醒めてきたとはいえ、桃太の口調はいつもよりふわふわとしている。加えて、後輩の結城とのわだかまりがほんの少し解けかけたことで、その距離も縮まったような気がしていた。桃太にとって、今日の飲み会は成果があったと言える。当然、満足感はあった。
「良かった。そんな調子で家まで帰れるか心配だったんですよ。……はい、桃太さん半袖だからこれを着てください。あと、メットです」
 駐輪場に着くと、結城は愛車のタンデムシートからライディングジャケットとヘルメットを取り出して桃太に渡した。桃太がジャケットに袖を通すと、それがメンズサイズだと言うことが分かる。体格がまずまず良い方の桃太でさえ、余裕がある程だ。恐らく、結城本人の物なのかもしれない。
 結城がバイクのシートに座った後、桃太も後部シートに座った。学生時代に友人のバイクにニケツした時とは雲泥の差の乗り心地である。まさしく、二人乗り用のバイクの作りだ。
「結城、いつも一人でバイク乗ってるのに、二人乗り仕様のバイクを使っているのが不思議なんだけど」
  桃太はヘルメットを被りながら、結城の背中に向かって訊ねた。ヘルメット越しに結城がくぐもった声でそれに答える。
「今日は桃太さんを送るつもりでこれにしたんです。もう一台、一人乗り用のバイクも持っていますよ」
 それは初耳である。桃太は結城がこのゴールドウィング以外に乗っている姿を見たことが無い。……いつも誰かを乗せるつもりでこのバイクで出勤しているのか、という疑問が浮かぶ。用意周到にもう一セットヘルメットとライディングジャケットを準備しているくらいだ。いつその『誰か』を乗せることになっても良いように。
「桃太さん、ちゃんと掴まってください」
「あ、うん」
 バイクのエンジン音が聞こえ、桃太は慌てて結城の体に腕を回した。薄手のジャケットだからか、結城の体付きが何となく分かる。思いの外、筋肉がしっかり付いているようだ。
 桃太は看護学生時代に彼女が一人いたが、ここ十年程は仕事に追われ、彼女を作る暇など無かった。しかし、同じ境遇にいるであろう結城にそんな疑惑が浮上するとは、何ともモヤモヤする。残業続き、病棟と言う閉鎖された空間、不規則な勤務形態、院外の人間と出会うチャンスなど皆無だ。それこそ、同僚のツテに縋るしかない。そんな過酷な状況で……結城よ、いつ彼女と出会い、逢瀬を重ねて来たのだ。
 桃太はそんなことを考えながらも、結城の背中とタンデムシートの乗り心地が良過ぎてうつらうつらと船を漕ぎ始める。結城の運転がかなり丁寧で、徹底した安全運転だったことも相乗効果を発揮していた。
「桃太さん、寝たら落ちますよ」
「……うん」
 桃太の腕の力が緩んだのを察した結城が、桃太に声を掛ける。桃太はまるで抱きつくように、結城の背中に体を寄せた。
 地方都市の22時は、市街地から少し離れるだけで車の往来はかなり減る。歩道を歩いている人はほぼいない。道路沿いには、すでに閉店作業を終えたドラッグストアやポツポツと明かりの点いた住宅街が並んでいた。交差点の向こう側、反対車線横にあるコンビニの明かりが煌々としている。結城のバイクが赤信号で停車し、車体が少し左に傾いた。
「結城?」
 片側一車線の交差点には、結城のバイクしか停車していない。今しがた目の前を一台のトラックが走り過ぎ、その後は一気に静けさに包まれる。桃太は結城の体に少し力が入ったような気がして、不思議に思いながら声を掛けた。結城は丁度コンビニの方を向いているようだ。しかし桃太が声を掛けた後も、そちらを向いたまま返事が無い。
「結城、信号」
 信号が青に変わり、桃太は回した手で結城の腹を軽く叩いた。桃太のその動作を契機に結城の体が一気に弛緩する。
「あ、すみません」
 結城は左折のウインカーを出すと、スロットルを回しバイクを発進させた。桃太の住むアパートへ行くにはこのまま直進するルートが最短だが、急に結城が左折をしたので桃太は抗議の声を上げる。
「結城、俺の家の方向と違う」
「桃太さん、こちらからでも帰れるでしょう?」
 桃太は「そうだけど」と言いながら、先ほどの結城の不可思議な挙動を思い返した。
「もしかして……、お前今何か視えたのか?」
「……何も視ていません」
 結城はそれきり黙ったままバイクを走らせ続けた。桃太も何も言えずにひたすら結城の体に掴まっていただけだ。随分遠回りをして桃太のアパートに着いたのは、23時になろうかと言う時間だった。
 結城が桃太のアパートの入り口付近にゆっくりとバイクを停車させる。桃太は「よいしょ」と声を上げながらバイクから降りた。
「結城、送ってくれてありがとな」
「いえ」
 桃太がヘルメットとジャケットを渡すと、結城はそれを丁寧にバイクの収納スペースに入れる。ヘルメットを被っている結城の表情は分からない。普段からそんなにお喋りな方ではないが、明らかに口数が少ない。
「あ、結城。ちょっと待ってて」
 桃太は何を閃いたのか、突然自分のアパートの部屋へ走って行った。結城は言われるがまま、その場にポツンと立っている。部屋に入ると、桃太はクローゼットの奥深くに仕舞い込んでいた物を引っ掴み、もう一度結城の前に走って来た。
「桃太さん。そんなに慌てなくても、俺は逃げませんよ」
「待たせたら……、悪いと思って」
 運動不足の三十路がほぼ全力で走った結果、息が整わず苦しい。横腹が痛い。中学、高校とハンドボールで鍛え抜いた自慢の足腰は形無しで、ちょっと走っただけで膝がガクガクしている。桃太は時間を掛けて息を整えると、手の中に握り締めていた物を結城に渡した。
「これは?」
「安全ベスト」
 桃太が結城に手渡したのは、サッカーで着用するビブスのような形状のベストだった。蛍光イエローの布地に反射テープが付いている。背中側には『安全パトロール中』と言う文字がプリントされていた。
「桃太さん。どうしてこんな物持っているんですか……」
「実家の自治会のやつ。夜間パトロールの人手が足りない時、応援に呼ばれるんだよ……。まぁ、そんなことはいいから。今日はこれを着て帰れ」
「は?」
 桃太は有無を言わさず、ささっと結城にその反射板付き安全ベストを羽織らせた。全身真っ黒な結城が着用すると、暗闇に蛍光色のベストだけがぽっかりと浮かんでいるようだ。珍妙な出立ちであるが、桃太は満足そうに笑うと結城の肩を叩いた。
「お前、そんな服装で夜道は危ないだろ。これを着てたら俺も安心だわ」 
 よく見れば、ド蛍光色の布地の端に『田中桃太』とマジックペンで殴り書きがされている。結城はその部分を摘んで書かれた文字を見つめた。
「あ、それ。みんなで共同で買ったやつだから、誰のか分かんなくなると困るだろ?」
 桃太は「さぁさぁ、早く帰れ」と押し上げるように結城をバイクに座らせ、もう一度肩を叩く。
「今日は本当にありがとな。気をつけて帰れよ」
「……はい、ありがとうございます。桃太さんのコレのお陰で、俺も安心して家に帰れます」
「そうか、良かった」
 ヘルメット越しでも、桃太には結城が笑っているのだと分かった。結果的にかなり前衛的なコーディネイトにはなっているが、結城が喜んでくれているなら良かったと、桃太もひと安心する。結城が去った後も、桃太はその後ろ姿を暫く見送った。
「はぁ……」
 桃太は項垂れながら、アパートの自室へ入って行く。今日は色々と刺激的なことを耳にし疲労困憊の桃太は、パタンと玄関のドアを閉めると上り框に腰を下ろした。
 今日分かったことは、『恐らく結城に悪意が無いこと』だ。桃太を怖がらせるために、わざわざ自身の恐怖体験を話していた訳ではなかった。今日結城が話したことは、真実であると信じたい。
『田中桃太』。今まで自分の名前を特段意識して生きて来なかったが、この名前のお陰で自分に『何か怖い出来事』が起きないのであれば、名付けてくれた両親には感謝せねばなるまい。そう言えば最後に実家に帰ったのはいつのことだったか……。とは言えど、桃太の実家は同じ市内で、車で三十分程の距離だ。桃太は来週辺り実家に顔を出してみようと思った。












 
 
 


 
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