視える後輩看護師の話

まつり

文字の大きさ
4 / 9

視える後輩看護師の話④

しおりを挟む
 瑠海には歳の離れた兄がいる。寡黙だが、とても優しく賢い、自慢の兄だ。瑠海が五歳になると、共働きの両親の代わりに保育園へお迎えに来るのは高校生になったばかりの兄の役目となった。瑠海は今でも憶えている。兄と手を繋いで帰る家までの道のりが、瑠海にとっては幸せだったことを。その時間だけは、瑠海が兄を独り占め出来たのだ。
 瑠海がその日にあった出来事を兄に話すと、兄は訥々と何か言葉を返してくれる。幼いながらも、兄の話す言葉は気の利いたものではないというのは分かった。しかし瑠海は、仏頂面な兄が瑠海のために何か思案しながらも話をしてくれていることが嬉しかったのだ。
 あの日……。あの日も瑠海はいつものように兄と二人で並んで歩いていた。西日を背に瑠海と兄、二人分の影が長く伸びている。秋の夕暮れは茜色に染まり、家路を急ぐ鳥たちが遠くの空を飛んでいた。ごくありふれた夕方の風景だ。
 瑠海は自分の影を踏みながらスキップをするように歩いていた。兄の影は瑠海より大きく、瑠海は兄の腰の高さほどしかない。影の中の兄妹もぎゅっと手を繋いでいる。瑠海が繋いだ兄の手を揺らすと、影の手もゆらゆらと揺れた。瑠海は何故だかそれが楽しくて、覚えたての童謡を口ずさみながら何度も自分の手と兄の手を振る。すると瑠海の背後から何か音が聴こえた。何かが擦れるような音だ。
「……お兄ちゃん」
 瑠海はふと足を止めて後ろを振り返る。兄は当初その瑠海の行動に首を傾げていたが、突然強い力で瑠海を抱え上げ走り出した。兄の大きな手が瑠海の目を覆う。あの時、瑠海には視えた。瑠海と兄、二人しかいないはずの道に映る影。瑠海の肩からまるで手招きをするように、手の形をしたものが伸びていたのだ。後ろを振り返ったのは、誰かが背後にいるのだと思ったから。しかし瑠海には何も見えなかった。今思えば、兄には『何か』が視えていたのだろう。
 家に着くなり、階段駆け上がり兄は瑠海を抱えたまま子ども部屋へ転がり込んだ。子ども部屋に鍵などない。兄は瑠海を床に降ろすと、まるで自身を砦にするようにドアを背に座り込む。
「瑠海、耳を塞いで。お兄ちゃんの目を見て」
 瑠海は言われるがまま、小さな手のひらで自分の耳を塞ぎ、目の前の兄を見た。兄は少しだけ微笑んでいる。荒い息を整えるように深呼吸をした。
 次の瞬間、子ども部屋のドアがガタガタと揺れた。いや、揺れたというような生優しいものではない。何か大きなものがドアに向かってぶつかっているような衝撃だ。ドン、ドンと、ドアが揺れる度に、兄の体が大きく跳ねる。瑠海はただ目を見開いて兄を見ていた。耳を塞いでいても、ドアの外からザラザラとした質感の音が聴こえる。耳から聴こえているのか、脳に直接響いているのか分からない。耳障りな『音』だ。
「……」
 外から押し寄せる音の合間に、微かに兄の声が聴こえた。よく見ると、兄の唇が僅かに動いている。何か言葉を紡いでいるようだ。瑠海は後にそれが『祓詞(はらえことば)』であることを知った。兄の声が徐々に大きくなる、いや外の音が小さくなっていったのか。
「お兄ちゃん……」
 ドアにぶつかる衝撃も止み、子ども部屋が静寂に包まれる。瑠海は安堵して兄に声を掛けようとした。その時だ。今まで以上に気味の悪い唸るような音が聴こえたかと思うと、兄が瑠海の小さな体を庇うように抱きしめた。瑠海の視界は、兄の体で真っ暗になる。
 次に目が覚めた時は、病院のベッドの上だった。傍には両親がいる。しかし瑠海がいくら探しても、そこに兄の姿は無かった。瑠海は一週間近く高熱を出し、意識が朦朧としていたらしい。覚醒した後も、暫くの間は始終体が重く怠かった。
 その後瑠海は祖父の知り合いの神主の家に預けられ、日中は神社の境内を散策したり、掃除を手伝ったりして過ごした。もうあの不気味な影を見たり、怖い思いをすることもない。時折『音』だけは聴こえたが、それも成長するにつれ、徐々に聴こえなくなっていった。
 兄に再び会ったのはひと月後だ。兄はただ瑠海の手を優しく握り、「ごめん」と言葉を絞り出した。瑠海の手を握る兄の右腕には大きな傷がある。兄の方が痛い思いをしているのに、どうして瑠海に謝るのか。瑠海は大きな目から涙を零し、兄の腕にしがみついて泣いた。
 




 桃太は何か夢を見たような気がして、重い瞼を開けた。常夜灯の薄暗い視界に入るのは、アパートの天井、ぐるりと四方を見遣ると、壁には心酔するアニメのポスター、本棚、反対側の壁にはパソコンとカーテンが掛かった窓、爪先の方向には慎ましいリビングが見える。スマートフォンで時間を確認すると、午前5時ちょうど。もちろんまだ夜は明けていない。少し肌寒さを感じ、桃太は綿のタオルケットを肩まで引き上げた。今日は結城と出掛ける約束をしている。桃太が好きなアニメの劇場版の公開初日なのだ。なぜ結城と観に行くことになったかは推して知るべしであるが、『偶然』休みだった結城が半ば強引に約束を取り付けたという次第だ。桃太も好きなものを共感出来る相手がいた方が楽しいだろうと思い、結城の同行を許したのだが。昨日、日勤終わりで言葉を交わした時、結城は今日を楽しみにしているようだった。上っ面だけの笑顔か、仏頂面か両極端しかないと思っていた結城の表情も、最近では何となくその変化が分かるようになって来た気がする。
 桃太はスマートフォンをサイドボードに置き、もう一度目を閉じた。結城との待ち合わせ時間までまだまだ余裕がある。桃太はもう一度微睡みの中へ手を伸ばし、深い眠りにつくのだった。




「……結城、遅くなって申し訳ない」
 結果、二度寝をしてしまった桃太は、十分ほど遅れて待ち合わせ場所へ到着した。駅ビルの中にある映画館。こぢんまりとしたラウンジの一人掛けソファに、結城は座っていた。遠目から見ても目を引く容姿。今日は墨黒のリネンシャツに、濃紺のデニムパンツを履いている。俯いたままスマートフォンを凝視している結城の周りで、若い女性が何人かウロウロしているのも確認出来た。……相変わらずのモテ具合である。
「桃太さん」
「本当にごめん。寝坊した」
 桃太が開口一番に結城に謝罪の声を掛けると、結城が弾かれたように顔を上げた。その表情は微々たる変化であるが、嬉しさが滲んでいるような気がする。やはりデカいハスキー犬だ。そのうち尻尾も生えてくるのではないだろうか。結城はソファから立ち上がると、跳ね上がった桃太の後ろ髪を手のひらで押し撫でる。いつものようにスタイリング剤で整える暇もなく、着の身着のまま家を出て来てしまった。そのせいでどうやら寝癖が付いていたらしい。
「よほど慌てて来てくれたんですね。ありがとうございます」
「いや、なんでお前が礼を言うんだよ……。お詫びに何か奢るから」
 桃太は制止しなければ自分の頭をずっと撫で続けそうな結城の手を取ると、とりあえず飲み物を買おうと売店の所まで引っ張って行った。周囲の女性たちの視線が気になったことが、早々とその場を立ち去りたかった理由だったが。
 結城はアイスココア、桃太はブラックコーヒーを片手に、開演案内のアナウンスとともに場内に入室する。何か他に食べたい物はないか確認したが、結城は飲み物だけを注文した。相変わらず甘いココアである。桃太は結城の血糖値が大丈夫なのかも心配になってきた。
「桃太さん、ここですよ」
 公開初日なだけあって、場内は隙間なく客が入っている。数日前から予め座席指定で購入していたため、桃太たちの席は真ん中辺りの通路側の席だった。
「俺こっちがいい。トイレに行きたくなるかも」
 桃太は通路側の席、結城はその隣に座る。結城は真面目な顔で「頻尿ですか?」と尋ねて来る。
「いや、普通に冷えると行きたくなるんだよ。ほら、映画館ってエアコン効きすぎてるだろ?」
 結城はそれを聞くと自分のバックパックから薄手のカーディガンを取り出し、桃太の肩に掛けた。
「え?」
「それ使ってください。俺、長袖なので寒くないですし」
 結城はさらりとそう言い、いつもの三白眼で桃太を見た。桃太は「サンキュ」と答えながら結城のカーディガンの上から自分の肩をさする。
 ……何だその彼氏力は。俺に発揮してどうするんだよ。
 もし桃太がうら若き女性なら心拍数が爆上がりし、結城の行動にときめいていたに違いない。しかし残念ながら桃太は三十路男である。ただひたすら照れ臭いのと、こんな芸当をやってのけるイケメンの後輩に嫉妬心しかない。結城は隣でストローを咥え、「いえ」と答えた。
 そうこうしている内に映画が始まり、場内はさらに暗くなる。CMが数本流れた後に、いよいよ本編が始まった。桃太は学生時代からこの作品の大ファンだ。物語も佳境に差し掛かり、二転三転する肉体的なバトルシーンと緊迫した頭脳戦に夢中で見入っていた。周囲の観客も桃太と同じように固唾を飲み、映画の内容に没頭している。大音量での効果音、主人公の叫び声、スクリーンから発せられる光の変化が観客を照らす。よくある映画館の風景だ。そんな中、ふと結城がこちらを見ていることに気づいた。桃太が結城に視線を向けると、結城は桃太ではなく、通路の少し先を見ている。薄暗い中でも、結城の表情が強張っていることが分かった。桃太は肘掛けの上に置かれた結城の腕を軽く突き、その顔を覗き込む。数秒の後に結城と目が合った。周囲が無音になり、スクリーンが暗転する。
 桃太は、結城に『何か』が視えているのではないかと思った。こんな暗くて密閉された場所だ。映画館での怪談話も少なくない。どうして結城はこんな場所にわざわざ着いて来たのだろう。嫌なものを目にしてしまうことは分かりきっているのに。
 結城が軽く息を吐いた。諦めと緊張とが綯い交ぜになったような溜め息だ。
「……」
 結城が軽く唇を開いたので、桃太は結城が何か耳打ちをしたいのだと思い少し顔を近づけた。結城は近づいた桃太の頬に手を当て、ひやりとした感触で包み込む。桃太がそれを疑問に思う前に、手のひらほど冷たくはない何かが桃太の唇に触れた。その瞬間、耳の奥に大音量が溢れ、スクリーンの光は明滅する。
 瞳孔が開いていく感覚とはこのようなものなのか、と桃太はぼんやりと思った。意志とは関係なく痛いほどに目が見開かれ、対比するように触れている唇は柔らかく少しカサついている。……俺、もしかして結城にキスをされているのではないだろうか。桃太がその事実に気づいた時、結城が静かにその唇を離した。
 心の中では上映中のアニメの主人公のように驚愕の叫び声を上げていたが、ここは劇場で、今はちようど本編のクライマックスシーンだ。桃太は結城に何か一言言ってやろうと思うが、ただ口をぽかんと開けたまま何も言葉を発することが出来ない。場内の空気は冷えているはずなのに、桃太は全身から汗が吹き出ているような気がした。
 相対する結城は桃太にキスをしたことなどまるで無かったかのように、いつもの様子で大画面に向かって座っている。いやいや……。ちょっと待て。桃太はこの映画の公開を、制作決定時から心待ちにしていたのだ。それなのに、こんなに心がザワついたままで、どうやって映画を楽しめと言うのだ。後ろの席の客だってそうだ。いくら場内が暗かったとは言え、さすがに後ろの席の客たちは前の席で一体何が行われていたか目撃せざるを得なかったであろう。ロマンチックさの欠片も無い、主人公が血みどろのシーンで、何故か突然キスを始める二つの影……。桃太は居た堪れなくて、上映終了後もしばらく俯いたまま席を立つことすら出来なかった。
「桃太さん、映画は終わりましたよ」
「……」
 色々言いたいことはある。本当に色々と。桃太は今生の恨みを込めたかのように結城を睨み上げた。しかし結城は、場内が明るくなってもなかなか席を立とうとしない桃太を訝し気に見ている。いや、お前マジで……。
 あらかた客たちが退席したことを確認すると、桃太は勢いに任せて立ち上がり脱兎の如くその場を後にした。もちろん結城は置き去りだ。もう誰にも自分と言う人間を認識されたくない。このまま家に帰って一生閉じこもりたい……。しかし、桃太の切なる願いは早々に断ち切られた。映画館の階からエスカレーターで降りようとしたその先に、結城が待ち構えていたからだ。いつの間に、と言う言葉を発する間もなく、今度は手すりに置いた腕を結城にとてつもなく強い力で引っ張られる。そのせいで桃太はバランスを崩し、結城の胸に飛び込む形で倒れ込んでしまった。結城が小さく「近すぎる」と呟いたようだが、桃太はそれどころではない。本日二度目の衆人環視……。もうこの映画館には来ることは出来ないかもしれない。
「桃太さん、ごめんなさい。少し話をしてもいいですか?」
 もう嫌だ。いくら何でも恥ずかしすぎるだろう。桃太は今日半日で一生分の恥を掻いたのではないかと思った。結城の胸から顔を上げることすら出来ない。桃太の無言を同意と取ったのか、結城は桃太を胸に抱えたまま、駅ビルの片隅にあるこぢんまりとした喫茶店に入った。その頃には桃太も諦観の境地を経て、結城に言われるがまま大人しく椅子に座る。結城は桃太の向かい側に座った。
「……桃太さん、怒っていますか?」
「当たり前だろう」
 桃太の返事に結城は目に見えて意気消沈したようだった。しかし、桃太とて言いたいことは言わねばならない。それほど腹に据えかねているのだ。
「第一に、俺はあの映画を楽しみにしていた。わざわざ上映初日を狙って観に来たんだ。なのに、お前が俺に……キスをしたせいで、そのことばっか気になって一番盛り上がったであろうクライマックスシーンとエンディングを思う存分堪能することが出来なかった」
 結城は桃太の言葉に何かハッとしたように顔を上げたようだが、桃太は構わず続ける。
「第二に、大勢の人がいる前で……一度ならず二度までも……。お前の辞書に恥と言う言葉はないのか。お前のせいで俺は一生分の恥を掻いたわ」
 桃太は捲し立てるように喋り終わると、机の上に置かれた水を一気に喉に流し込んだ。目の前で結城がポカンとしているようだが、桃太としては言いたいことを言い終わりやや落ち着きを取り戻した。
「桃太さんが怒っている理由って、それだけですか?」
「それだけってどう言う意味だ。十分だろうが」
 相変わらず呆けたような表情をしていた結城は、今度はどう言う訳かうっすらと口角が上がっている。まさかこの状況で笑っているのか?桃太は常軌を逸した者を見るような視線を結城に向けた。結城はそんな桃太の様子に構うことなく、呑気にメニュー表を差し出して桃太に尋ねる。
「お腹空きませんか?何か食べましょう」
「……」
 桃太は開いた口が塞がらず、一人で腹を立てていることも何だか時間の無駄に思えてきた。結城が言うように、少し腹も減っている。腹を満たせばこの馬鹿げた状況を冷静に考えることが出来るかもしれない、と桃太は好物のチキン南蛮定食を注文した。結城はオムライスを注文したが、結城が炭水化物を食べる姿はかなり貴重である。野菜も食べろとつい母親のようなことを口にしそうになり、桃太はグッと堪えた。目下、桃太は結城の行動に苦言を呈している最中なのだ。
 程なくして料理が運ばれて来ると、各々無言でそれを食べた。桃太は青春時代をハンドボールに捧げていたため、学生時代の食欲が衰退することはなく今でもよく食べる方だ。運動不足は否めないが、時間がある時はたまに市営のジムに足を運んだりしている。お陰で大胸筋や腕の筋肉、腹筋等上半身の筋肉はそこそこ維持が出来ていた。対する結城はあまり食べない。少食なくせに桃太より身長が高いのは一体どういう成長の仕方だろうか。先日結城の体に触れた時、思いの外筋肉もついていることが分かった。桃太はバイクの上でに抱きついた結城の体の感触と、突然キスをして来た結城の唇とを反芻してしまい、一気に項垂れる。全く自分はどうしてしまったんだろう……。
「桃太さん、大丈夫ですか?」
 心配そうな結城の言葉に、桃太は「大丈夫じゃない……」と答え項垂れたまま顔を両手で覆った。
「お前、なんであんなことしたんだ……」
「あんなこと……あ、キスのことですか?」
「そうだよ……」
 何の恥らいも躊躇もない様子で結城は尋ねる。桃太とて、結城が何か特別な意味を込めてキスをしたとは思っていない。しかし、あんな場違いな場面で早急にキスをしたことに何らかの意図があるとは考えている。直前に見せたあの表情が気になるのだ。結城は何かを『視た』はずだ。その結果、あの行動に出たのではないかと桃太は考えていた。
「桃太さんが好きだからです」
「違うだろ」
「……酷いな、本当のことなのに」
 はぐらかそうとする時の結城の笑顔くらい、桃太にも分かる。桃太は顔を上げ、真面目な表情で結城を見据えた。
「結城、お前あの時何か視えたんじゃないのか?」
 結城は笑顔を張り付かせたまま、しばらく黙っていた。そして漸く口を開くと、諦めたように軽く息を吐く。それはあの時の表情に似ていた。
「……桃太さんが怖がると思って、言えなかったんです」
「お前、どの口がそんなことを。普段から目一杯怖がらせてるじゃないか」
 桃太がそう反論すると、結城は「そうですね」と答えた。それがやや自嘲気味に聞こえて、桃太は口を噤む。結城はオムライスを綺麗に平らげると、テーブルの上のコップに手を掛けた。しかし水を飲むことはなく、ガラスの表面に付いた水滴を指でなぞるだけだ。
「いつも俺が視ているものは、いずれもすでにこの世のものではありません。それ自身に自覚がなくても一度死んでいます」
 桃太は身構えてはいたが、始まってしまった恐怖に背中が寒くなる。だがしかし、自分から振った話題だ。ここは何としても耐えなければならない。結城はそんな桃太の様子を伺いながら話を続けた。
「けれどここ最近時折視えるものは……、恐らく死んでいないと思います」
「どうしてそんなことが分かるんだ?」
 桃太の当然の疑問に、結城は再び沈黙した。どうやってその疑問に答えようか思案しているようだ。桃太はグッと拳を握り、自身を奮い立たせるように一字一句はっきりと声に出す。
「大丈夫だから、言ってみろ」
 桃太の言葉に結城が眉根を寄せた。そして再び息を吐く。それはある種、苦渋の決断のようでもある。
「……桃太さんに、付き纏っているからです」
「え?」
「桃太さんは、桃太さん自身が邪なものを寄せ付けない。魂が浄化されていると、以前言いましたよね?そして『生きているもの』はそれに縋りたくなるのだと……」
 それはつまり、結城に視えたものは……生きていると言うことか?『生霊』と言う言葉が思い浮かび、桃太は身震いした。しかも桃太自身に付き纏っている……。桃太には全く身に覚えがない。
「一番最初に気づいたのは、桃太さんと居酒屋に行った帰りです。『それ』はコンビニの前に立っていました。二度目は今日。最初は桃太さんが座る席の二メートル程先に、次はエスカレーターに乗る桃太さんのすぐ後ろ……」
「……」
 桃太は視えるはずはないと思いつつも、背後を振り返った。閑古鳥が鳴く店内には、桃太たちと数人の客しかいない。各自気ままに過ごしている客たちの中に特に怪しい人物は見当たらなかった。
「エスカレーターの手摺り、桃太さんの手のすぐ後ろに『それ』の手がありました。もう少しで桃太さんに触れそうだったので、慌てて引っ張ってしまいました」
 結城があの時「近い」と言ったのはこのことか。結城が手を引いてくれなければ、『それ』の手が桃太に触っていたかもしれない。触られたらどうなるかは皆目検討がつかないが、何か良くないことが起こるような気がする。あの場の恥ずかしさはさて置き、桃太は結城に感謝しなければと思った。しかしまだ最も重要な疑問が解消されていない。
「待て。じゃあキスは一体どう言う意図があったんだ?」
 人生に於いて心の中も含め、こんなに「キス」と言う言葉を口にする日が来ようとは……。かつて学生時代の彼女にさえも数えるほどしか言ったことはないのに、とふと結城の唇を見ながら桃太は思春期の頃の自分を思い出す。だが、今はそのようなことに感慨耽っている場合ではない。
 一方、桃太が怖がりながらも自分の話を聴いてくれていることに、結城は感嘆の思いだった。桃太が自分の唇を見ていることなど気づかず、率直に自分の考えたことを伝えようと口を開く。
「桃太さんを、少しだけ汚せば消えると思ったんです」
「……」
 相変わらず結城の言葉は抽象的で分かり難い。店内にはちょうどMaroon5の“Sunday Morning”が流れていた。優しくゆったりとしたメロディーが、何故だか目の前の結城から滲む悲壮感とマッチしている。
「とにかく俺も焦っていて、深く考える余裕も無くて……。すみませんでした」
 結城はそう言って頭を下げた。桃太は無言でそれを見つめる。先程の結城の言葉に少し引っ掛かりを覚えていたのだ。
「ちょっとよく分からないんだが、どうしてお前が俺にキスをすると俺が汚れるんだ?」
 結城はゆっくり頭を上げ、桃太を見る。その目は漆黒の闇で、仄暗く、何を考えているのかは分からない。
「……それは、俺が穢れているからですよ。現に『あれ』は一瞬ですが退きました。その後、桃太さんが一人の時にまた近づいて来ましたけど。一定の効果はあったと思います」
 桃太は結城が時折見せる自虐的な雰囲気は、結城のこの根本的な考えから来るものではないかと思った。普段は自信に満ち溢れ、慇懃無礼にすら思えるあの姿は、この内面を覆い隠す鎧のようなものではないだろうか。
「お前は別に穢れていないだろ」
「穢れていなきゃ、あんなもの視えないでしょう?」
 桃太は努めて穏やかに語り掛けるが、結城は頑なに首を振った。黒髪が白い額に落ち、低照度のペンダントライトが結城の顔に影を作る。結城が今まで感じた遣る瀬無さが凝ったような深淵は、桃太には計り知れない。結城が孤独に生きて来た二十七年間、桃太は平々凡々とそれなりに人生を謳歌していたのだ。桃太は手を伸ばし、結城の重苦しい前髪を摘んだ。
「お前に何か『視える』のは、穢れているからじゃなくて結城の個性だろう?人よりちょっと感覚が鋭いってだけだ。俺だって、霊感が全くないのは俺の個性だ」
 覆い隠すものが無くなり、結城の三白眼が良く見える。額を出すと意外に幼く見えるじゃないか、と桃太は心の中で少し微笑んだ。
「結城の個性が、今まで結城を苦しめてきたかもしれない。だけど、今は俺がいるんだから、もっと頼っていいんだぞ。……大いに力不足かもしれないけどな」
 そう言って桃太は人懐っこく笑う。
 結城はどんなに考えても、適切な時に適切な言葉を選ぶことが出来ない。しかし桃太はあまりにも自然に、取り繕うことなくそれをやり遂げる。こんな風に、病を抱えた人や死を待つ人々にも相応しい言葉で語るのだろうと、結城は思った。何かが緩やかに瓦解していくような感覚……。結城の目の前にいる桃太は、相変わらず仄かに明るい。結城は自分の前髪を摘んだままの桃太に手を伸ばし、その頬を抱えた。
「桃太さん。やっぱり俺、桃太さんが好きです」









 
 


 

 
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ハンターがマッサージ?で堕とされちゃう話

あずき
BL
【登場人物】ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ハンター ライト(17) ???? アル(20) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 後半のキャラ崩壊は許してください;;

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
 漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。  漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。  陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。  漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。  漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。  養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。  陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。  漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。  仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。  沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。  日本の漁師の多くがこの形態なのだ。  沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。  遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。  内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。  漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。  出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。  休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。  個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。  漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。  専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。  資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。  漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。  食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。  地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。  この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。  もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。  翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。  この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

同僚に密室に連れ込まれてイケナイ状況です

暗黒神ゼブラ
BL
今日僕は同僚にごはんに誘われました

雪色のラブレター

hamapito
BL
俺が遠くに行っても、圭は圭のまま、何も変わらないから。――それでよかった、のに。 そばにいられればいい。 想いは口にすることなく消えるはずだった。 高校卒業まであと三か月。 幼馴染である圭への気持ちを隠したまま、今日も変わらず隣を歩く翔。 そばにいられればいい。幼馴染のままでいい。 そう思っていたはずなのに、圭のひとことに抑えていた気持ちがこぼれてしまう。 翔は、圭の戸惑う声に、「忘れて」と逃げてしまい……。

男子高校に入学したらハーレムでした!

はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。 ゆっくり書いていきます。 毎日19時更新です。 よろしくお願い致します。 2022.04.28 お気に入り、栞ありがとうございます。 とても励みになります。 引き続き宜しくお願いします。 2022.05.01 近々番外編SSをあげます。 よければ覗いてみてください。 2022.05.10 お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。 精一杯書いていきます。 2022.05.15 閲覧、お気に入り、ありがとうございます。 読んでいただけてとても嬉しいです。 近々番外編をあげます。 良ければ覗いてみてください。 2022.05.28 今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。 次作も頑張って書きます。 よろしくおねがいします。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...