月の斑(はん)

わる

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第一幕・序章: 『熾火と前兆』

第4話「影が明らかにしたこと」

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 ヴェルンは静かにスタスタと歩いていた。静まり返った路地には彼の足音だけが響く。彼は瓶を持ち上げ、最後の一口のために傾けた。安酒の、束の間の慰め。だが、その液体が彼の喉に触れる時間はほとんどなかった。背中に、ドンッ!という暴力的で突然の衝撃。驚きのあまりグフッ!と肺から空気が押し出され、彼は前方へ投げ出され、汚れた石畳の上にドサッと無様に倒れ込んだ。瓶は**パリン!**と甲高い音を立てて砕け散り、まるで銃声のように響き渡った。

 グルルッと唸りながら、彼は振り返った。その赤い瞳には怒りがギラギラと燃えている。彼の後ろでは、トムが両足での飛び蹴りを放った後、スタッと猫のようにしなやかに着地し、体勢を立て直していた。

「てめぇ、何しやがるんだ、このガキがァ!?」ヴェルンは叫んだ。その声に含まれた真の怒りは、転んだことに対してではなく、彼の飲み物が悲劇的な損失を被ったことに対するものだった。

「こっちのセリフだよ!」トムは爆発した。彼のすべての冷静さが、剥き出しの感情の奔流となってドッと溢れ出す。「あんたは突然現れて!可能な限りの方法で僕を辱めて!僕が何者で、何者でないかなんて勝手に決めつけて!あんたに他人をそうやって裁く権利がどこにあるんだ!?」彼は叫び、ブルブルと震える指をヴェルンに向けた。顔は真っ赤に染まり、その瞳は純粋な悔しさの涙でキラキラと輝いていた。

 ヴェルルンは一瞬、その少年が崩壊していく様を目の当たりにして、自身の怒りがスゥーッと消えていくのを感じた。「おいおい…さっきまでの『僕は男だ』って威勢はどこ行ったんだよ?」彼は、少年がヒステリーに陥っていくのを見ながら、感情のこもらない声でコメントした。彼はゆっくりと立ち上がる。「悪かった、悪かった…ちと言い過ぎたのは分かってる…」と言ったが、その口調はあまりに無関心で、謝罪というよりは侮辱に聞こえた。

「謝罪だけじゃ足りない!」トムは、声を詰まらせながら宣言した。

「はいはい…」ヴェルンはやれやれと溜息をつき、転んだ際についた埃をパンパンと払い落とす。「ただ、お前から感じたんだよ…その見た目も、お前自身がそれに納得してないって感じがなー」彼の言葉は途切れた。

「待って。『感じた』って言った?」トムは彼を遮った。その目の怒りは、すっと好奇心に満ちた強い困惑に取って代わられていた。

 ヴェルンはピシッと固まった。彼の視線が一瞬だけ横に逸れる。「おっと、口が滑ったか…」彼は「何も言ってない」と言わんばかりの表情を作ろうとしながら、ボソリと呟いた。「そろそろ俺は行かせてもらうぜ…」

「待って!」トムは叫んだ。シュタッと一瞬の動きで、彼はヴェルンの目の前に現れ、両腕を広げて道を塞いだ。その速さに、年上の男は虚を突かれる。「あんたも、そうなんだろ?」

「何のことだか、さっぱり分からんな…」ヴェルンは答えた。その声は今や真剣で冷たく、少年を通り過ぎようとした。

「あんたも『賢者』なんだ」トムは尋ねではなかった。断言だった。その言葉を聞いてピタリと足を止めた男の背中に向かって、彼は向き直る。

 ヴェルンは面白くなさそうにフンと鼻で笑った。「そりゃあ俺は賢いさ、なんせ年寄りだからな」

「そういう意味で言ったんじゃない!」トムは苛立ちのあまり叫んだ。

「俺が賢者だなんて、本物の賢者たちに失礼だろ」ヴェルルンは、トムにというよりは自分自身に言い聞かせるように呟いた。

 そのコメントを無視して、トムは近づき、彼から数歩のところで止まった。顔を上げると、子供っぽい苛立ちは消え、揺るぎない真剣さと決意の表情に変わっていた。

「僕と一緒に来てほしい」彼は宣言した。

 ヴェルンは黙って、純粋に混乱しながら少年の顔を見ていた。「は?」

「僕はファラームから来た。『セレストの王冠』を探してー」トムの言葉は、ゲラゲラという哄笑にかき消された。それは嘲りの笑いではなく、純粋な侮蔑からくるグロテスクでけたたましい爆笑だった。ヴェルンは腹を抱えて笑い転げ、その声は路地に無慈悲に響き渡った。

「なっ?王冠…セレストの?」彼は笑いの合間に、ぜぇぜぇと息をしながら言った。

 トムの顔は再びカァァと緋色に染まり、決意は羞恥心に溶けていった。「それは存在する!僕は知ってるんだ!」

「待て!息をさせてくれ…」ヴェルルンは頼み、はぁーっと大きく息を吸って、努力して体勢を立て直した。彼は目尻の涙を拭う。「お前、ファラームから来たってのか…子供を寝かしつけるためのおとぎ話に出てくるような代物を探して?」

「そんな風に言われると…」トムはバツが悪そうに視線を逸らした。「でも、僕はそれが存在することを知ってる!僕はそれを見たんだ!」

「どうやって見たってんだ、具体的には?」ヴェルンは尋ねた。一瞬だけ、その好奇心は本物のように見えた。

「信じてくれるの?」トムの目が希望にパァァと輝いた。

「いや。だが、一応聞いとくべきだと思っただけだ」彼は答え、その声は再び単調で空虚なものに戻っていた。彼は再び去ろうと背を向けた。

「あんたは傭兵だろ?」トムは必死に叫んだ。「金なら払える!あんたの腕を雇いたいんだ!」

「そして俺はその仕事を断る…」ヴェルルンは振り向かずに答えた。彼は立ち止まり、深く息を吸い、肩越しにトムを見た。「だが、なんで俺にお前と組んでほしいんだ?神話の遺物を探すためにか?」

「それだけじゃ…」トムは、罪悪感に満ちた視線で認めた。「この街の『番人』の件で、僕を助けてくれる強い人が必要なんだ」

 空気が一瞬で張り詰めた。ヴェルンは完全に振り返り、体をガチガチに硬直させる。「おい!おい!おい!待て待て待て!」彼は、まるで物理的な攻撃を止めようとするかのように両手を上げた。「お前、軍の『番人』と関わってるのか?」

「そうだけど、それが何か?僕は番人に相応しくないように見える?」トムは、声に再び苛立ちを滲ませて言い返した。

「そうじゃねぇ」ヴェルンの顔から嘲笑は完全に消えていた。その表情は石のように硬い。「さっきは、お前の仕事を断るつもりだった。だが今は、お前の仕事を絶対に断る。じゃあな」彼は、以前にはなかった決定的な態度で背を向けた。

「はぁ?なんで!?」トムは、その暴力的な反応に混乱して抗議した。

「俺は番人とは関わらねぇんだよ、嬢ちゃん」彼の声は警告だった。

 トムはもう一度走り、彼の前に立ちはだかった。「また『嬢ちゃん』って…」

「どうして?なんで興味がないの?あんたは強い!賢者だろ!なんでそんなに拒むんだ?」トムの声は混乱と懇願が入り混じっていた。彼には、どうしても理解できなかった。

 ヴェルンは、ふぅーっと重く、疲れた溜息をつき、手で顔を覆った。「いいか、誰もが自分の功績を認められたいわけじゃねぇんだ」彼は言った。その声には古びた疲労が滲んでいた。「それに、子守りごっこをする気もねぇしな…」

「自分のことは自分でできる!」トムは抗議した。

「知ってるさ…そういう意味じゃねぇ…」ヴェルンは彼を見つめ、そしてトムの表情に目を固定した。子供っぽい視線、苛立った目、抑えられた不満のうめき声と共にぷくーっと膨らんだ頬。ふと、彼は少女のように見える少年から、男の子っぽい特徴を持つ少女へと変わったように見えた…ヴェルンはそう思った。

「もう変装を続ける気もなくなったようだな」彼は声に出してコメントした。

「それで何かが変わるの?」トムは苛立って言い返した。「あんたは最初からずっと僕が女だって言い続けてた。それに、『感じた』って言ったじゃないか!」

「ああ、俺が感じたのは、お前が自分の見た目を好いてないってことだ。そんなもんは誰だって感じる」

 その言葉は、トムの腹にズシンと重い一撃を与えた。「どういう、こと?」彼は囁いた。その声は突然、か細くなった。

 ヴェルンは彼を見た。そして初めて、その目に嘲りや退屈はなく、ただ残酷で正直な静けさがあった。「男のフリをしたいなら、まずお前自身が自分を男だと認めなきゃな」

 それが、とどめの一撃だった。トムの足からフッと力が抜けていくようだった。彼女はガクッと膝から崩れ落ち、冷たい石畳の上にうずくまると、両手で顔を覆った。彼女の声は、深い苦悩と、自身の愚かさへの罪悪感によって打ち砕かれ、震えていた。彼女がこれほど憎んでいた偽りとは、身にまとった外見だけでなく、内に抱えていた疑念そのものだったのだ。

 トムのくぐもった泣き声が、路地の静寂の中で鋭い刃のように響いた。ヴェルンは立ち尽くし、彼のいつもの鎧である皮肉が粉々に砕け散っていくのを感じた。彼の小さな挑発ゲームの勝利は今や、口の中で灰のようにじわりと苦い味がした。彼はもはや意地っ張りなガキではなく、彼自身が深めた痛みの中で溺れている、壊れた子供を見ていた。

 やりすぎちまったか… 彼は思った。後悔という、奇妙で望まぬ感情が胸に宿る。「悪かったな、嬢ちゃん…」彼は言った。その声はしゃがれており、言葉が驚くほど困難に出てきた。

「黙れ!」彼女の声は手の中から、くぐもって詰まりながら聞こえた。「やれることは全部やった!いつもこれを変えようとしてるんだ!」彼女は訴え、その一言一言が苦悶の嗚咽だった。

 彼女が話している間、何かがヴェルンの注意を引き始めた。空気の揺らぎ、アスファルトの上の陽炎のように微かな乱れ。彼は常にこの子供の真実を知っていたが、物理的には、まだ彼女を痩せた少年として見ていた。しかし、今や、そうではなかった。

 始まりは髪だった。軍隊式に刈り込まれた緋色の髪が、スルスルと伸び始めた。それは速い成長ではなく、まるで時間そのものが彼女のためだけに加速しているかのように、ゆっくりと、しかし不自然にセンチメートルを解き放っていく流れだった。同時に、髪の根元が色を失い、頭皮から広がる純粋な雪のように白んでいった。それは、肉体的に現れるほど強烈な魔術的ストレスの兆候だった。

 変化は彼女の体全体に広がった。細く痩せたシルエットが再定義され始める。肩が微妙に狭まり、腰にはふわりと柔らかさが生まれ、粗末な服の下に小さな女性的な曲線を描き出した。偽りはただ剥がれ落ちているのではなかった。彼女の苦悩が解放した内なる力によって、解体されていた。

「おい…お前…」ヴェルンは、目をカッと見開いて呟いた。酒場の喧嘩と刃物の脅威に慣れた彼の脳は、この光景を処理できなかった。これは魔法、不安定で危険な変身だった。彼は手を上げた。本能的で、混乱した、何が起きているにせよそれを安定させようとする、純粋な助けの試みだった。

 彼の手が彼女に届くことはなかった。

 紫色の影がシュバッと空気を切り裂き、地面の埃を巻き上げるほどの風を伴って二人の間に現れた。一瞬の瞬きで、泣いていた少女はもはや膝をついていなかった。

「ちょっと!離してよ!」彼女は、まだ涙声で抗議しながら、今や複雑な金色の装飾が施された紫色の外套に身を包んだ男の腕の中にいた。ゆったりとしたフードが彼の顔に影を落とし、短い黒髪と、猫のような縦長の瞳孔を持つ一対の鋭い目だけが見えた。その場所にはあまりに丁寧すぎる、張り付けたような笑みが顔に浮かんでいた。

「グンダー!」少女は、効果なく彼の胸をポカポカと叩きながら叫んだ。

「余が愛し子が引き起こした困惑の数々、お許しいただきたい」グンダーは、穏やかで洗練された声で言った。彼はヴェルンに向かって深く頭を下げた。その場にまったくそぐわない敬意の表明だった。「では、これにて失礼!」

「は?」それがヴェルンがかろうじて口にできた全てだった。彼の心はまだ出来事の速さに追いつこうとしていた。

 ありえないほどの俊敏さで、グンダーは、まだ暴れる少女を抱えたまま、ヴェルンの差し出された手に重い小袋をポイと落とした。ヴェルンの指がそれを握りしめる前に、グンダーはすでにタタタッと駆け出し、下層都市の灰色の闇の中へ消えていった。彼の「愛し子」の叫び声と平手打ちの音が響き、そして金属の迷宮に消えていった。

 ヴェルンは、路地の中央で呆然と立ち尽くしていた。手の中にある硬貨の熱と重みだけが、この出会いがアルコールによる幻覚でなかったことの唯一の証拠だった。彼は革袋を見つめ、それから奇妙な二人が消えた闇を見つめた。

 だが、彼は覚えていた。あの紫の男が現れた一瞬、その刹那に、彼らの視線は交わっていた。言葉を交わす時間はなかったが、そのやり取りは完全なものだった。言葉の必要性を超えた、互いの本能的な評価。

 その瞬間、ヴェルンとグンダーは、同じことを悟ったのだ。彼らの目は、静かで絶対的な理解のうちに、スッと細められた。

 この男…ヤバイ
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