秘色のエンドロール

十三不塔

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第一章 火炙りと賭け金

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  夜は明けた、起きようよ、ねえ酒姫サーキィ
  酒をのみ、琴を弾け、静かに、しずかに!
  相宿の客は一人も目がさめぬよう、
  立ち去った客もかえって来ぬように!
      ――ウマル・ハイヤーム『ルバイヤート』

 1

 炎天下のグランドから届くラグビー部員たちの掛け声が耳朶を打つ。蝉の声はすっかりなりをひそめた。秋が近いのだ。学園祭の準備で校舎は雑然としており、第一七教室にも用途不明のハリボテや紙テープ、黄色いアフロのウィグなどが散見された。
 薄墨色だったライティングボードが淡く発光し、乳白色のスクリーンに変わると、眠気に悩まされていた銅音あかねは、頬杖を左手に変えた。
 赤点だった近代世界史の補習に出席しているのは銅音を入れて四名。
 水色のニットタイがトレードマークの柳渕先生は、無駄に声量が大きいくせに滑舌が悪く、はっきり汲み取れない語意も多い。
「ボルステッド法とは、いわゆる禁酒法というもので一九二〇年に成立し、アメリカ全州で施行されました。皆さんはアルコールを口にすることはもちろん見たこともないと思うがね、日本においては敗戦前まで合法で、これを嗜む人も多かったそうだ。GHQの統治政策で我が国でも全面的に禁止となり、乱用者も減って健康被害や精神的依存も大幅に改善された。薬酒取締法が整備されるのはもう少し後ですが……」
 スクリーンには白黒の古めかしい画像がスライドになって順番に切り替わっていく。打ち壊された樽から琥珀色の液体が下水道に廃棄される図だとか、マサカリを持った恐ろしげなおばさんが酒場に殴り込む姿もあった。
 ――かったるい。どうでもいい。
 銅音は味も匂いも知らないアルコールのことより、四十代独身である柳渕先生のよれよれのジャケットと寝ぐせの方に意識が向いた。斜め前の席に座る臥織星南のことも気にかかるといえば、まあ、そうだ。
 スラリと背筋を伸ばした星南先輩は、静かな意気込みというのか、クールな佇まいながらも、真剣かつ熱烈な眼差しを先生に向けていた。
 学校うれしいのかな、と漠然と銅音は想像した。
 去年、半年間の欠席のため出席日数が足りず留年した臥織星南は、同じクラスではあるものの年齢で言えば一つ上になる。クラスから浮いているというわけでもなかったが、張り詰めた雰囲気と奇抜なナリのせいでどこか人を寄せつけないところがあった。
 先輩の喰いつきっぷりのせいでさ、やなぶー張り切っちゃってるよ、と同じく補習を受けている麻美が低くした顔をこちらに向けて囁いた。にしても先輩成績いいはずなのにどうして補習受けてんだろ。そうなのだ、星南は大人しいながらも成績抜群で、二度目の二年生とはいえ、ほとんどのテストでトップクラスの得点を稼ぎだしているはずだった。その優秀さのおかげで彼女の奇行は黙殺された面もある。
「この法律はザル法など評されててね、当時のアメリカでは、密造酒を造ったり、隠れたて飲んだりと、法を破る者が後を絶たなかった。拘束力の弱さ、さらにはマフィアの強力な資金源になったこともあり、ボルステッド法は厳しく批判されました。余談だが、みなさんもご存知のアル・カポネもこの時代に急速に力をつけたと言われています」
 ご存知じゃねーし、と銅音が内心毒づく一方、星南先輩は、さもありなんといった表情で頷いている。ショートカットの襟足からのぞくジオメトリックな首の模様はナスカの地上絵に似て、深淵な謎かけのように銅音の眼には映った。きれいな卵型の頭だ、横顔だと猫よりむしろ犬っぽいのね。タブレットではなく、いまだに紙の教科書を使っているのも珍しい。
 アル・カポネの画像は登場しなかったので、銅音はタブレットに想像上のアル・カポネの似顔絵を描いてみた。凶悪な狸のようなご面相が創造主である銅音をギっと睨みつける。
 我ながら恐ろしいものを産み落としちった。これ絶対にひとりやふたり殺してる顔だよ――と星南が振り向いて、促すような視線を送ってくる。
 え? なに?
「鹿野銅音さん、アルコールは当時、根強く蔓延していたということがわかるね。この惨めな悪習慣からアメリカを立ち直らせたのは何だったと思う?」
「え、あ、はい」
 先生に再三問いかけられていたことに気付いて銅音は慌てた。
「も、もちろんアメリカ国民ひとりひとりの正義の心です。ど、どーぎ心?」
 星南の視線がやや冷めたような気がした。教育者である柳渕先生ですら、聞えよがしな溜息をついた。
この世で一番間の抜けた答えをしたらしい。
(なんだよ、わたし間違ってる?)
 先生は仕切り直すように、コホンと一度咳きをしてみせる。
「道義心。歴史ではあまり出番のない単語ですね。答えは、敵愾心。一次大戦で敵国となったドイツがビール大国だったことを思い出してください。悪と見做したドイツ人の愛するアルコールは堕落の象徴とみなされた。つまりアメリカを酒から立ち直らせたのは火のような敵愾心だったのです」
 釈然としない気持ちのまま銅音は着席した。
 授業はそのままアメリカの歴史を駆け足で下っていき、グラナダ会談、マラッカ戦役、フィラデルフィア、ダラス、ヒューストンで起こった累次多発テロのあたりまでやってきたところで授業時間が終わった。
 星南先輩はもう銅音を振り返ることはなかった。
 先輩とわたしはかけ離れてる。小市民で優等生で堅物な銅音と、エキセントリックだが才色兼備な星南は対照的だった。さぞかし、お酒なんかに興味があるんでしょうよ。
 星南がドラッグを常用しているという中傷は口さがない連中が広めた噂だと思っていたけれど、もしかすると……と銅音は考えてしまう。
 ダメだ、変な決めつけはダメ。見かけで人を判断しちゃダメだって教わった。偏見は差別を生み、差別は悲劇を――これもお仕着せの道徳訓だ。退屈なのは授業だけじゃない。銅音の頭の中もまたどうしようもなく退屈で刺激がない。こうして不愉快な補習は終わった。ようやく高校二年の限りある夏を堪能できると教室を飛び出しかけた時、同じく弾けるように身を翻した男子生徒森下とぶつかった。
「――ってえな。気ィつけろよ」
 尻餅をついた銅音、トートバックの中身はぶちまけられて、スカートはめくれあがり、水色の下着が公衆の面前にさらされる。柳渕は見て見ぬふりだったが、同じ水色のニットタイにふいに手をやったから、絶対に見たな、と銅音は腹立たしく思った。
 このような惨状の銅音に一瞥すらくれることなく森下は、もうひとりの男子と連れ立って出ていったのだから余計にむかっ腹が立つ。
 ――見たやつも、汚いもののように眼を逸らしたやつも許さん!
 このような肉体的接触がささやかなロマンスのきっかけとなることも森下に限っては絶対になかった。なにしろあいつは無神経でアホで……そのうえ顔面の仕上がりだって、わたしのアル・カポネとどっこいだ。
 森下とおっつかの成績不良者が自分だということをすっかり忘れて銅音は憤った。
「大丈夫?」
 そこへ、ただひとり教室に残った星南がかがみこむと、散らばった銅音の私物を取り集めてくれたのだから素直に銅音は驚いた。優しさが身に染みるようであり、同時にもう放っておいて欲しくもあったが、
「ありがとう」
 ととりあえず言ってみる。
「ねえ、時間ある?」
「はい?」銅音は怪訝さを丸出しにして聞き返した。
「ちょっと付き合ってよ」
 教壇のあたりまで転がったミネラルウォーターを差し出すと星南はぶっきらぼうにそう言った
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