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第二章 首輪と接吻
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銅音は不安だった。半年間、昏睡するか間欠的に石になってしまう同級生の姿が頭から離れず、夢の中ですら彼女を苛むのだった。
「で、なんで俺なんだよ?」
寒さを避けて今日は屋上ではなく、校舎間の連絡通路で森下は作業をしていた。テーブルに青緑のペンキが塗られていく。酒造りの唄は寒風の中、伸びやかに響いた。
「あんたしか話せないから」
「突っ立ってねえで作業手伝えよ、それでなくてもおまえ評判悪いぞ」
「学園祭どころじゃないでしょ。知ってたんでしょ星南のこと? 同級生があんな目に合ってるって」ペンキ缶に突っ込んだ刷毛を森下に突き付けて銅音は迫った。塗料の飛沫が森下のジャージにかかる。
「バカの手だって借りたいくらい忙しい」
「はぐらかさないで。星南がどうなってもいいの?!」
「は? あいつはダチじゃねえし」
すっかりこなれた森下の手つきは、塗料をムラなく木目の上に伸ばしていく。
「あ、ペンキが切れそうだな。また買い出し行かねーと」
口をへの字にした森下に銅音は癇癪を爆発させる。
「この薄情者! ぺんぺん草! 卑劣漢の乳輪野郎!」
「……にゅう」
中途半端な顔つきと姿勢のまま森下は固まった。
そこへ銅音はさらなる攻勢をかけるのだった。
「星南が変態に手籠めにされてるんだよ。地球の裏側じゃなくて、すぐそばでさ。ひと肌脱がなくてどーすんのさ」
「死にゃしねーだろ」
「死ぬよかひどいじゃん!」
「おまえは」と森下は右手の刷毛を置くと低く問うた。「どうして俺が臥織を助けるなんて思ったんだ? 無関係な女に手を差し伸べるお人好しに見えるか? いいか。学校なんてところは同じ地域に住んでるか、似たり寄ったりの学力の奴らかで寄せ集められた、なんの必然性もない集団なんだ。たまたま可哀想なクラスメートに出くわしたからって手を差し伸べてたら身体がいくつあっても足りねえよ」
「……う」
銅音は身悶えした。森下は声を潜める。
「それよか約束通り、〈パラドクサ〉へ行くんだ。受け取って欲しいものがある」
「なんでわたしが」
「忘れるな。おまえは俺に借りを作ったんだ。違法なギャングに。だろ?」
そっけなく森下は言うが、その声音には底冷えのするものがあった。
「あんたのことだからどうせヤバいものでしょ?」
いまさらだったが銅音はカーディガンを脱いで、余分の軍手を装着する。興奮と身じろぎとですでに銅音の制服はペンキの飛沫でずいぶん汚れていた。
「ふふふ、それをおまえは知る必要がない……ってなんかクライムムービーっぽいな」
「あんたがそれ言って冗談になると思ってんの」
銅音が吐き捨てると、森下は肩をすくめた。
「ま、大したものじゃない。中身を見たって構わないがきっと拍子抜けするはず」
「ふん、そんなのはどうでもいい。やるよ」銅音は安請け合いしたことを後に後悔することになる。「ねえ、もっかい聞くけど、クラスメートを見殺しにするわけ?」
話を戻して銅音はしつこく食い下がるが、森下は「見殺し?」と聞き返した。
「わたしは……あんただって助けるよ! ピンチだって知ってたら!」
「余計なお世話だ」
おまえに何ができる、そう言いたげな眼差し。
「この国は酒造業を見殺しにし続けてきた。今もこれからも。ひねり潰されたくなけりゃ抵抗するしかないな。俺はそうしてる。いいか、女子高生。この世はな、誰かが誰かをひねり潰すための場所なんだ。法の内だろうが外だろうが。もう一度聞くけどさ、なんでおまえは俺が臥織を助けるだなんて思うんだ?」
ここ数日で何度も浴びせられてきた視線だった。おまえは無力で無知なしがない女子高生だ、身の程をわきまえろ、と突き付けてくる多くの瞳。侮りと戒めとが入り混じった感情の引き潮。
「俺を動かしたいなら、臥織を助けることに何らかのメリットを作り出せ」
「利害関係だけで生きてんの? それって気分いいの?」
「堂々巡りだな。ダチでもないやつに好んで手を差し伸べる慈善家じゃねーの」
「バーカ、バーカ、だからあんたってモテないんだよ! 女子人気皆無だかんね」
通路に敷いた新聞紙を踏みにじりながら銅音はおおっぴらに喚いた。これにはさすがの森下も傷ついたようだ。あるいは傷ついたふりをした。実のところ異性からの森下の人気はまんざらでもないのだったが、銅音は微妙に女子のネットワークからも疎外されていたから、それも耳に入っていなかった。
チッと森下は舌を鳴らした。
「わぁーたよ。一個だけ無料で提供してやる。これでクラスメートとしての義理は果たしたと思ってくれ。臥織を貸り出してる変態はな、漆間嶺って野郎だよ」
「漆間嶺。慈善家デビューおめでとう」
それができたなら軽薄な口笛を吹いだろう。不器用な銅音はぎこちなく唇を尖らせることしかできない。
「まぜっかえすなよ。特定複合観光施設区域整備法をちょろっと調べりゃすぐに出てくる名前だ。臥織を救いたいなら、やつを闇討ちするなり誘拐するなりすりゃいい」
そういえば星南もカジノがどうとかって言っていた。しかし銅音には難しいことはさっぱりわからないし興味もない。政治家の利権や腹の探り合いなんかは。
「だからわたしは法を守る。相手が無法者でも犯罪者でも」
「おまえにできんのは、漆間よりちょっとマシな変態に制服でも売って小銭を作ることくらいだろ。カッコつけんのもたいがいに……あ、ペンキ乾いてねえからそっちの椅子も触るんじゃねえ」
「変な色」
「知るか。それより〈パラドクサ〉には必ず行けよ。正義の味方なら約束は果たせ」
森下は銅音を黒とも白ともつかない世界に押し出そうとする。補習の日の腹いせにそうしているのだとしたら、根深い怒りを森下は抱えていることになる。
――今度で本当に最後だ。あんな場所には二度と足を向けないから。
「あんたには、もう頼まない」
密かに銅音は決意する。決意するだけでなく、それを口にする。
「そうかい、それはありがたい。……今日は天気がいいから、すぐに乾くな」
光が強いほど影も濃くなる、なんて物言いは嘘っぱちだ。それは光が隅々にまで満ち溢れていないからだ。あるいは光がまだ弱いからだ。愛情や優しさ、そして正義が十全に降り注げばこの世界はよくなるに違いない。十七歳の少女が見えない首輪に繋がれたあげく、半年という時間のスリットを人生に刻まれるのは、まったくもって正しい世界ではない。
――不正と不善が蔓延る世界でやることといったら、椅子を冴えない色に塗ること?
鼻息荒く銅音は同じ決意を反芻するのだったが、どうすればいいのかは、ちっともわかっていやしなかった。そう、わからなさの度し難い深刻さすら、銅音はわかっていなかったのだ。
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