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第三章 虹と失認
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奥村は〈パラドクサ〉の裏手にある路地で煙草に火をつけた。
生ゴミの臭い。それに錆と黴。ここには不快なあらゆる臭いが立ち込めている。劣化したコンクリートには樹状のヒビが浮き出す。反吐とアイシャドウを溶かした女の涙を吸い込んで亀裂は成長するのだろう。
「先生はああ言ったが、俺はやっぱりあんたの手をぶった切りてえな」
狂暴な面相は裏通りによく似合う。濁声のくせに早口に音節を区切る口調。沓名と呼ばれた男は、アスリートの横面を何度も張り飛ばす。敗者をいたぶるのが心の底から好きで好きで仕方がないといった嗜虐癖を隠そうとしない。奥村は背徳の間から出てくる彼らの後を尾けてきたが、確たる目的があったわけではない。
ニオイだ。それは直観であって根拠も理屈もない。ただ奥村は感じ、決断したのだ。約束のタイミングにはまだ余裕があることだし、この男が銅音たちの脅威になるのであれば、ここで排除――それが無理なら足止めしておこうと。
西洋人の男を見送った沓名は、もうひとりの男を路地に連れ込んだ。この貧相なサディストは奥村にとって見知らぬ相手ではない。
――変わらねえな痩せ犬が。
密かに奥村は呟いた。在職当時からその筋の連中を屈服させるのがたまらなく好きだったと聞く。特権を奪われたのちは、どんな人間の弱みにでもつけ込んで痛めつけるのに躊躇いを憶えなくなったと見える。
「許してください」
「へし折るだけでいいから。なぁ頼むよ。綺麗に折ってやるから、きっとすぐにくっつくさ」
「やめて」
「ゆっくり遊んでる時間はねえんだ。ほら観念してくれよ。ああ、そうだ、先生には内緒にしてくれよな。あんたを解放しろって命じられたんだ。こんなふうに油売ってると知れたら叱られちまう」
戦意を喪失した卓球選手に沓名がのしかかる。重たいブーツの踵を二度三度と踏み降ろすと油汗を滲ませて吉沢は白目を剥いた。気絶したわけではなさそうだったが、意識が現実から眼を背けたことは確かだろう。
「ひっでぇな」と奥村が眉根をしかめながら路地に姿を見せた。
アスリートの利き手を潰した快感に浸っていた沓名が興を削がれた苛立ちを奥村に向けた。「てめえは――奥村」
「久しぶりだね沓名ちゃん。元刑事がどうしてこんなところで善良な市民をいたぶってるんだ? 国家の犬を辞めてから随分自分に正直に生きてるって噂だぜ」
おどけた軽口を投げつけると沓名はギリギリと奥歯を鳴らした。
「てめえの知ったこっちゃねえよ。なんの用だ?」
「変わってないんだな。前よりしみったれた野良犬に成り下がったようだが」
「犬なのは奥村、てめえも同じだろうが。これ以上吠えるなら容赦しねえ」
猛り狂った怒気を全身から発散させて沓名が顔を近づけてきた。息のかかるほどの距離だが奥村に臆した風はない。奥村は吉沢を立たせてやると、さぁもう行けと声をかける。青ざめた吉沢はおずおずと小走りに夜の雑踏に消えていく。奥村が肩を竦める。
「昔のよしみだ。このまま尻尾を巻いて消えるなら見逃してやるよ」
「奥村ぁ、おまえが俺を見逃すだと?」
「ああ、おまえみたいな小者はな。だが、おまえの主人は逃がさねえよ」
知己であるらしい二人だったが、その関係が良好でないばかりではなく、何やら因縁めいたものがそこに蟠っているのが知れる。
「今じゃ何様だか知らねえが、よぉく相手見て動かねえとな。奥村さんよ、あんたが俺に叩き込んでくれた躾だろーよ」
「沓名ちゃん、おまえは変わらず馬鹿だ。敵がデカいから臆してもいいってことじゃねーだろーよ。観察しろ。探求しろ。剔出しろ――」
――ルールを跨ぎ超えるやつらを敵に回すなら、どういった戦い方があるのか、それを見極めろ。
それは奥村が銅音に向けた教えでもあった。そうか、と奥村が含み笑いで一人合点する。
「あの娘は理解したんだな一瞬で。おまえのような馬鹿が逆立ちしてもできなかった意味を」
「何を言ってる? 呆けたか奥村」沓名は奥村の逆襟を取ろうとしたが、一瞬で肘を極め返されて跪いた。「くそったれ」
「おまえはゴミ溜めがお似合いだ」
「どうして今になってしゃしゃり出てきやがった? あの小娘か? そうなんだな?」
「知る必要はない」と奥村は冷厳と言い放ち、そのまま地面に相手を圧し潰そうとするが、いきなり手応えが変わった。痩せ犬のようのだった沓名の体躯が膨張していく。もりもりと僧帽筋がせり上がり、奥村の力を押し戻していく。
「〈外套〉か」それは人工筋肉埋設手術のことである。電気刺激により、合成タンパク質を体内でホイップクリームのように膨らませる。アザラシやカリブーの毛皮に包まって極寒を忍ぶイヌイットのシルエットに似ていることから〈外套〉という俗称がつけられた。
「いいコートだな。変質者が裸に着るようなやつだ」
「好きに言え!」ぶんと腕を振り回して奥村の頭部を薙ぎ払おうとする。が、奥村は自分から飛んで衝撃を逃がした。ベタついた路地に転がりながら形勢を立て直す。
「ちっ、せっかくの酔いが醒めるじゃねえか」
グラリと眩暈に襲われた。力を逃がしたとて、熊並の膂力を発揮できる〈外套〉の一撃を受けたのだから無傷では済まない。沓名が暗い眼光を尖らせる。
「てめえは俺が店に戻っちゃいけねえわけがあるんだな」
「沓名、あそこで始まる舞台にゃ、おまえは役不足だ。潮目が変わったんだ。やつは女子高生に首を獲られるのさ」
「はっ!」と沓名が歯茎をむき出しにした。「酔いは醒めてねえみてえだな。なんで先生があんなガキに」
「ガキはガキでもただのガキじゃないとしたら?」
「それに先生は〈パラドクサ〉の上客、地の利のあるあの場所で負けるようなことがあってたまるか。それにあそこのオーナーは――」
「森下神酒央。やつもただのガキじゃないさ。本当におまえたちに従順かな?」
「知った口を叩くな!」
放たれた前蹴りをもう待ち受けたりはしない。腰を落として肘を合わせる。脛骨の砕ける音がした。その感触を味わった両者だったが、より多くの痛みを感じたのは沓名だった。パワーを増大しても身体各部の強度が増したわけではない。
「変わらねえな沓名。能無しが」
そう言って奥村が肘を叩くと、コンコンと硬い音がした。スーツの裏側に硬度の高い金属プロテクターが仕込まれているのだろう。
「糞ったれ!」苦し紛れに掴みかかってくる沓名と四つに組んだ奥村だったが、両者の拮抗は崩れないどころか、やがて奥村が優勢になった。〈外套〉のもたらすパワーに、まったくひけを取らないもの、それは同種の機構だけだ。
「てめえもか」沓名は唸った。
俯いて堪えていた笑いを奥村は我慢できなくなる。
「その〈外套〉は随分と古いな。仕立て直した方がいいんじゃないか」
「なんだと」
「安物買いの銭失いってな。どうせ東南アジアのゲリラかロシアンマフィアからの横流しだろう。トレンドは変わったぜ」
「てめえも〈外套〉を? しかしプロポーションに変化がない。なぜだ?」
「着痩せするタイプなのさ」
恐怖と不信感に沓名の全身が戦慄く。巨大な握力でもって奥村は沓名の両手をめりめりと潰してしまう。口の端から泡を吐いて猟犬の顔が歪んだ。上下段キックで股間と顎先をほとんど同時に蹴り抜けば、無様な悶絶は避けられない。
「OPM―97。深層強化駆動要領。通称〈セパルトゥラ〉、おまえがうろついてる下町の店先には出回っていない代物だ。筋肉よりも神経系にこそ運動と出力の要諦がある。ベーキングパウダーで膨れたみたいなおまえの身体は非効率的だ。大きすぎる筋肉は関節の可動域を狭くするし――あらら気絶してやがるのか」
泥酔者のようにだらしなく転がった沓名を見遣って、奥村はそう吐き捨てた。続いて腕時計を見やってひとりごちる。
「とっとと戻らねえと。タイミングがすべてだからな」
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