秘色のエンドロール

十三不塔

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第三章 虹と失認

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 ⒔


 ――23:42
 奥村は、かつて何杯もの酒を呷ったお馴染みのカウンター席に戻って腕時計を見る。スツールに腰を上げるのも息が切れる。今夜のところはもう酒を飲む気分にはなれないだろう。出血はまだ止まらない。フロアにポタポタと赤いドットが散りばめられる。
「ステイプラーを寄越せ」
「かしこまりました」
 顔立ちの整った黒服だったが、口を開く時にはどこか老成した雰囲気を漂わせる。それは酒の名前ではない。カウンターから取り出したのは、場にそぐわない医療用の縫合器具。ようするに人間用のホチキスで、奥村はそれを受け取ると、化粧室に籠り、めくり上げた背中の傷口に押し当てる。
「ッ!」
 傷口を消毒する手間もかけられないこの状況下で、乱暴に傷口を塞ぐ。なぜこの店にこんなものがあるのか。その疑問には、黒服と奥村の繋がりをなくして答えられないだろう。二人には店員と客という以上の関係があるに違いない。
 鏡を前にして、またしても奥村は時刻を確認した。
 まるで大切な誰かとの待ち合わせをしているようだ。懐に手を入れて先程手に入れたものの重みを確かめる。まもなくこれを使用することになる。ひどい顔だぜ、と奥村は口元に苦い笑いを含ませた。カウンターに戻り、酒を飲まない代わりに煙草に火をつける。飾り気のないスチールの灰皿に三本分の灰が溜まった頃、かすかに耳慣れない音が重たい扉の向こうから聴こえた。
 ――硬い物が砕ける音。
 思わず奥村は腰を上げかける。あの扉を蹴り破って女子高生を救うべきだろう。それが大人の良識というやつだ。血が出るほどに唇を噛みながらも奥村は動こうとしなかった。銅音と星南と信じるという、そんな綺麗ごとで動かないのではない。ただ確実な成功を、悪党の息の根を止めるやり口を、職務上それを選んでいるに過ぎない。
 少女たちの痛みを置き去りにして――ふいに意識が途切れる。出血が多すぎるのだ。足元ではすでに血だまりが広がっている。
「やっぱり酒だ。気付けに何か、強い酒をくれ」
「エンドロールでどうですか」バーテンはにっこりとほほ笑んだ。
「やめてくれ。縁起でもねえ。エンドロールにゃまだ早い」
「救急車呼びますよ。ひどい怪我だ」とこともなげに奥村の顔を覗き込む。このふてぶてしい態度には覚えがある。奥村はまじまじとバーテンを見やる。
「そうかてめえ、森下。アルコール・ギャングはお呼びじゃねえ」
〈オムニバス〉により、バーテンダーの中身は学園祭で会った、あの少年にずっと入れ替わっていたのだ。奥村も銅音も気付かなかった。
 森下神酒央。アルコール・ギャングの若き首魁。
「俺はただの高校生だよ」
「だったらなおさらお呼びじゃねえだろ」
「あれを」森下の指示で頷いて引き下がり、一升瓶を抱えて戻ってきたのは、メイクも服装も変わっていたから気付かなかったが、芙蓉祭で会った千夏というキックボクシング女子だった。「ま、すっとぼけんのはやめましょう。ご存じでしょう。ここはうちの店だ。漆間は上客で、いくらか恩恵を賜ってる。あんたがたが奴の息の根を止めるのは構わないが義理もある。物騒なことなら他でやってくれないか――警視庁緊急対応酒戒課・奥村映而さん」
「俺の潜入を知ってて泳がせてたってわけか」
「俺たち、でしょう。この黒服もあんたらの仲間だ。毎日のように飲んだくれてる常連が警察だなんて思わなかったよ。つい最近まではね。芸能レポーターだなんていうあからさまな嘘で逆に読めたんだ、あんたの正体が」
 黒服のにこやかだった顔付きが能面のように凍りつく。突発事に即応するため、やや膝を曲げて身構え、周囲を瞬時で観察するその挙動は、まさに訓練された人間のものだ。目立つのは仕方ねぇか、こんなオッサンが阿呆面ぶら下げて女子高生と遊んでりゃな、と奥村は苦く漏らす。
「警察は嫌いだって言ってたのにね」
 奥村は「ああ」と芙蓉祭で警察を敬遠するような軽口を吐いたのを思い出す。「嫌いだよ。合法的に飲める他にはいいことがねえ」
「へーご苦労さんだね」
 こいつらまとめて引っ張りましょう、もう充分です、と黒服だった男が、荒っぽく蝶ネクタイを緩める。なりふり構わず仮装を剥ぎ取ったのだ。
「ふん。よせ雨知あまち。いまじゃねえし、ここじゃねえ。こいつのガラはここにゃねえ。すぐに接続を切ってどこへとなりとんずらかませる。それに水を差すにはもったいない勝負が向こう側じゃ始まってる。青臭いガキが狸ジジイをカモってんだ、見ものだろ?」
 そうだ。彼女らは、若さも身体も利用せずに老練な政治家とやり合っている。篭絡も懐柔もなしで――素手で。
「あんたは勤務態度も良好だ。口も堅そうだし。警察なんて辞めてここで働いてくれないか」高校生とは思えぬ落ち着きぶりで森下は言った。
 図に乗んなよ、ガキが、てめえは終わりだ、と雨知がすごむが、森下は平然と応じて怯むことがない。千夏が、一升瓶を傾けて枡に透明な液体を注ぐ。
「俺がパクられても組織は残り続ける。酒は血管(ヴェイン)を流れ続ける」
 アメリカ・メキシコ間を繋ぐ密輸チューブは血管と呼ばれた。それに倣って森下は言ったのだった。奥村は眉をひそめた。この透明な液体が森下の体内に流れているのかとふと想像してみる。そう、これはどんな酒よりも貴重で見慣れない日本酒というものだ。この仕事を何年も続けている奥村だったが、本物の日本酒を拝んだのはこれがはじめてだった。
「強がるなよ、おまえが消えれば組織は崩壊する」
「ああ、人や集団は消えるかもね。でも酒は残るさ」
 微風に吹かれたほども動ぜず、少年は言った。それは信仰と言っていい確信なのか。世代や法を超えて文化の火は絶えないと、この少年は本当に信じようとしているのか。本心は読めない。非合法組織のトップに相応しい自制心だ。
「あの子は同級生だろう? 見殺しにすんのか」
「〈パラドクサ〉の客なら学生であるよりも前にアウトローだ。それにあんたが考えてるよりも鹿野銅音は強い。庇護を必要としない」
 美しい枡の方形に満たした日本酒を押し勧めて、
「『狭霧』戦前からうちの家業はこれを造ってた。店の奢り。飲めよ」
 雨知が止めるが、ためらいなく奥村は枡を空けた。
「うまいな」
 一口含めば、口中に芳醇な旨味が立ち込める。のど越しはまろやかで引っ掛かりがなく、いくぶん遅れて上品な酸味が追いついてくる。後口はすっきりと未練がましさがない。
 言葉少なに褒められて、はじめて無防備に子供らしく森下は笑った。
 雨知は強張った腕組みを崩さないが、それでも何か感じるものがあったようで、しばし宙を仰ぐ。
「米と米麹。それに水だけで造った純米酒。混ぜ物はなし」
「うまい酒をおおっぴらに飲める時代が来るといいな」と奥村はその立場にあるまじき放言をする。雨知は眉をひそめただけで何も言わない。潜入捜査官には、あらかじめアルコール分解ピルが配布されていたが、今夜の奥村はそれを飲んだことを少し後悔していた。
「おまえと俺は敵同士だ。それはいい。ひとつだけ答えろ。森下神酒央。おむつの件といい、ずっとおまえはおまえなりにあの娘を手助けしてきた。こっちは国家の犬だからな、おまえの青臭い同情やら友情やらだって利用しておまえをパクるつもりだが、それはいい。言えよ、リスクを冒してでも近くで見届けたかったんだろ。同級生の戦いを。なぁ、おまえが勝たせたいのは――漆間嶺と鹿野銅音、どっちだ?」
「さあね。でも――」とぶっきらぼうに森下は言った。
「負けて欲しくない方であれば決まってる」

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