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第五章 星火燎原
汽水域の死闘
しおりを挟む「女を縛るのは得意なの?」
サルキアの棘のある物言いをジヴは無視した。
濡れそぼった女がワイヤーロープで縛り上げられた姿は、見方によっては煽情的に映るだろうが、ジヴには生憎その方面の感性はなかった。負けたメリサよりも、痣だらけのジヴの方がダメージは深刻に見えるのは、ジヴが手加減したせいではない。
「最後は運だったな」
本人も認める通り、劣勢だったジヴが振り抜いた無我夢中の拳がメリサの顎を掠めたのは、控えめに言って僥倖だろう。たったそれだけで勝敗は決した。型抜きしたプリンのようにメリサの脳は揺れたあげく、四肢を繰る手綱をすっかり放棄した。
「違うね、くぐった修羅場の数でしょうよ」
ややあって短い昏倒から目覚めたメリサは素直に賞賛した。
ジヴの無意識の闘争本能がメリサの術技をわずかに上回ったのだと。
「いいかいサルキア、この女から眼を離すな。僕はあっちを見てくる」
「わたしも行く、ベイリーのやつにわたしが生きてるって見せつけるの。あいつが死んでからじゃ遅いから!」
「君を安全な場所に留めておくのも僕の仕事だ」
ガラッドと違っていつもサルキアを甘やかすジヴだが、この時ばかりは、厳しい口ぶりだった。痣と出血だらけの顔にたしなめられては、サルキアも逆らい難い。それでもこみ上げた想いは噴出した。
「わたしからなにもかも奪った盗人ベイリー・ラドフォードがすぐそこにいる!」
けたたましく言い募るサルキア。メリサは乾いた同情さえ見せなかった。
「公女サルキア。あなたとイルムーサの施《し》いた支配は、ありていに言って暴政としか呼べぬもの。施政者にとって幼さは言い訳になりません。王宮に返り咲いたとしても、歓迎する者はいないでしょう」
手足を縛られた姿になったメリサに「ふざけるな」とサルキアは唾を吐きかけた。
「メス豚。股座《またぐら》から腐れて死にやがれ!」
娼館で習い覚えた悪罵は、公女としてはやや砕け過ぎていたかもしれない。
「あなたは死ぬべきだ。あなたを殺そうとした男にも、殺し損ねた男にも会う前に」
(うちの男どもは、いつまでもウジウジと割り切れないやつらばっかりさ)
「あんたの思い通りにはならない。わたしは死なないし、もう逃げない。ジヴ、行こう!」
動けないメリサを冷たく眺め下ろしたサルキアは興味が失せたように顔を背けた。深いため息の後、ジヴは釘を刺した。
「サルキア、どうなっても知りませんよ。ベイリーは簡単には殺せない」
「うん、わかってる」
わかっているとは到底思えない気のない返事でサルキアは泥濘に歩を進める。跛行する歩みの速度は遅かった。〈青白い淑女〉の後遺症だった。
「わたしを置き去りにするの?!」
メリサが芋虫のように身体をくねらせるが、二人は取り合わなかった。〈大喰い〉のフレームバーにくくりつけておいたから、どちらが勝とうとも後に解放されるだろう。
「では、サルキア、約束してください。僕から決して離れないこと」
「大丈夫だよ、ヴェローナもガラッドもいる」
「油断は禁物ですってば」
二人は慎重に葦の茂みに分け入っていった。
「ちょっと――ねえっって……ふん、置き去り大歓迎よ」取り残されたメリサは不敵な笑みを浮かべる。「この旅じゃひとりになる時間なんてなかったもんね」
鈍い音がして、メリサの肩が外れる。激痛を耐えるために頬の内側を噛んでしまい、やがて血の味が口中に拡がる。するりとワイヤーの拘束から抜け出したメリサは、もう一度ためらいがちに肩の関節を入れる。
「こんなことできる妙齢の女性がいますかっての男性諸君。料理洗濯家事脱臼に繩抜け、なんでもこなせるイイ女がここにいますよ」
誰に語りかけるわけでもなく言って煙草を咥えると、整った顔を歪める。
「――ツッ、痛ッ……しっかし、負けたなぁ」
ジヴを侮ったわけではない。挑発を繰り返したのは、むしろ敵の激情を誘うためであり、勝利を掴むための布石だったはずだが――。
(誤算だったな。怒ると強くなるなんて、ガキんちょの喧嘩じゃあるまいし)
この雨の中じゃマッチの火がなかなか着かず、したがって煙草も燃えてくれない。苛立ちまぎれに、煙草を投げ捨てただけではおさまらず、大喰いの横腹を蹴りけると、
「くそっ! あのお転婆、殺し損ねたし、ダメな日だ、今日は何ひとつうまく――えっ?」
――ギュルルル!
ふいにエンジンがうなる。蹴った衝撃で、ガタのきたイグニッションスイッチが入ったのだろう。
「ちょ、雑な造り。でも、いいかも」
パッと、メリサの顔が綻んだ。切り替えの早さがメリサの美点だ、と死んだナローもからかい半分に言ったものだ。見知らぬ乗り物にテンションが上がれば、彼女は数秒前の屈辱などすっかり忘れてしまう。
「さて、汚名返上と行きますか。誰も死んでないでしょうね!」
その感触を楽しむようにメリサはハンドルのグリップを愛撫した。
× × ×
ヴェローナは虫の息だった。
祈るように両手を組み合わせれば、そこに力を感じる。死の左手と生の右手の拮抗と反発が渦巻くような力を生成した。白と黒の摂化力《ゾーナム》は通常分離し、あるいは相殺するものだが、命旦夕に迫るヴェローナの内側では、そうはならなかった。
(ドジった。ここで死ぬんだね、わたしって)
装甲車からずり落ちた身体は泥水に浸り、出血をともなってどんどん体温が奪われていった。冷えていくのは彼女ではなく世界の方だ。血の臭いも刃の光沢も、さんざめく子供らの笑い声も、冷たく遠ざかっていく。身体に空いた穴から水底の遠い世界を眺めているみたいだ。
(たくさん殺した、で、とうとう順番が回ってきた)
それは不思議と安堵させる思いだった。愛する人と添い遂げるなんていう人並みな希望はやっぱり無理だったな、とヴェローナは思う。
(もうすぐ海だったのに、せめて、そこまで行きたかったよ、千年海岸《ミレニアムビーチ》)
生と死のサイクルの中で彼女もまたより強い者に捕食されてしまっただけのこと。
誰かが言ってた。
――死は生を規定する。死は生の輪郭であり隈取りなんだよ。
(あれはばあちゃんだったっけ? 難しい聖句の意味を解説してくれた。わたしを可愛がってくれた人。わたしがはじめて殺した人。わたしがただひとりその死を悼んだ人)
両手が接着されたように離れない。
まるで磁石のように両手は引きつけ合って、もともと別々のものであったのが悪い冗談のようだ。ヴェローナはゆっくりと立ち上がる。虚ろな瞳は、何も映してはいない。
――わかるかい? ヴェローナ。おまえの手は殺すことも癒すこともできるだろう。でもいつか最後には違ったことが起こるよ。両手をぴったり合わせたら何も掴めなくなると思うのかい? 逆だよ、その手の内に何もかもが溢れる。その両手で為すべき自由を〈不可分の一者〉に捧げて、ただ祈れば、彼は彼の物をすべてくれるのさ。
「ああ、わかんないな。……ばあちゃんの言うことはいつもちょっとだけ難しすぎるから」
「まだ立つか、死神」
片方の眉をつり上げてベイリーは言った。
「ルゴーはダメだ。でもその娘はまだ助かるかも」
無残なナローの死体に寄り添ったクラリックは叫ぶ。ベイリーはガラッドに武装を解除され、無防備に湿地に佇む。
ガラッドは噛みつくように言った。
「おまえが医者なら、ヴェローナを救え」
「ナローとルゴーを殺した死神にも情けをかけるのか。クラリック」
ベイリーにそう問われたクラリックは、いつにもなく反抗的に言い返した。
「サルキア様を殺せなかったように、わたしには、この少女を殺せないでしょう。見捨てろと仰るのであれば、また命令違反ですね」
「常習者め」ベイリーは頬を緩めた。
「この旅の間ずっと考えてましたよ。わたしはあなたの部下にはふさわしくない」
「ならば、わたしもおまえの上官にはふさわしくないだろう。もっと有益におまえを扱える人間がこの大地のどこかにいるはずだ」
そうして――ベイリーとクラリック。
ふたりの悪夢に何度となく登場した少女がついに現身でもって眼前に姿を見せる。
サルキア・ラヴェンデ。
王弟ルパートの長女であり、ただひとり王家の血を引く者。
毒の後遺症による歩行障害。葦をかき分けて歩む姿は老人じみていて痛々しい。支えるジヴもまたサルキアの怨念に感染したごとく凶相をまとっている。
「ヴェローナ!」
サルキアとジヴが同時に声をかけるが、死神に反応はない。
「ベイリーに撃たれたのさ。あいつに治療させようと思ってる」
顎をしゃくってクラリックを示すと、ガラッドは「絶対に殺すな、サルキアを生かしたようにな」と言う。
「わたしを生かした?」
「らしいぜ、姫。命令違反だそうだ」とガラッドは肩をすくめる。
「公女サルキア。本当に生きていたとは!」
クラリックが喜色を湛える一方、ベイリーは硬直したまま、どんな感情もうかがわせない。
「医者の処断は後回しにするとして、ベイリー。貴様の裁きは今ここできっちりつけてやろうぞ。奸臣イルムーサを誅したのみならず、王弟ルパートが娘、この私サルキア・ラヴェンデを手にかけようとするなど言語道断」
「悪いなベイリー、おまえはここで死ねや。叛徒のお前と違って、俺たちは公女サルキアを庇護し王都に返り咲かせた忠臣として新しい時代を仕切らせてもらうぜ。ウェス・ターナー、あのガキを引き入れてがっぽり稼ぐんだ。そこにお前はいない。故郷にちっぽけな墓石が建つだけさ。好きな花は何だ? 供えてやろう」
ようやくベイリーが口を開いた。
「――正直、羨ましいな。新しい時代、わたしもそれを見たかった」
その眼にはありありとした覚悟が漲っていた。死を受け入れる覚悟が。
父親の代からの因縁によってベイリーはサルキアを手にかけることになった。
ベイリーの父クライス・ラドフォードとサルキアの父ルパートは北の処遇をめぐって対立したのだった。政争に破れて不遇の晩年を過ごした父の無念を晴らすための行為だったとはいえ、それは娘であるサルキアに因縁の刃が向かうべきではなかったのだ。
それに――とベイリーは思う。
竜紋《サーペイン》の作用によって、ベイリーはレイゼルの舐めた苦渋を知っていた。厳しい北の大地で人が生きることの意味を。長い年月の末、いまやベイリーは父クライスではなく、父の政敵であったルパートの思想に共鳴していた。
「殺すがいい。イルムーサを討ったことに後悔はないが、その後の己には有り余る失策がある。権力と名声に忘れたのだ。我が身を証だてる信義を」
「命乞いはしないのか?」背伸びしたサルキアは物々しい口調で告げる。
「ああ、しない。……メリサが生きているなら、彼女をどうか。生かしてやってほしい。私は部下を失い過ぎた」
「所詮、軍の犬に過ぎぬおまえが身の程も知らずのぼぜ過ぎたな。あの世で悔やむがいい。メリサか、あの女は……おまえたちとわたしを会わせるのを恐れていた。会えば、ベイリー、貴様が己の首を差し出すのがわかっていたのだろう。この無害な医者だけは生かそう。片足はもいでやるがな」
サルキアは己の不自由な足に視線を落とす。
「そうか。だが――」とベイリーはいったん口ごもり、「殺すなら急げ、死神が動く、最後の力でわたしを狙っているぞ」
天から垂れた糸によって操られた人形のようにヴェローナは動く。致命傷にもかかわらず、幽鬼めいた双眸には怪しい火が揺らめいた。組んだ両手の人差し指を立てて、ピストルに見立てる。銃口は真っすぐにベイリーの心臓に向けられており、手で触れられるほどのプレッシャーがのしかかる。それが単なる遊びでないことは誰もが知っていた。死神ヴェローナは意念と呪力だけで弾も火薬もなく人を殺傷することができるのだと。
「動くな死神、できるならば、わたしは君を助けたい」
クラリックの、それは必死の懇願だった。しかし、幽明の境を彷徨っているヴェローナには届かない。
「――裸足の乙女、恥じらう週末、気になる彼との待ち合わせ」
ヴェローナはお気に入りの歌を口ずさんでいた。不気味に明るいその曲調は、しかし皆の緊張をほぐしはしない。むしろ、より切迫した時へと引っ張り込む。
「邪魔するやつはお仕置きよ、八つ裂き、細切れ、寸刻み」
ヴェローナの鼻歌、そして雨音、さらには――大喰いのエンジン音が接近してきていることに誰も気づきはしなかった。ベイリーは何を思ったのか、ヴェローナに背中を向ける。無抵抗の証なのかもしれない。濡れた上着を脱ぐと、肌着の中から竜紋が透けて見えた。それはほのかな燐光を放ち、ガラッドたちを驚かせる。
「ありゃあ、マイルストームの野郎の」
「竜紋ってやつですね。本物があったとは」
ジヴもまた眼を丸くしてベイリーの背を見据える。竜が人に徴を刻むなど合理的な商人には受け入れがたい話だった。
「たとえ竜に選ばれたとしても、ベイリー貴様は儚くも消えるべき」
サルキアは強い意志を言葉に込めた。ベイリーが恥も外聞もなく命乞いをするのを想像していたから、その潔い態度は拍子抜けだった。気勢を殺がれた。これでは自分で手を下す喜びもない。
「ヴェローナ。ベイリー・ラドフォードを地上から抹消して」
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