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第1章

6 カミル、出立する

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 兄の用意したものを身につけると、カミルは兄の使用人である女性と共に、北門へ向かった。門の前で、右にそそりたつ断崖を見上げる。
 元々、王城は平野の真ん中の小高い丘の上に建造されていた。南から行くと、緩やかな坂道を上って王城の正門に着く。王城の裏側、つまり北は切り立った崖になっていた。崖の下には東から西に向かって大きな川が流れている。北から攻めるのは不可能に近い。
 内街は、王城をぐるりと馬蹄形に取り囲んでいた。東側と西側の北端は川に面していて、それぞれに橋がかけられている。街は高い壁で囲まれていて、門以外からは出入りできない。
 通常であれば、昼間それらの門は開放されているのだが、カミルの脱獄の知らせを受けたのか、今日は検問が敷かれていた。
 兄はそれを見越して使用人の女性をつけてくれた。夫婦者という体で、カミルと女性は無事、西側の北門を馬を引いて抜けた。
 門の外は、広い橋に続いていた。怪しまれないよう、他の人混みと同じ速さで歩いていったカミルは、橋を渡り終えたところで王城へ振り返った。
 夕べ自分はあの上を歩いていたのだ。国家の陰謀が自分に関係してくるとは露ほども考えず。
 父上はなぜ、城壁の上へいらっしゃったのだろう。カミルは陰鬱に考えた。城の南にある邸宅で寝ていたはずの父が、なぜ突然、警備詰所までやってきたのか。そしてなぜ、カミルのいる北の城壁の上で殺されることになったのか。
 それに、侵入者はどうやって入ってきたのだろう。
 見れば見るほど、王城は堅牢だった。足元に流れる川は、荷馬車を縦に10台並べたほどの幅だ。そこから真っ直ぐ立ち上がった崖も同じぐらいある。その上に4階建ての城があり、城壁は一番上に位置していた。
 衛兵たちは定期的に川を覗き込んでいたし、警備に手抜かりがあったようには思えないのだが。
 こうして明るい中で自分が仕事をしていた場所を見ると、やはり侵入は無理に思える。下手人はどうやって川を渡り、どうやって崖を上ったのか。
 考えても埒があかない。その辺りはきっと兄上が調べてくださる。
 カミルは重い足取りで女性と共に歩き続ける。やがて検問所も見えなくなり、壁の外に広がる外街も終わりに近づく頃、カミルは女性と別れて馬に乗った。
 目の前には、北の森を迂回する本街道が北へ伸びていた。王都の北のはずれにあるその森は、人々が薪を拾ったりする生活の森ではあるが、奥に行くほど治安が悪い。本街道は森の西側を回り込んでいる。街道に乗れば、もう王都は見えなくなるだろう。
 遥かな旅に出る前に、もう一度振り向く。父上はなぜ殺されねばならなかったのか。そして私は、なぜ犯罪者として城を出なければならなかったのか。騎士でありながら、汚名をかぶったまま逃げるように王城を後にしなければならないことに、カミルは耐えがたいほどの口惜しさを感じた。
 それに、密命をひとりで成し遂げることなどできるのだろうか。
 自分の将来は何ひとつ定まってはいない。森の西には肥沃な農地が広がり、平野が見渡せる。その先には、北の森よりなお深い森が広がっていた。王都周辺の森とはまったく違う。そこには得体のしれない生き物と、旅人を襲う強盗、そして街を追われた犯罪者が潜んでいる。
 目的の地は、地平線の彼方に霞んでいた。カミルは想像する。遥か北では、峻厳な山々が空に向かって白い尾根を突き立てているのだ。山脈の入口には歴代王墓がある。初代からの国王と魔法師たちが、この国を守るために眠り続けている巨大な墓所だ。
 目指す場所まで、馬で10日以上かかる。行って帰ってくるまでには、どんなに早く見積もっても一ヶ月近くかかるはずだ。
 敵の密偵はすでに城を出た。カミルの追手も出たはずだ。兄は言及しなかったが、カミルは確信していた。
 命がけの逃亡は今から始まるのだ。
 父上。『どのようなことにも、くじけず対処するように』とあなたはおっしゃった。
 私はあなたの最期の言葉を守りたい。どうか……どうか私に、どのような形でもいい、力添えをしてください。私の心を支え、父上の高潔な在り方に少しでも近づけるよう、この国に少しでも貢献できるよう、お守りください。
 カミルの祈りは、まったく予期していなかった方法で聞き入れられることになる。



 北の森の西を越え、青々とした小麦畑の中を走る街道を、カミルは馬で進んでいった。気は急いていたが、常歩だ。大事な道連れである馬を初日に疲れさせるわけにはいかなかったし、見晴らしがいい上に人が多い本街道では、目立つ行動は避けるべきだ。それに、人目のある場所で襲撃されるとも考えにくい。
 堂々と逮捕するつもりなら、部隊を率いて大がかりな捜索をかけるはず。それがないということは、向こうは暗殺を狙っていると見ていい。やはり、裁判なしに処刑しようとした辺り、敵には後ろ暗いところがあるということなのだろう。兄の尽力もあるだろうが、敵はまだ大っぴらに動くわけにはいかないらしい。
 目的地が定まっていない傭兵に見えるよう、カミルは細心の注意を払っていた。話し方も変えるべきだろうか。
 考え事をしながら、カミルは進む。旅人たちは様々だ。行商人や運送人が一番多いが、それ以外にも家族連れや流しの職人、とにかく様々な人々が行き交っていた。
 陽射しが西へ傾く頃、最初の宿場町にカミルは入っていった。
 日暮れ直前の町は活気にあふれている。旅人たちは口コミと財布事情に合わせて宿を選び、夕食にありつくことを考えて歩き回っていた。呼び込みが、そんな旅人の袖をつかもうと動き回る。
 傭兵、というのはどの辺りに宿をとるだろう。
 以前、父と兄に連れられて見聞旅行に出た時、この宿場町には来たことがあった。あの時は当然のように最上の宿に泊まったのだが、おそらくそれでは怪しまれる。
 かといって、場末の売春宿も困る。雑魚寝の宿も、おそらく安眠できまい。虫に食われない清潔なベッドのある個室……。
 頭の中で財布の中身を考える。カミルはそこで両親に感謝した。学問所で一緒だった貴族の子弟は、誰も金のことを心配したことがない。欲しい物はなんでも使用人に命じれば持ってきてもらえる。食べたくないものは皿に投げ出せばいいし、食べたいものは際限なく要求すればいい。そういう者は多かったのだ。
 だがカミルの両親は、そうした我儘を許さなかった。穀物はすべて、農民が汗水垂らして育てたものだ。動物はすべて、牧場で育てられるか、領地の森で森番が管理していたものだ。それらが食卓へ運ばれるまで、どれほどの人が働いているかをカミルは教えられていた。
 金銭面でも両親は厳しかった。カミルは毎月一定の小遣いを与えられた。それはカミルが欲しい物を買うには少し足りず、かといって全く手が届かないほどでもないよう、注意深く定められた額だった。
 勉学以外の本が欲しい時、机に置く小さな細工物が欲しい時、カミルは知恵を絞らなければならなかった。一目ぼれした馬が買いたかった時には、身分を隠して街の飯屋で働いたこともある。そうした健全な金銭感覚は、今ここで贅沢をすべきではないという分別をカミルに与えてくれた。
 傭兵には、2種類ある。仕事を終えて懐が温かい傭兵と、仕事がなくて素寒貧の傭兵だ。
 カミルは自分を前者であると設定した。馬を降りると、近くの鍛冶屋の店先で体を洗っている少年に、コインを一枚渡す。
「この町で、一番うまい飯を食わせてくれる宿はどこだい? ひとり寝ができるベッドがある宿なら、もう一枚やろう」
 少年は目を輝かせてカミルを見上げた。
「いい宿知ってるぜ。案内してやる」
 ついてこいよ、と少年は歩きだし、カミルは後ろをちらりと見てからついていった。
 今のところ、尾行は見当たらない。いないとは思えないが、見つけることはまだできない。
 旅はまだ始まったばかりだ。今宵ばかりは、静かに眠りたいものだが。

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