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第2話 忘れられない
しおりを挟む今朝も冷える。冬が嫌いな僕にとって、この時期はただただ耐える一手だ。玄関のドアを開けると、寒気が全身を容赦なく襲う。僕は身震いしながら鍵をかけた。
「お、ハチ。おはよう」
「あ、おはようございます」
階段を下りてきた先輩の声が背中に被さってきた。僕はドアに鍵を刺したまま応えると、目を合わせないようにして振り返った。
「今日も寒いなあ」
「そうですね」
いつもと変りない先輩。とりとめのない話を最寄り駅まで続ける。昨日、あんなことがあったのに全く意に介していない様子だ。なかったことになってるのか? それとも、夢だったとか。いや、それはない。
「じゃあ、また」
最寄り駅は同じだけど、方向は違う。毎日じゃないけど、出勤時間が合えばこうして駅まで一緒に行くのが僕らの日常だ。でも、今日はあんまり会いたくなかった。
あんなこと。それは先輩の手料理を美味しくいただいた直後、唐突に起った。厳密に言うと、唐突ではなくきっかけは僕だったかもしれないけれど、その僕にしても十分唐突だった。
僕をフッた彼女に言われた一言。キスが下手。退屈な男と言われるよりも僕には応えた。それを先輩に愚痴のつもりで言った。本当に愚痴だったんだ。だけど。
『俺が教えてやるよ』
との言葉を僕が脳内に落とすより早く、先輩は行動に移っていた。
――――先輩にキスされてしまった。しかも、物凄く濃厚で長いキスだった。
教えてやると言っただけあって、それは衝撃的だった。危うく気を失いそうになったが、寸でのところで耐えたんだ。唇が離れた時、図らずも先輩と目があってしまった。僕は多分、瞳孔を開いた双眸で、ぽっかーんとしてたことだろう。
僕の記憶が正しければ、先輩はふっと口元を緩めて笑みを作り、さっと立ち上がった。無言のままキッチンに入ってしまったものだから、僕はワタワタと席を立ち、『ごちそうさまでした』とかなんとか言って、逃げるように帰ってしまった。
部屋に転がり入って、エアコンをつける。部屋があったまる間もなく、僕は今起こったことを反芻した。
――――一体、何が起こったんだろう。いや、気にしないでいいんだよな。先輩は僕が哀れで、本気で教えてくれたんだよ。そうだよ。あんなすっごいキスができたら、絶対下手って言われない。それどころか、忘れられなくなるよ。
朝が来た。夢と現に惑わされ、あんまり眠れなかった。体の色んなところが反応して大変だったんだ。いつものように出会ったら、めっちゃ気まずい。家を出る時間、ずらそうかな。
朝食代わりの珈琲を飲みながら試案する。ぐずぐずしてたら、結局いつもの時間になってしまった。
結果、普通に先輩と出会った。でも、先輩は全く変わらない。気にしてたのは僕だけみたいだ。
なんだ、やっぱりそうだよな。あれは、落ち込む僕を励ますついでにご教示してくれたんだよ。先輩、キス上手だなあ。あれなら、どんな女子もイチコロだよ(昭和)。満員電車に押しつぶされながら僕はそう結論づけた。
せっかく教えてもらったんだ。次こそは、あの魅惑のキスを彼女にお見舞いするぞっ。僕は手にしたつり革をぐっと握った。
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