私とは婚約破棄ですか? じゃあ、道化を演じるのはもうやめますね。

真嶋青

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私とは婚約破棄ですか? じゃあ、道化を演じるのはもうやめますね。

「リーゼロッテ・ヴァルター! 俺はお前との婚約を、ここに破棄すると宣言する!」

 王立学園の大広間。
 卒業パーティーの穏やかな空気が壊された。

 第一王子クライン・エーデルハイトの宣言は、瞬く間に生徒たちへ衝撃と緊張を伝搬した。

(あぁ、遂にこの時が来たわ)

 私は、心の中でそっと息をつく。

 ◆

「オ~~~ホッホッホッ! 婚約破棄ですって? クライン殿下、いったい貴方様は何を仰っているのです?」
 
 大広間に、私のバカみたいな高笑いが響いた。
 私――公爵令嬢リーゼロッテ・ヴァルターは、学園の高飛車令嬢としてある種の名物化している。
 その発言の節々から、悪役令嬢然とした傲慢さが滲み、自他ともに認めるじゃじゃ馬っぷり。
 だが、それは全て、私がこの学園に入学してから、意図的に演じてきたキャラクターである。
 いったい誰が好き好んでこんなオホホ笑いを披露するものか。

 しかし、私には恥を忍んでそうする理由があった。

 突然だが、私には前世の記憶がある。
 この世界は、かつて私が画面越しに遊んだ乙女ゲームの舞台そのもの。
 そして、今この瞬間の出来事は、悪役令嬢リーゼロッテの『断罪イベント』にそっくりだ。
 
 クラインの隣には、平民の少女エミリアが寄り添っている。
 薄桃色の髪、大きな瞳、今にも泣き出しそうな表情。
 彼女は『神授の浄化魔法』を持つ聖女であり、この三年で学園中の男子生徒の庇護欲を刺激してきたゲームの主人公様だ。

 クラインは彼女の肩を抱きながら、私を指差した。
 その顔は、正義を執行する英雄のように輝いている。

「エミリアが嫌がっているのに、お前は彼女を何度も呼び出しては罵倒し、服を汚し、教本を奪って捨てたことまであった! 公爵家の令嬢だからと許されると思うな!」

 広間がざわめく。
 周囲の驚愕と、私を糾弾する目が、波のように押し寄せた。

 しかし、私は動じない。
 どこにも逃げも、隠れもしない。
 ただ私は、クラインを鋭い視線で見返して一言――。

「……それで?」
「なっ……」

 私の鋭い声はざわめく広間にもよく通った。
 クラインは虚を突かれたように目を見開き、そしてすぐに顔を赤くする。

「それで、だと!? お前はエミリアにあれだけのことをして、悪いとは思わないのか! この悪女め! お前のような輩は俺の婚約者に相応しくない!」
「そうですか。ですが、私には殿下の仰ることに心当たりがないのですが?」

 とぼけながらも私は扇を緩やかに開き、口元を隠す。
 それから、一歩だけ前に出た。

「それにしても……婚約者に相応しくない、ですか。そもそも、殿下はこの三年間、私を婚約者として扱ったことなど一度もなかったではありませんの」

 この学園で今日までの私を見て来た生徒たちは、私の淡々とした喋り口に目を剝いていた。
 
(まあ、驚くでしょうね。私の素の喋り方なんて、皆さんご存じないですもの)

 クラインも私の豹変ぶりに驚愕している。
 その隣のエミリアは、ここに来た時からずっとオドオドしたままだ。
 ただ、クラインに肩を抱かれ、なんだか居心地悪そうにしている。

「なんだ、その喋り方は……。い、いや、そんなことより、俺がお前を婚約者として扱っていないって? そんなの当然だろう。お前はずっと第一王子である俺の婚約者に相応しくない言動を繰り返していたんだ! お前には、次期王妃としての意識がまったく足りていない!」
 
 偉そうに私を指差して講釈を垂れるクラインだが、その言葉には説得力の欠片もない。

「それを言うなら、クライン殿下こそ、私という婚約者がいる自覚が足りていなかったのではありませんか?」
「なんだと?」
「学園ですれ違う度に、私を睨みつけて、たまにある学園のダンスパーティーですら、そちらのエミリアさんと踊ってばかり。久しぶりにクライン殿下からお声掛けいただいたと思ったら、この様な場で婚約破棄だなんて……。そんなにも私が嫌いでしたの? なんだか、エミリアさんを出汁に使って、私との縁談を無かったことにしたいだけのように見えるのですが」

 クラインは学園に入学してエミリアと出会ってから、常に彼女と行動を共にしていた。
 この会場にいる人間も、クラインが婚約者である私を放ってエミリアとばかり懇意にしている場面は腐るほど見てきただろう。
 おかげで一部の生徒は、婚約者を持ちながら他の女性を侍らせるクラインに、あまり良いイメージを持っていない。
 
「っ……それは――。い、いや! そんなことは関係ない! テキトウなことを言ってはぐらかそうとしやがって! エミリア、君もこの場でリーゼロッテの悪行を暴露してやれ!」

 すると、長く沈黙を守っていたエミリアが口を開く。
 
「……あの、その」

 しかし、彼女の言葉はそこで止まった。
 クラインは「恐れずなんでも言っていい、俺が守ってやるさ」なんて甘いことを囁く。
 それでも、彼女は小奇麗な睫毛を伏せ、口をもごもごと動かすだけだった。

(何も言えないのよ、その子は。エミリアには、私にイジメられた記憶なんてないんだもの)

 そう、私はエミリアに危害を加えたことなどない。
 ただ、平民のエミリアは、貴族と接する際のマナーに疎いことがあり、ちょっとした指摘をしたことは何度かある。
 その度にクラインは「学園でまで平民を跪かせて楽しいのか!」とか、ずれたことを喚いていた。

「エミリアさん。もしも私が貴方を不快にする何かをしてしまっていたのなら、この場で謝りましょう。なんでも仰ってください」
「……いえ、その…………すみません」

 何も言えず、終いにはエミリアの方が私に謝る始末。
 こういうオドオドした女性を小動物的で可愛いという方もいるけれど、私には煮え切らない態度が苛立たしいだけだ。

(ですが、それも仕方ありませんわね)

 きっとエミリアはクラインに引っ張られて、彼にこの場にいるだけだ。
 彼女は、自分の意思で何かをすることはない。
 波に揺れる木の葉のように、周りの都合のいいように流されてきただけの人。
 それが私の知るゲームの主人公エミリアだ。
 
 彼女はゲームでも、常にヒーローの言葉と、目の前の出来事に流されるだけの人物だった。
 主人公としてイケメンキャラ達にちやほやされ、ゲームのプレイヤーに快感をもたらすためだけの舞台装置だ。
 そんなエミリアが、私は嫌いというより、ひどく哀れだった。

「エミリアが喋れないほど怯えているじゃないか! いったいどれだけ酷いことをしてきたんだ! お前のような女が王妃になれると思うなよ。少し頭が回るからと言って人を見下して、愛嬌のかけらもない! 俺はずっと我慢してきたんだ!」

 表面上はエミリアを庇っているようだが、私にはその向こうが透けて見える。
 彼は、私を好き勝手に言い負かして気持ちよくなりたいだけだ。

 ――クラインは、幼い頃から婚約関係にあった私と何かにつけて比べられてきた。

『リーゼロッテ嬢はもう計算ができるそうですよ』
『リーゼロッテ嬢はもうバイオリンが弾けるそうですよ』
『リーゼロッテ嬢は――』
 
 幼少の頃、大人たちがそんなことを言うたびに、彼の顔が歪んでいたのを覚えている。
 悔しいならば、努力をすればいいだけなのだ。
 けれど、彼が何かを成し遂げようと懸命に努力する姿を見た覚えはない。
 それだけならまだよかった。
 いつからか、彼は他人の努力をバカにするようになった。
 彼はろくに努力をしないくせに、自分よりも成果を上げる人間が許せない性分なのだろう。
 私や、彼の弟である第二王子が将来の政務のため勉学に励む姿を鼻で笑い、自分は王族の責務を放棄して遊び惚ける日々。

 私は、そんな彼が大嫌いだった。
 こんな人間と結婚なんてしたくないと何度考えたかわからない。
 しかし、王族との婚約を、私の方から一方的に解消できるわけがなかった。
 
 だが、私には、前世の記憶があった。
 そして思った――断罪イベントを利用すれば、クラインとの婚約を破棄できるのではないか、と。

 そして、その舞台が、遂に幕を開けたのだ――。

「クライン殿下」

 私は静かに言った。

「婚約破棄の意思はわかりました。しかしその前に、私に申し開きの時間をいただけますか?」

 クラインが、怪訝な顔をした。

「……申し開き? 今さら何を――」

 私は微笑んだまま、扇を胸の前で閉じた。
 ピシャリという音で、クラインの言葉を遮る。

「私、後腐れが嫌いな性分でして。きちんとお話しして、きれいに幕を引きたいのですよ」

 婚約破棄はいいが、このまま私に罪を着せられては困る。
 だから私は、穏便に事を済ませる準備をしてきた。
 
 私は、ずっとこの瞬間を待っていたのだから。

「では、始めましょうか」

 私が手を上げると、扉の近くで控えていた侍女が一冊の革張りの帳面を持って歩み出た。
 続いて、二人の人物が広間へ入ってくる。

「……な、なんだ、そいつらは」
「美術学の講師をしてくださっているルーカス先生はご存じでしょう? それから、こちらは学園の図書館で司書をしていらっしゃるレイナ子爵夫人。御二人とも、私が無実であることを示す証人としてご足労いただきました」
「なっ……」

 まさか私が証人なんて用意しているとは思わなかっただろう。
 普通なら無理だ。
 でも、私にはクラインがどのような容疑で私を断罪しようとするのかわかっていた。
 私がそうなるように、ゲームのシナリオをある程度なぞって、意図的にこの舞台を用意したのだから。
 
「殿下が先ほど仰ったエミリアさんへの嫌がらせ、三件ございましたわね。呼び出しと、服を汚したこと。それに、教本を奪って捨てたこと」

 私は侍女から受け取った帳面を開いた。

「まず呼び出しの件ですが、四月三日の放課後と五月五日の件ですか? 他にもいくらか記録を残していますが、あいにく、私はエミリア様に何か危害を加えた事実はありません。この広間にいる生徒の中にも、覚えている方がいるかもしれませんが、この両日は学園でマナー講習があった日です。私は確かにエミリア様と二人で会話をする機会がありましたが、それは平民である彼女に、貴族に対するマナーを教えていたからです。マナー講習は、平民と貴族がペアになって、互いに作法を練習するものであると、殿下もご存じのはずですよね?」

 ちなみに、実習は男子と女子に分かれている。
 だが、初めてのマナー講習では、クラインが講師に我が儘を言ってエミリアとペアを組もうとしたことも、生徒の記憶に残っているかもしれない。
 結局その話は却下されたのだが。

 それはさておき、エミリアの件だ。
 彼女は、壊滅的にマナーの知識がなかった。
 おかげで、私は講習外で彼女にあれこれと教え込む必要があったというわけだ。
 そこへクラインがやってきて、お決まりの「エミリアを虐めるな!」に繋がる。
 
 馬鹿馬鹿しいことだ。
 マナーができていなければ、講習で恥をかくのはエミリアだというのに。

「つ、次は服の件だ! エミリアの制服を真っ黒に染めて――」
「その日も確認いたしましたわ。八月二十日ですわよね? その日は美術学の講義があった日です。担当のルーカス先生に証言をお願いしてございます」

 壮年の美術学教師が、静かに一礼した。
 クラインの顔がみるみる険しくなっていく。

「その日は、水彩画の実習がございました。エミリアさんは、リーゼロッテ様が使っているインクを落とすバケツに躓き転んでしまいまして。幸いリーゼロッテ様が彼女を支えたことで怪我はありませんでしたが、2人とも制服が汚れてしまったのです。仕方なく、御二人には講義を抜けて着替えをしてもらいに行ったのですが……」

 そこを別の教室で講義を受けていたクラインが目撃したというわけだ。
 おそらく、彼はあとになってエミリアに詰め寄り「またリーゼロッテに虐められたんだろう!」とでも聞いたのだろう。
 エミリアがクラインの圧に負け、「あの……えっと……」と本当のことを言えずオドオドしているところまで容易に想像できる。

「最後に教本の件ですが……それは、エミリアさんがご自分で紛失されただけではありませんか? 少し前から、落とし物として図書館に一冊の教本が保管されているそうです。ねぇ、レイナ様?」

 初老の女性司書が、ゆっくりと頷いた。
 
「ええ。持ち主がわからなかったので、以前より校内に張り紙をして、落とし物を保管している事は周知しておりましたわ」

 しわがれた声でゆっくりと告げられた内容を聞いて、広間の生徒からも「ああ、あの張り紙か」なんて声が上がる。
 
「私もこれに関しては確信がありませんが、あとから図書館へ教本を確認しに行ってはどうです?」

 確信がないと言うのは嘘だ。
 これも、ゲームシナリオを逆手にとって私が仕組んだこと。
 エミリアの教本の所在を知りながら黙っていたのは申し訳ないと思うが、この場の理想的な着地点を作るためには必要なことだった。
 エミリアが紛失した教本というのは、彼女が殆ど使う事のない学園配布の剣術指南書なので、無くても彼女が困ることなど無かっただろうが。
 
 広間は、なんとも言えない微妙な空気に包まれている。

「つまり、殿下が私に突きつけた三件の罪状は、勘違いの言いがかりということになりますわ」
「そ、そんなことっ……」

 まだ納得いっていないようだが、クラインに反論の余地はない。
 どうせ、クラインはろくな証拠も用意せず、勢いだけで私への糾弾を始めている。
 昔から怠け者なくせに成果ばかり求める彼らしい。
 あと、思い込みが激しくて独善的なところも子供の頃から成長していないと見える。

 顔は良いが、それ以外は壊滅的だ。
 ゲームのプレイヤーとしては、それでも気が強くて、ちょっと抜けたところのあるお茶目なイケメンキャラとして楽しめただろう。
 だが、現実に関わる人間としては、最低としか言えない。
 
 私は目を細め、冷たくクラインを一睨みした。

「公爵家の令嬢を根拠なく断罪しようとした。これは、れっきとした名誉毀損ですわね、クライン殿下」
「……っ」

 クラインは唇を震わせた。
 エミリアはといえば、ぱちぱちと瞬きをして、何が起こっているのか未だによくわかっていない様子だ。

 私は最後に、クラインの目を真っ直ぐ見た。

「もう一つだけ申し上げてもよいですか、クライン殿下」

 声は柔らかいままで、しかしはっきりと届くように言った。

「殿下が望んでいらしたのは、共に王国を支える伴侶ではなかったのではありませんか? ご自身の自尊心を脅かさない都合の良い誰かが欲しかった。だから何を言っても強く反論せず、ただ頷くエミリアさんを選んだ」
「……何を」
「分かっておられないのでしょうね。御自分でも」

 私は再び扇を開き、口元を隠してから、溜息をつく。

「とにかく、私とは婚約破棄ということで、理解いたしましたわ。これだけの聴衆の前で宣言されたのですから、どの道もう無かったことにはできないでしょう。国王陛下と王妃様には、また後日、ヴァルター公爵家からお話を伺いに参ります」

 一拍置いて、私は呟く。

「これでようやく、道化を演じるのも終わりね」

 長かった。
 断罪ルートに入るため、学園に入学してからの私は、意図的にゲームと似た立ち振る舞いをするよう心掛けていた。
 ただし、ゲームのように、本当にエミリアを害することなく。
 全ては、私にとっての大団円でこの卒業パーティーを終えるため。
 
「殿下、どうぞ今後は、勝手な思い込みで人に迷惑を掛けないようにお気を付けください。それでは、失礼します」

 それだけ言って、私は彼にカーテシーをする。
 すると、広間のどこかで、誰かがくすりと笑った。
 それが引き金になったように、忍び笑いが波紋のように広がっていく。

 私は、クラインたちに背を向けて歩き出す。
 クラインは私を罵倒するように喚ていたが、もう振り返らなかった。

 ◆
 
 広間の扉を抜けると、廊下の冷えた空気が頰を撫でた。
 やり切った、と思う前に、ふっと全身から力が抜けた。
 三年分の緊張が、一度に溶け出したようだった。

「……お疲れだな、リーゼロッテ」

 低く静かな声に、私は足を止めた。
 廊下の柱の傍に、シルヴァン・エーデルハイトが立っていた。
 第二王子、クラインの弟だ。
 彼の兄であるクラインと婚約関係だったこともあって、シルヴァンとの付き合いもそれなりに長い。
 幼いころから、彼とはよく顔を合わせていた。
 
 しかし、まだ二年生の彼は、卒業パーティーに参加していないはず。

(どうして、ここにいるのかしら……)
 
 滅多に表情を変えない人物だ。

 しかし今夜は、いつもと少し違った。
 切れ長の目が、何か決意を秘めたような光を帯びていた。

「少し、いいか?」
「……どちらへですか」
「バルコニー。人の目がない」
 
 それだけ言って、彼は歩き出した。
 私はしばらく彼の背中を見ていた。

「……まあ、いいわ」

 私は小さく呟いて、彼の後を追った――。

 ◆
 
 バルコニーには夜風が流れていた。
 庭園の奥に、春の到来を告げるように白い花が咲いている。
 広間の喧騒が、ずっと遠くに聞こえた。

「今夜のことは、知っていたのですか」

 私は夜空を見上げながら聞いた。

「何も。ただ……君に、卒業祝いを告げようと思っていた」
「あら……助けに来てくれたわけないのですね」

 ちょっと残念そうに言ってみる。
 
「助けが必要だったか?」

 私は横を見た。
 シルヴァンは、微かに口の端を上げている。

「必要なかったですわね」
「だろうな」

 沈黙が落ちた。
 しかし不思議と、彼との間の沈黙は息苦しくない。
 むしろ――。

 シルヴァンはしばらく黙ってから、私の方へ向き直った。

「やはり、無理をしていたな」
「……」
「学園に入学して再会した君が、以前とは別人のようで驚かされた」

 王立学園は全寮制。
 一足先に入学していた私は、二年前にシルヴァンと一年ぶりの再会を果たした。
 だが、ゲームのシナリオに沿って日常を過ごす私は、学園へ入学する以前に彼と接していた頃とは別人に見えただろう。

 私は返す言葉を探した。
 しかし、彼は私の返答を待たず続ける。

「痛々しかったよ。君らしくなくて」

 その言葉が、不意に胸の奥に届いた。
 
(私らしくない、か)

 そう思ってくれる人が、この世界にいたことを、私は知らなかった。

「君は……」

 シルヴァンの声が、少し低くなった。
 熱を帯びた、真剣な声。

「怯まず、媚びず、自分の力であらゆることを乗り越える。そして、どれだけ結果を出そうと、おごることはない。そういう奴だ」

 いつもはもっと口数が少ない寡黙な人なのに、やけに饒舌で、優しい言葉。
 頬が熱かった。
 私は正面を向いたまま、扇で顔の下半分を隠した。

「……ほめても何も出ませんわよ」
「ほめているんじゃない。本当のことを言っている」
「……っ」

 扇の向こうで、私は小さく唇を噛んだ。

(年下のくせに、妙に私の扱いが上手いのよね。まったく……)

 ドキッとさせられたのが悔しくて、心の中で毒づいた。

「そもそも君は、あんな高飛車な性格ではないだろう。もっと、大人しくて、意外と内面はジメジメしていた」
「ジメジメ……女性に言う言葉じゃありませんわよ、それ」

 シルヴァンはククッと小さく笑った。
 私も、それにつられて笑ってしまう。
 
 夜風が私たちの間を吹き抜けた。
 なんだか懐かしい二人の時間に、私は記憶の引き出しを探すように口を開いた。

「……昔から、シルヴァン殿下と私は図書館にこもってばかりでしたわね」
「ああ」
「本当に毎日。時間さえあれば、王宮の図書館にお邪魔していました」
「俺は、君に勉強で負けるのが悔しかったから、必死に食らいつこうとしていた」
「1つ年下なんですから、私の方が出来て当然ですのに」
「関係ない。俺は、負けず嫌いなんだ」
「知っていますわ。おかげで、私も気を抜くことなく精進することができました」
「俺もだ。君には感謝している」
 
(私は、あなたのそういうところが……)
 
 つい流れで、おかしなことを口にしそうになった自分を戒める。
 
 シルヴァンは、欄干に肘をついて、どこか遠くを見た。

「ただ、昔から不思議だったんだ。隣の席で同じように本を読んでいる君を見ていると、知識で追いつけない焦りより、妙に落ち着いた気持ちになれた」
「……それは、どういう意味ですか」
「さてな。、よくわからなかった」

 彼の気持ちはわからない。
 でも、なんとなく共感できた。
 私も、彼といる時間が、とても好きだった。
 それは、彼と同じ理由ではなかったかもしれないけれど。

 私は――彼のことが、好きだった。ずっと前から。

 シルヴァンは、誰よりも努力をして、誰よりも自分に厳しく、それを誰にも誇らなかった。
 王族である自らの責務と向き合い、国のために日々成長することを怠らない。
 彼の在り方に、憧れた。

「シルヴァン殿下は、今も毎晩遅くまで政務の書類を読んでいると聞きましたわ。学園の勉強もありますのに」
「習慣だ。ここに来る前からやっている」
「誰かに言われたのですか?」
「いや。だがそれが俺の責務だ」
「……やっぱり、シルヴァン殿下は素晴らしい方ですわね」

 私が褒めても、シルヴァンはただ鼻を鳴らすだけだ。
 ただ、少し口元が緩んだ気がした。

 沈黙がしばらく続いた後、シルヴァンがゆっくりと私の方へ向き直る。
 いつもの無表情ではなく、どこか決意のある顔をしていた。

「リーゼロッテ」
「……なんですか」
「手を」

 唐突な言葉に、私は疑問を持ちながらも手を差し出してみる。
 彼が一歩、距離を詰めた。
 夜の闇の中でもわかるほど、その瞳には熱が宿っている。
 
「リーゼロッテ」
 
 もう一度、低い声で名前を呼ばれ、私は思わず息を呑んだ。
 彼は、私の前に片膝をつき、差し出した手を取る。
 
「あっ……」
 
 そして、私の指先へと、熱い唇が落とされた。
 触れられた場所から火がつくように熱くなり、頭の中が真っ白になった。
 
「ずっと、お前を諦めるつもりでいた。だが、チャンスが巡って来たんだ」
 
 唇を離した彼が、膝をついたまま私を見上げる。
 普段の冷静な彼とは違う、飢えたような、爛々とした瞳だった。
 
「昔から、お前が兄の隣で、笑みを浮かべるたびに……俺がどれほど狂いそうだったか、お前は知らないだろう」
「シルヴァン、殿下……」
「兄の婚約者という鎖がある限り、俺はお前に触れることすら許されない。だが、王宮でお前と過ごした穏やかな時間が、忘れられなかった」
 
 低く掠れた声が、夜風に溶ける。
 
「でも、本当はずっと……狂おしいほどにお前を思っていた。あの男から奪い去りたいと。お前のすべてが、欲しかった」
 
 心臓が、痛いほどに早鐘を打つ。
 世界の時間が完全に止まってしまったように感じた。
 
 シルヴァンはゆっくりと立ち上がり、手を握ったまま私の瞳を上から覗き込む。
 見ているだけで火傷してしまいそうな熱を孕む彼の瞳から、それでも私は目を逸らせない。
 
「リーゼロッテ。俺を選んでくれ」
 
 甘く、独占欲に満ちた囁きが耳元を打つ。
 これまで努めて演じてきた『悪役令嬢』の仮面が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
 三年間、誰にも見せなかった私の本音も、本当は不安だった心も、彼がすべて溶かしてしまった。
 
「……ずるいですわ」
 
 気づけば、私の瞳からぽろりと涙がこぼれていた。
 
「私だって……ずっと、あなただけを見ていたのに」
「リーゼロッテ……」
「クライン殿下の婚約者だからって、必死に気持ちに蓋をして……っ。あなたが図書館に来るのを、毎日、どれだけ楽しみに待っていたか」

 ひたむきで、不器用で、誰よりも真っ直ぐな彼が、ずっと好きだった。
 理屈じゃない。
 ただ、彼に惹かれていた。
 私が初めて見せた本音に、シルヴァンは小さく息を呑み、信じられないものを見るように目を瞠った。
 
「……知らなかった。そんな風に思ってくれていたのか」
「言ってませんもの!」
 
 涙声で言い返すと、彼はたまらないというように顔を歪め、ふっと柔らかく微笑んだ。
 彼の手が私の頬に触れ、親指でそっと涙を拭う。
 
「ありがとうリーゼロッテ。これからは、ありままのお前を俺に見せてくれ」
 
 もう、道化を演じる必要はない――。

 ◆

 それから一年が過ぎた。
 私は王宮の中庭にあるガゼボで、シルヴァンと向き合いながら紅茶を飲んでいる。
 シルヴァンも、少し前に学園を卒業して王宮に戻っていた。

「クライン殿下はどうなりましたの」
「ついに王位継承権を剥奪されたよ。今は王都から離れた領地で謹慎中だ」

 根拠のない断罪を公衆の面前で行い、公爵家の令嬢である私の名誉を貶めようとした事実は、いくらクラインが王子でも沙汰無にはできなかった。
 それでもクラインは第一王子だ。
 彼に与える罰には、王も頭を抱えていた。
 悩んだ末に与えたのが、以前から問題になっていた辺境領での不作問題の解決という厳しい公務。
 それでも、上手く問題を解決すれば、単なる禊でなく、国民から支持を得るきっかけにもなっただろう。
 だが、クラインは辺境での質素な暮らしに耐えられず、公務をほっぽりだして王宮に独断で帰ってくる強行に出た。
 結果として、父である国王は、長らく積み上げてきた息子への失望を、遂に清算したらしい。

「本人は今も、自分は正しいと思ってそうね」
「だろうな。兄はそういう人だ」

 シルヴァンが静かに言った。
 私もそう思う。

 ところで、エミリアについては、聞くところによれば、神殿付きの聖女として国に仕え頑張っているそうだ。
 彼女も王子の巻き添えで責任を問われた。
 しかし、彼女の聖女としての力は本物だから、国としては手放せない。
 結果、神殿の人間に常に監視されながら、聖女としての力を国のために振るい続けるだけの日々を送っているらしい。
 彼女は毎日神官たちの言われた通りに動き、何も考えず、ただ魔法を使っている。

(ある意味では、あの子にとって幸せなのかもしれないわね)

 自分の意思で何かを選ぶことが怖い人間には、人に言われた通りにするだけでいい場所が、かえって安心できるのかもしれない。
 私にはそういう生き方を選べないけれど、それを責める気にはなれなかった。

「生き方はそれぞれよね……」
「エミリアか?」
「ええ」
 
 何も言っていないのに、シルヴァンには何を考えていたのかバレバレだったらしい。
 そんなに顔に出ていただろうかと、自分の頬に触れると、彼は小さく笑った。
 なんだか恥ずかしくなって、私は目を逸らす。

 今の私は、シルヴァンの婚約者として王宮で政務に携わっている。
 もちろん、シルヴァンと一緒に。
 プライベートでも、政務でも、シルヴァンはとても頼りになる。

 そんな彼が隣にいてくれるから、私は余計な肩ひじを張らずに自然体でいられた。
 最近の私は、ようやく、ただのリーゼロッテとしてありのままに生きられている気がする。

 もう私は、高笑いをしなくなった。

(了)
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penpen
2026.04.19 penpen

(´0ノ`*)オーホッホッホ!!

解除

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