追放勇者ガイウス

兜坂嵐

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5章-戦乱の影

蝕む

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「さて、あの子にはしばらくこの国に帰らない方がいいと言ったけど」
 メルクリウスは大神官の務めを終え、自室にて瞑想していた。
 あの巡礼の少女が自分に淡い想いを抱いていることをこの青年は感じ取っていた。
 しかしこの身と立場は彼女の想いを汲むことが出来ない。

「あの子は時々僕の言う事を聞かないからな、お祈り程度にしかならないね」
 -否、大神官と言う立場だけならばいいのだ。問題は今の自分を蝕んでいる「それ」だ。
 「それ」の声は1年前は本当に、耳を研ぎ澄ましてようやっと聞き取れるほどの声だった。
 しかし、魔王軍残党の活動が再開してからシンクロするように声が大きくなってきた。
 勇者だったころに受けた魔王の悪あがき、そしてその日から植え付けられた「蝕み」。
 その蝕みは日に日に強まり、今では自分の意思で制御できないほどになっていた。

 -この蝕みが牙を剥く前に、自分はこの国を去らねばならない。
 しかしメルクリウスは優秀過ぎた、立ち去るにも。
 「貴方様がいなくなったらこの国は」と引き留められる。
 だから今日も自室で耐えるのだ。日に日に大きくなっていく「蝕み」の声に。
「あぁ僕。また吐いたんだね?だめじゃないか、大神官の召し物なのに」
 来た、メルクリウスは薔薇窓に背を向け目を逸らす。
 闇が人の形となってもうひとりのメルクリウスを象った。
 目鼻立ちも声のトーンも殆ど同じ、しかし違う。
 もう一人の彼は糸のように閉じた目を開けており、瞳の色も赤く染まっている。
 服や装飾品の白いラインはすべて黒く染まり、悪魔神官のような出で立ちだ。

「……ごめん」
「謝らなくていいさ。僕は君で君は僕だ、だからこれはお相子だよ」
 メルクリウスはもう一人の自分の声を聞くたびに、自分の中にもう一人自分がいる事を思い知らされる。
 そして、蝕みの強大さもだ。魔王の呪いは蝕み切ったものを魔族へ転じさせる。
 その者が持つ悪意や負の感情が強ければ強いほど、転じたものは強力になる。
「確かにね、僕は君で君は僕だ。でも君は僕を蝕み過ぎているよ」
「それは君が弱いからだよ。君の負の感情ではこの程度が限界だ」
 もう一人のメルクリウスはにたりと笑う。
 その笑みはまさに悪魔神官というべき、悪意の塊だった。
 メルクリウスはその悪意を直視できない、それでももう一人の自分は口を開いた。

「なかよくしようよ。僕は君と1つになれる日が待ち遠しいよ」
「僕はそれが怖いよ。君は僕を支配して、僕が君になるんだ」
 メルクリウスは恐怖する、蝕みの衝動が強まっていく。
 このままだと自分が自分でなくなってしまう。
 もう一人の自分は物理法則を無視するように天井からぶら下がって。
 上下逆さのままメルクリウスのすぐ隣まで顔を持って行った。

「それに君、腹黒って聖教内でも有名だろ?腹黒男は嫌われるよ」
「確かに君の心は真っ黒だけど、僕はそんな自分を肯定しているよ」
「なら問題ないね。今日もよろしくね『僕』」
 もう一人のメルクリウスは逆さまのままメルクリウスの唇を貪る。
 舌を絡めて唾液を交換すると、もう一人のメルクリウスは満足したかのように顔を離す。
 その顔を見てしまうと余計に蝕みが強まるため、メルクリウスは目を閉じて顔を背けた。

 -あぁ神様、どうか僕がこれ以上の罪を犯してしまう前に僕をお救いください。
 メルクリウスは自分の中にあるもう1つの自分が、満足そうに闇の中に戻っていくのを感じ取る。
 願わくば、その悪意が自分を超えてこの国を支配しないようにと祈りながら。
「あ、また吐いたね?だめじゃないか、大神官の召し物が汚れてしまうよ」
 今日も今日とて自室で瞑想するメルクリウスは、薔薇窓に向かって嘔吐した。
 ただの嘔吐ではない、吐きだすそれは驚くほどに黒く、そして粘り気があった。

「魔王軍残党も中々堕ちない君へ苛立っていると思うよ」
「はぁー……はぁー……」
 -蝕みが強まる、日に日に強まる。
 メルクリウスは自分が自分であるうちにこの王国を去ろうと決めた。
 しかし大神官と言う立場上それは叶わない、ならばせめてとメルクリウスは自室で瞑想する。
 蝕むものを抑え込むために祈るのだ、その願いが神に届いたのだろうか。
 メルクリウスは日に日に「蝕み」を抑えられるようになり。
 自室以外では何事もなく振舞えるようになった。
 しかし、蝕みが弱まった分メルクリウスの心に余裕が生まれてしまった。

 -僕は僕でいたい、僕が僕であるうちにこの王国を去りたい。
 そんな想いが強まり、却ってもう一人の自分をより強固にしてしまう。
「よく耐えるているね。偉いよ、とても高潔だ、だからもっと、もぉっと『蝕み』を君に与えよう」
「あぁ……僕……」
 闇が人の形となってもうひとりのメルクリウスを象った。
 瞳の色が赤く染まり、瞳の色は赤く染まり、悪意を湛えた笑みを浮かべている。
 あれは幻などではない、未来の自分だ。蝕みに心まで蝕まれてしまった未来の自分の姿。
「残念だけど。僕は君がいくら堪えようと消えたりしないよ、僕は君の中の悪意。
 君の中に確かに存在するものだからさ、ただルナの野郎の影響で「視える」様になっただけ」
「僕は君を蝕み続ける。僕の中の君としてね、君が壊れて何もわからなくなっても、ずっと君の中に居るよ」
 メルクリウスにはもうそれを咎める気力すらない。
 ただ心のどこかでもう一人の自分に縋る自分がいるのが悔しかった。

「よく耐えているね。偉いよ、とても高潔だ、だからもっと、もぉっと『蝕み』を君に与えよう」
 闇が人の形となってもうひとりのメルクリウスを象った。
 瞳の色が赤く染まり、悪意を湛えた笑みを浮かべている。
 あれは幻などではない、未来の自分だ。蝕みに心まで蝕まれてしまった未来の自分の姿。

「さぁ今日も、愉しもうか」
 -やめろ、僕は僕を蝕みたくない!
 メルクリウスの悲痛な叫びは闇へ吸い込まれて消えた。

-------

 そして聖教で最も大事な日のひとつ-聖夜祭が近づく教会では今日も。
 お喋り好きな修道士たちが言葉を交わしていた。
「ねぇ、メルクリウス大神官って……ドSよね?」
「あなた。サディスティックなひと好きなの?根拠は」
「え。だってこないだ、免罪符を売ってた修道士を咎めたとき……」
 曰く、免罪符を販売し小銭稼ぎしていた修道士を咎められていたそうだ。
 それ自体は大神官として当然の務め、だが「あの人はドSだ」と確信を以て言えるのは次の行動だ。
 メルクリウスは「お仕置きが要るようだね」と言うや。
 修道士をその場で座らせると帽子を剥ぎ取り、そのまま頭を踏みつけた。
 そしてメルクリウスは「これは君への罰だ」と言ったのだ。

「それは……確かにドSね……」
「でしょう?でも私思うのよ。あの大神官様って絶対サディスティックなんじゃないかって」
「どうしてそう思うのよ?」
「だって、ほら魔王軍残党の事とかあるし……それに最近お祈りの時間が長くなったって……」
「確かに。大神官様、最近お祈りの時間が長くなったわね……でもそれは魔王軍残党が活発だからでしょう?」
「でも、ほら。メルクリウス大神官は聖教内でも有名な腹黒よ?
 もしかしたら魔王軍の活動にかこつけて、何か良からぬ事を企んでいるかもしれないわ」
「まさか!そんな訳ないじゃない!」
 -そう、あり得ない。
 この教会に居る修道士たちは皆、大神官メルクリウスを信頼している。
 魔王軍残党の活動が活発になっているのは事実だが、それはこの教会に限った話ではない。
 だから、そんな筈はないのだ。あのメルクリウスが聖教を脅かす悪魔となるなど。

「ほら貴方たち。あんまりダラダラ話してると大神官様におしおきされるわよ?」
「うわぁ……私あの修道士みたいにマットにされたくなーい」
「私だって嫌だわ……せめて優しく踏んで欲しい」
 教会を立ち去る修道士たちは知らなかった。
 -今し方出た聖教内で噂になっていた腹黒大神官が、もうすでに。

「ほら。今夜にでもレオノーレはきっと電話を寄越すよ?そして言うんだ。戻っておいでって」
「断る……大方、褒美とでも言ってあの子を貪る気だろう」
「そうだよ?だって僕魔族だもん、人間なんてどうにでもできるよ」
「貴様……っ!」
「まぁまぁ。そうカッカしないでさ、僕は君で君は僕だって事忘れないでよ?」
 メルクリウスは自室のベッドへ腰かけながら。
 もうすでにほぼ実体となったもう一人の自分へ言う。
 -このメルクリウスは、蝕みの衝動に負けた自分だ。
 日に日に強まる「蝕み」を抑えられなくなり。
 ついにもう一人の自分が実体を持ってしまった。

「でもさ。僕は君なんだよ?君がしたいことをして何が悪いの?」
「ふざけるな!あの子を……レオノーレを貴様のような下衆の慰みものになどするものか!」
「じゃあ君のしたいことは何?魔王軍残党討伐を続けて。
 レオノーレは僕が守ってやればいいなんて言わないよね?」
「黙れ!貴様のような汚らわしい魔族に指一本触れさせん!」
 メルクリウスはベッドに腰かける自分を殴り倒す。
 もう一人の自分は床へ転がったが、直ぐに立ち上がってやれやれと言った顔をした。
 -その余裕もいつまで続くかな。

「大神官様!」
「……なんだい、今瞑想中だよ」
「レオノーレからです。お取込み中のようですので、子機だけお渡ししますね」
「あぁ……うん。わかったよ」
 メルクリウスは子機を受け取り、応答する。
 いつも平坦なトーンである少女の声が心なしか明るかった。
 アルキード王国を覆う暗雲-ウラヌスを勇者の弟との共闘で討てたという喜びからだろう。

『大神官様!まだお時間はありますか!?』
「そうだね。少しくらいは話せるよ」
 メルクリウスは自室に鍵をかけると、ベッドに腰かける自分へ目配せした。
 もう一人の自分は一瞬だけ動きを止め、そしてニタリと笑った。
 一方レオノーレの方はと言えば、通話器の向こうから聞こえる声に首を傾げた。
 風邪だろうか?いつも澄み渡った清水のように穏やかな声が、今は若干かすれている。

「あの……大神官様?」
『どうしたんだいレオノーレ』
「いえ、その。お声……風邪ですか?」
『……うん、体調が悪くてね』
 もう一人の自分が顎を肩に乗せ子機をじっと見つめている。
 自分が少しでも目を離せばこの狡猾な悪魔はすぐにでもこう喋るだろう。
 -国の暗雲は晴れたんだろう?戻っておいで、そして僕と一緒に愉しもう。

「巡礼も終わらせ、ウラヌスも討ち。私がこの国に留まる理由はなくなりました」
『そうだろうレオノーレ?聖王国へ戻っておいでよ』
「……私はこの国が好きです」
『え?』
 もう一人のメルクリウスは貪りたいという気持ちを抑えられないように唇を舐めていたが。
 彼女が承諾しなかったという、予想だにせぬ返答へきょとんとしてしまう。
 そして彼から奪い取るように子機をメルクリウスが奪って続ける。
『そうだね。巡礼は急いで行うものではない。
 アルキード王国には勇者の記録が多く残っているから、弟君と一緒にゆっくり見て回ると良い』
「大神官様?何か、声が……風邪だからですか?」
『そうだとも。でも大丈夫だよ、少し寝れば治るからね』

 -やめろ、お前はレオノーレの声を聞いていたくないのか!
 -望んでいるんだろう、男として!あの少女を貪りたいと!

 メルクリウスは強引に内なる声を抑え込むように、受話器を乱暴に置いた。
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