全部、俺のものになるまで 【R18】【完結】

日下奈緒

文字の大きさ
4 / 19
【2】恋人のふりは、ベッドの上で破られる

しおりを挟む
私、**月島 瑠奈(つきしま るな)**は、ここ最近ずっと怯えている。

会社の帰り道、背後に感じる視線。

エレベーターで降りたあとも、足音がついてくる気がする。

自宅のカーテンを開けるのも、怖くなった。

窓の外に、誰かが立っているような気さえするのだ。

「……また今日も、誰かが……」

そんな不安をかき消すようにシャワーを浴びて、何もなかったように出勤する。

でも、体はどんどん削られていった。

ある日、フロアで資料を並べていたときのことだった。

「……顔色が悪いぞ。」

ふとした瞬間、背後から声をかけられる。

振り返ると、相馬課長が眉をひそめて私を見ていた。

「無理してないか? 相談なら乗るよ。」

その真っ直ぐな眼差しに、一瞬だけ胸が温かくなる。

──でも。

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。」

私は首を横に振って、笑顔を作った。

まさか、上司に「ストーカー被害に遭ってる」なんて言えるはずがない。

きっと、「気のせいじゃないか」と言われて終わる。

警察に行っても証拠がなければ何もしてもらえないのに、社内の人間に話して何になるというのだろう。

だから私は、また今日も黙って笑う。

怖さを押し殺して、何事もないように。

そして、その“事件”は突然起きた。

昼休み、ひとりで外へ出て軽く昼食を済ませ、ビルに戻ってきたときのことだった。

廊下を歩いていると、背後で足音が響く。

コツ、コツ、と規則正しく──でも、どこか不気味な音。

まさか……ね。

自分に言い聞かせるように歩くスピードを速めた。

でも、その足音もぴたりと私のペースに合わせてついてくる。

まるで、背中に貼りついてくるような気配。

「……瑠奈ちゃん、やっと会えたね」

「えっ……?」

背筋が凍った。

振り返ると、そこにいたのは──

何度も感じた“あの視線”とまったく同じ、男の顔だった。

「探したよ、俺の天使。」

笑っているのに、目が笑っていない。

狂気すら感じるその視線に、体がすくむ。

次の瞬間──男の手が、私の腕をぐっと掴んだ。

「や、やめてくださいっ!」

「誰も来ないよ。こんな時間に、人なんて通らないから。」

力が強くて、振りほどけない。

声を上げようにも、喉が凍りついて声が出ない。

──誰か、助けて。

必死に願った、そのとき。

「……離れろ。」

低く鋭い声が、廊下に響いた。

振り返ると、そこには――相馬課長がいた。

「……なんだ、お前?」

ストーカーの男が、鋭く声を荒げる。

「その子の上司だ。」

相馬課長の声は静かで低い。けれど、その圧には揺るぎがない。

だが──ストーカーは一歩も引かない。

「悪いね。これから瑠奈ちゃんと、お話するんだ。」

「だったら、無理やりじゃなくてもいいだろう。」

課長の言葉に、男の手がわずかに緩む。

「……そっか。ごめんね、瑠奈ちゃん。」

男はそう言って、ようやく私の腕を放した。

でも、その視線はまだおかしかった。

私は思わず後ずさる。

「なに? 怖いの? 俺が?」

狂気すらにじむ声。

鳥肌が止まらない。

逃げ出したいのに、足が動かない。

──その瞬間だった。

「……もう十分だ」

相馬課長が素早く間に入り、男の腕をぐっと掴んだ。

「なっ……!」

「あとは俺が対応する。社の警備にも、警察にも連絡する」

強い口調に、男は抵抗しようとしたが──

課長は一切の隙を与えず、静かに男を連れて廊下の奥へと消えていった。

ただ見送るしかなかった私は、その場にしゃがみ込んだ。

息が止まっていたことに、ようやく気づいた。

助かったんだ。

……課長に、助けてもらった。

相馬課長が、廊下の奥から戻ってきた。

その姿を見た瞬間、張りつめていたものがふっと緩んで、私はようやく息をついた。

「ありがとうございます……」

深く頭を下げる。震える声で、それだけを伝えた。

課長は溜め息まじりに肩をすくめて言った。

「やれやれ。綺麗な子っていうのは、厄介だな。」

「……えっ?」

綺麗な子? それって……私のこと?

心臓が一瞬だけ、跳ねる。

「君、彼氏は?」

「……いえ、いません。」

本当に、ずっといなかった。

「だからストーカーも調子に乗るんだ。」

そんな風に言われても、いないものはいない。

困ったように口を噤んでいると──

「どうだ? 俺が……恋人のふりをしてやろうか。」

さらりと投げかけられた言葉に、思考が止まる。

え? 今、なんて?

一瞬だけ、迷った。

でも、あの怖さをもう一度味わうくらいなら。

「……はい。お願いします」

そう答えたとき、自分でも気づいていた。

これは“ふり”のはずなのに──

胸の奥が、ほんの少しだけ、熱を持っていた。

相馬課長は、35歳。私より8歳年上。

社内では冷静沈着で、誰からも頼られる上司だ。

だからこそ、私もあの事件のあと……少しずつ、安心できるようになっていた。

「これ、お礼にどうかな……」

感謝の気持ちを込めて、手作りのクッキーを作った。

もちろん、恋人じゃない。“ふり”の関係。

でも、何か渡したくなった。それだけ。

渡すタイミングを見計らっていたそのとき、課長が廊下に出ていくのが見えた。

チャンスだ、と思って駆け寄ろうとした──その瞬間。

「相馬課長。」

先に声をかけたのは、社内でも評判の美人社員だった。

彼女は、私とは違って自信に満ちた笑顔で課長に話しかける。

課長も、ごく自然に応じていた。

笑顔。楽しそうな会話。距離の近さ。

……ああ、そうか。

課長は、誰にでも優しいんだ。

私にだけ特別だったわけじゃない。

胸がチクリと痛んだ。

それが何の感情なのか、わかりたくなかった。

私は黙って、クッキーの袋を課長のデスクの上に置いた。

名前も、メモも、何も添えなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

婚約解消されたら隣にいた男に攫われて、強請るまで抱かれたんですけど?〜暴君の暴君が暴君過ぎた話〜

紬あおい
恋愛
婚約解消された瞬間「俺が貰う」と連れ去られ、もっとしてと強請るまで抱き潰されたお話。 連れ去った強引な男は、実は一途で高貴な人だった。

【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております

紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。 二年後にはリリスと交代しなければならない。 そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。 普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…

【完結】 初恋を終わらせたら、何故か攫われて溺愛されました

紬あおい
恋愛
姉の恋人に片思いをして10年目。 突然の婚約発表で、自分だけが知らなかった事実を突き付けられたサラーシュ。 悲しむ間もなく攫われて、溺愛されるお話。

歳の差を気にして去ろうとした私は夫の本気を思い知らされる

紬あおい
恋愛
政略結婚の私達は、白い結婚から離縁に至ると思っていた。 しかし、そんな私にお怒りモードの歳下の夫は、本気で私を籠絡する。

【完結】 女に弄ばれた夫が妻を溺愛するまで

紬あおい
恋愛
亡き兄の恋人を愛し、二年後に側室に迎えようと政略結婚をした男。 それを知りつつ夫を愛し、捨てられないように公爵夫人の地位を確立しようと執務に励む女。 そんな二人が心を通わせるまでのお話。

【短編集】 白い結婚でしたよね? 〜人見知りな夫の過剰な愛〜

紬あおい
恋愛
「君とは白い結婚で、期間は二年だ。その後は俺の意思に従ってもらう。」 そう言ったのはあなたなのに。 その理由がまさかの◯◯◯◯って!? おかしな夫に振り回される妻のお話です。 短編として掲載したもの三話をまとめています。

年下夫の嘘と執着

紬あおい
恋愛
夫が十二歳の時に白い結婚をした。 それから五年、家族として穏やかに暮らしてきたが、夫に起こったある事件で、一人の男性としての夫への愛を自覚し、妻は家を出る。 妻に捨てられたと悲観した夫は毒薬を飲み、この世を去ろうとした。

【完結】 君を愛せないと言われたので「あーそーですか」とやり過ごしてみたら執着されたんですが!?

紬あおい
恋愛
誰が見ても家格の釣り合わない婚約者同士。 「君を愛せない」と宣言されたので、適当に「あーそーですか」とやり過ごしてみたら…? 眉目秀麗な筈のレリウスが、実は執着溺愛男子で、あまりのギャップに気持ちが追い付かない平凡なリリンス。 そんな2人が心を通わせ、無事に結婚出来るのか?

処理中です...