18 / 50
4、聖女
③
しおりを挟む
元公爵令嬢の私に、家事はさせられないと、グレイブは通いのお手伝いを雇っていた。
隣に住むミーシャさんだ。
ある日、ミーシャさんの視線が、私の手にじっと注がれていることに気づいたのは、水汲みをしようとした時だった。
バケツに手をかけようとした私に、冷たい声が飛んでくる。
「その手で、水なんて汲まないでください。」
驚いて振り向くと、ミーシャさんが鋭い目をして私を見ていた。
戸惑いながらも手を引っ込めると、彼女はわざとらしく笑う。
「水仕事もしたことないような、真っ白な手。ああ、嫌だわ。」
その言葉は、鋭く胸に突き刺さる。
彼女の視線は私の指先をなぞるように追い、そこにある“貴族”の証を責めているようだった。
「いいわね、お嬢様は。どうやってグレイブを口説いたの? まさか、泣いてすがっただけ?」
心に刺さるような皮肉に、私は言葉を失った。
グレイブの隣に住むミーシャさんが、彼のことを好きだったなんて……今まで気づかなかった。
けれど、彼女の苦しみも、怒りも、少しだけ分かる気がする。
きっと彼のそばにいられると信じていたのに、突然、元公爵令嬢である私が現れて、彼の心を奪ってしまった。
でも――
「……口説いたわけじゃないわ。ただ、私が泣いていた時に、グレイブがそばにいてくれただけ。」
正直にそう答えた。
それが彼との始まりだった。
見栄も計算もない、本当にただ、泣いていただけの私を抱きしめてくれた、あの夜。
「あなたがどれだけグレイブを想っていたかは知らない。でも、私も……彼を失いたくなかった。それだけよ。」
ミーシャさんは黙っていた。
その瞳には、怒りとも、悔しさともつかない、複雑な光が宿っていた。
――私はまた誰かを傷つけてしまったのだろうか。
そう思うと、心が少しだけ痛んだ。
けれど、譲れないものが、私にもある。
たとえどれだけ恨まれても、私は彼を選んだ。
そして、彼に選ばれた――それだけは、誰にも否定させたくなかった。
グレイブが鍛錬を終えて帰ってくる夕暮れ時――
いつもその時間になると、私の胸は少しだけ高鳴る。
泥と汗のにおいを纏って現れる彼は、それでも私には誰より頼もしく見えて、扉を開けた瞬間、思わず笑みがこぼれる。
「ただいま」
その一言のあと、グレイブは必ず私を強く抱きしめてくれる。
「アーリンの顔を見ると、どうしても我慢できないんだ」
そう囁かれた瞬間、頬が熱くなる。
だが――
その時、必ず感じるもうひとつの視線。
ミーシャさんが、私たちをじっと見ている。
音もなく、表情もなく、けれど確かに、冷たい感情を滲ませた瞳で。
グレイブもそれに気づいている。
「こればっかりは、すまないな。ミーシャ」
気まずそうにそう言う彼の背中越しに、ミーシャさんの目が一層鋭くなった。
彼女は分かっているのだ。
いつか私とグレイブが、正式に夫婦になることを。
止めようのない流れだと。
それでも――気持ちは、止められないのだろう。
隣に住むミーシャさんだ。
ある日、ミーシャさんの視線が、私の手にじっと注がれていることに気づいたのは、水汲みをしようとした時だった。
バケツに手をかけようとした私に、冷たい声が飛んでくる。
「その手で、水なんて汲まないでください。」
驚いて振り向くと、ミーシャさんが鋭い目をして私を見ていた。
戸惑いながらも手を引っ込めると、彼女はわざとらしく笑う。
「水仕事もしたことないような、真っ白な手。ああ、嫌だわ。」
その言葉は、鋭く胸に突き刺さる。
彼女の視線は私の指先をなぞるように追い、そこにある“貴族”の証を責めているようだった。
「いいわね、お嬢様は。どうやってグレイブを口説いたの? まさか、泣いてすがっただけ?」
心に刺さるような皮肉に、私は言葉を失った。
グレイブの隣に住むミーシャさんが、彼のことを好きだったなんて……今まで気づかなかった。
けれど、彼女の苦しみも、怒りも、少しだけ分かる気がする。
きっと彼のそばにいられると信じていたのに、突然、元公爵令嬢である私が現れて、彼の心を奪ってしまった。
でも――
「……口説いたわけじゃないわ。ただ、私が泣いていた時に、グレイブがそばにいてくれただけ。」
正直にそう答えた。
それが彼との始まりだった。
見栄も計算もない、本当にただ、泣いていただけの私を抱きしめてくれた、あの夜。
「あなたがどれだけグレイブを想っていたかは知らない。でも、私も……彼を失いたくなかった。それだけよ。」
ミーシャさんは黙っていた。
その瞳には、怒りとも、悔しさともつかない、複雑な光が宿っていた。
――私はまた誰かを傷つけてしまったのだろうか。
そう思うと、心が少しだけ痛んだ。
けれど、譲れないものが、私にもある。
たとえどれだけ恨まれても、私は彼を選んだ。
そして、彼に選ばれた――それだけは、誰にも否定させたくなかった。
グレイブが鍛錬を終えて帰ってくる夕暮れ時――
いつもその時間になると、私の胸は少しだけ高鳴る。
泥と汗のにおいを纏って現れる彼は、それでも私には誰より頼もしく見えて、扉を開けた瞬間、思わず笑みがこぼれる。
「ただいま」
その一言のあと、グレイブは必ず私を強く抱きしめてくれる。
「アーリンの顔を見ると、どうしても我慢できないんだ」
そう囁かれた瞬間、頬が熱くなる。
だが――
その時、必ず感じるもうひとつの視線。
ミーシャさんが、私たちをじっと見ている。
音もなく、表情もなく、けれど確かに、冷たい感情を滲ませた瞳で。
グレイブもそれに気づいている。
「こればっかりは、すまないな。ミーシャ」
気まずそうにそう言う彼の背中越しに、ミーシャさんの目が一層鋭くなった。
彼女は分かっているのだ。
いつか私とグレイブが、正式に夫婦になることを。
止めようのない流れだと。
それでも――気持ちは、止められないのだろう。
701
あなたにおすすめの小説
殿下、もう何もかも手遅れです
魚谷
恋愛
偉大なる国王が崩御した。
葬儀の場で、王太子アドルフォスは、父王が病床にいるのを良いことに国を思うがままにしようとする、婚約者である公爵令嬢ロザリンデと、その父である宰相を断罪しようと決意する。
全ては自分が次の王に相応しいことを、その場にいる全ての貴族たちに示すため。
アドルフォスは自分の勝利を信じて疑わなかった。
自分には、麗しい子爵令嬢で、数百年に一度生まれる聖女の力に覚醒したエレインという心強い味方がいるのだから。
勝利は揺るぎないはずだった……そう、アドルフォスの頭の中では。
これはひとつの国の終わりの物語。
★他のサイトにも掲載しております
★13000字程度でサクッとお読み頂けます
[完結]だってあなたが望んだことでしょう?
青空一夏
恋愛
マールバラ王国には王家の血をひくオルグレーン公爵家の二人の姉妹がいる。幼いころから、妹マデリーンは姉アンジェリーナのドレスにわざとジュースをこぼして汚したり、意地悪をされたと嘘をついて両親に小言を言わせて楽しんでいた。
アンジェリーナの生真面目な性格をけなし、勤勉で努力家な姉を本の虫とからかう。妹は金髪碧眼の愛らしい容姿。天使のような無邪気な微笑みで親を味方につけるのが得意だった。姉は栗色の髪と緑の瞳で一見すると妹よりは派手ではないが清楚で繊細な美しさをもち、知性あふれる美貌だ。
やがて、マールバラ王国の王太子妃に二人が候補にあがり、天使のような愛らしい自分がふさわしいと、妹は自分がなると主張。しかし、膨大な王太子妃教育に我慢ができず、姉に代わってと頼むのだがーー
婚約破棄されたので、戻らない選択をしました
ふわふわ
恋愛
王太子アルトゥールの婚約者として生きてきた
貴族令嬢ミディア・バイエルン。
だが、偽りの聖女シエナに心を奪われた王太子から、
彼女は一方的に婚約を破棄される。
「戻る場所は、もうありませんわ」
そう告げて向かった先は、
王都から遠く離れたアルツハイム辺境伯領。
権力も、評価も、比較もない土地で、
ミディアは“誰かに選ばれる人生”を静かに手放していく。
指示しない。
介入しない。
評価しない。
それでも、人は動き、街は回り、
日常は確かに続いていく。
一方、王都では――
彼女を失った王太子と王政が、
少しずつ立ち行かなくなっていき……?
派手な復讐も、涙の和解もない。
あるのは、「戻らない」という選択と、
終わらせない日常だけ。
白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』
鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」
公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。
だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。
――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの?
何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。
しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。
それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。
そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。
温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。
そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。
「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」
「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」
離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。
そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。
『悪役令嬢は、二度目の人生で無言を貫く。~処刑回避のために黙っていただけなのに、なぜか冷徹宰相様から「君こそ運命の人だ」と溺愛さています~』
放浪人
恋愛
「もう、余計なことは喋りません(処刑されたくないので!)」
王太子の婚約者エリスは、無実の罪を着せられた際、必死に弁解しようと叫び散らした結果「見苦しい」と断罪され、処刑されてしまった。 死に戻った彼女は悟る。「口は災いの元。二度目の人生は、何があっても口を閉ざして生き延びよう」と。
しかし、断罪の場で恐怖のあまり沈黙を貫いた結果、その姿は「弁解せず耐え忍ぶ高潔な令嬢」として称賛されてしまう。 さらに、人間嫌いの冷徹宰相クラウスに「私の静寂を理解する唯一の女性」と盛大な勘違いをされ、求婚されてしまい……!?
「君の沈黙は、愛の肯定だね?」(違います、怖くて固まっているだけです!) 「この国の危機を、一目で見抜くとは」(ただ臭かったから鼻を押さえただけです!)
怯えて黙っているだけの元悪役令嬢と、彼女の沈黙を「深遠な知性」と解釈して溺愛する最強宰相。 転生ヒロインの妨害も、隣国の陰謀も、全て「無言」で解決(?)していく、すれ違いロマンティック・コメディ! 最後はちゃんと言葉で愛を伝えて、最高のハッピーエンドを迎えます。
神託の聖女様~偽義妹を置き去りにすることにしました
青の雀
恋愛
半年前に両親を亡くした公爵令嬢のバレンシアは、相続権を王位から認められ、晴れて公爵位を叙勲されることになった。
それから半年後、突如現れた義妹と称する女に王太子殿下との婚約まで奪われることになったため、怒りに任せて家出をするはずが、公爵家の使用人もろとも家を出ることに……。
婚約破棄されましたが、私はもう必要ありませんので
ふわふわ
恋愛
「婚約破棄?
……そうですか。では、私の役目は終わりですね」
王太子ロイド・ヴァルシュタインの婚約者として、
国と王宮を“滞りなく回す存在”であり続けてきた令嬢
マルグリット・フォン・ルーヴェン。
感情を表に出さず、
功績を誇らず、
ただ淡々と、最善だけを積み重ねてきた彼女に突きつけられたのは――
偽りの奇跡を振りかざす“聖女”による、突然の婚約破棄だった。
だが、マルグリットは嘆かない。
怒りもしない。
復讐すら、望まない。
彼女が選んだのは、
すべてを「仕組み」と「基準」に引き渡し、静かに前線から降りること。
彼女がいなくなっても、領地は回る。
判断は滞らず、人々は困らない。
それこそが、彼女が築いた“完成形”だった。
一方で、
彼女を切り捨てた王太子と偽聖女は、
「彼女がいない世界」で初めて、自分たちの無力さと向き合うことになる。
――必要とされない価値。
――前に出ない強さ。
――名前を呼ばれない完成。
これは、
騒がず、縋らず、静かに去った令嬢が、
最後にすべてを置き去りにして手に入れる“自由”の物語。
ざまぁは静かに、
恋は後半に、
そして物語は、凛と終わる。
アルファポリス女子読者向け
「大人の婚約破棄ざまぁ恋愛」、ここに完結。
処刑前夜に逃亡した悪役令嬢、五年後に氷の公爵様に捕まる〜冷徹旦那様が溺愛パパに豹変しましたが私の抱いている赤ちゃん実は人生2周目です〜
放浪人
恋愛
「処刑されるなんて真っ平ごめんです!」 無実の罪で投獄された悪役令嬢レティシア(中身は元社畜のアラサー日本人)は、処刑前夜、お腹の子供と共に脱獄し、辺境の田舎村へ逃亡した。 それから五年。薬師として穏やかに暮らしていた彼女のもとに、かつて自分を冷遇し、処刑を命じた夫――「氷の公爵」アレクセイが現れる。 殺される!と震えるレティシアだったが、再会した彼は地面に頭を擦り付け、まさかの溺愛キャラに豹変していて!?
「愛しているレティシア! 二度と離さない!」 「(顔が怖いです公爵様……!)」
不器用すぎて顔が怖い旦那様の暴走する溺愛。 そして、二人の息子であるシオン(1歳)は、実は前世で魔王を倒した「英雄」の生まれ変わりだった! 「パパとママは僕が守る(物理)」 最強の赤ちゃんが裏で暗躍し、聖女(自称)の陰謀も、帝国の侵略も、古代兵器も、ガラガラ一振りで粉砕していく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる