金懐花を竜に

nwn

文字の大きさ
上 下
22 / 34
第5章

4

しおりを挟む
 妹が生まれるまで、いや、生まれてからも、ジーグエは孤独だった。
 両親が立ち上げた運輸ギルドはまさに発展途上で、毎日新しい問題が降りかかってはその解決に奔走していた。そんななか生まれたジーグエは、生活のほとんどを他人の大人と過ごした。シッターに起こされ、家庭教師に勉学を教わり、ギルドの抱える竜務員の後について世話を学ぶ。大人たちは皆やさしかったけれど、同じ歳の子どもと接する機会はほとんどなかった。
 両親はジーグエの欲しいものは何でも買い与えてくれた。どんなに高価な書籍でも、遥か異国の毛織物でも、十歩持ち歩いたら割れて崩れてしまいそうなガラス細工でも、同じ年ごろの友達も。
「マシェともうします。よろしくおねがいします」
 そのころはまだ、雲民を雇っていた。たくさん雇用していた彼らの家族に、ちょうど『友達』にふさわしい子がいたらしい。自分たちを引き合わせようとする企みが、ジーグエの両親やその周囲から出たものなのか、それとも彼女の両親やその周囲から出たものなのか、いまとなってはもうわからない。
 残っているのは、その友情が打算によるものだったことに、ジーグエが最後まで気づかなかったという事実だけだ。
 マシェと会えるのは、ジーグエの家庭学習の終わる、陽が西に傾き始めた午後が多かった。マシェはいつも、せっけんの匂いのする服を着ていた。ざっくり織られた硬い感触の平服は、木の幹や葉脈を思わせて、なんだか大人っぽくてかっこよかった。そう褒めるといつもどこかおどおどしていた彼女ははじめて笑い、「ジーグエ様のお洋服だって素敵です」とはにかんでくれた。
 ふたりはもっぱら、ジーグエの部屋で遊んだ。午前中は雲民学校に通っているという彼女は読み書きが得意で、ジーグエの持つ重たい本にたいそう興味を示した。二人ともまだ十歳で、専門的な用語はわからないながら、異国の珍しい植物や動物を集めた図鑑なんかをめくっては、挿絵を見ながらあれこれと想像するのが好きだった。
 とくに、外国の竜を集めた図鑑は彼女のお気に入りで、何度も何度も二人でめくった。この竜はどんな声で鳴くのかな。翼を広げたらそのくらい大きいんだろう。そんなことを話し合っていると、時間はあっという間に過ぎていった。
「また明日ね、ジーク」
 少し背の高い影に手を引かれ、小さく手を振り出て行く姿を覚えている。たった一晩の別れがこんなにもさみしくなることを、ジーグエははじめて知った。両親が何か月出張に出ようと一度も泣いたことなどなかったのに、なかなか明けない夜空を見上げて、ため息をつく日も増えた。
 人と交わることの喜びを、教えてくれた人だった。かけがえのない、たったひとりの友達だった。
 あれは何の話をしていたときだったか。マシェが、珍しく自分の家族について話してくれたことがあった。気弱なお父さんに、豪快なお母さん。針仕事が得意なおじいさんに、やんちゃで生意気盛りな弟と妹たち。その日はちょうど彼女の誕生日で、だからきっと両親が、とっておきの夕食を用意してくれるのだと彼女は興奮気味に語っていた。おじいさんはきっと端切れに素敵な刺繍を入れてくれて、きょうだいたちだってこの日ばかりは、好物を譲ってくれるかもしれない。これから始まる自分が主役の宴に目を輝かせ、その日は手も振らず、ほとんど駆け足で帰っていった。
 もちろん、誕生日はそういうものだ。ジーグエだって、年に一度の誕生日は毎年指折り数えて待っている。両親は必ず帰ってきてくれるし、宴に間に合わないときもあるけれど、眠っている息子の頬にちょんと口づけをして、翌朝にはたくさんのきらびやかな贈り物が待っている。誰にでも与えられた、幸せの権利。
 お夕飯の支度が整いました。頭を下げるメイドをドアの向こうに押しやって、ジーグエはさっきまで二人でいた自室を見回した。十歳の子どもにとって広い部屋は、どれだけ本を開いていてもどこか寒々しい。西日が赤黒い影を引き入れていた。住処に帰る竜たちの、群れを呼ぶ声が遠く聞こえ、からっぽの部屋に響く。
 マシェを、はじめての友達を、繋ぎとめておきたかった。だから、彼女をあの場所に連れて行ったのだ。家族以外、決して見せてはいけないと言われていたあの場所に。
 月の光のもとで、ひしめき合うように咲き乱れる金懐花を背に、ジーグエは両手を広げた。
「見て! こうやっていっぱい金懐花を育ててるんだ。これだけあれば、世界中の竜と友達になれるよ」
 彼女は喜ばなかった。それどころか目を見開き、唇を青くして震えていた。
『誰もいれてはならない』と言いつけられていたから、幼い悪知恵を働かせて、こっそり夜に忍び込んだ。月光に照らされた金懐花は、まるで本物の金のようにきれいに光る。彼女はきっと喜ぶと思った。
 マシェの手からランプが落ちる。薄いガラスが割れ、火が流れ出す。その鮮やかさに焦っていたから、彼女が何を言っていたのか思い出せない。ひどい、とか、こんなことするとは思わなかったとか、とにかく動揺していたことだけは覚えている。
 金懐花の真実を知ったいまなら、彼女がどう思ったのか、何となくわかる。『ニセモノ』で埋め尽くされた光景を見て、『本物』を奪われた側の彼女が何を思ったのか。
 でもこのとき、十歳のジーグエには、何がいけなかったのかわからなかった。
 彼女に自分の好みを押し付けたことだろうか。彼女のことを知ろうとしなかったことだろうか。
 それとも、友達を欲したことだろうか。彼女と自分の立場のちがいも、ひと言の重みや願いの強さの勾配も、一度だって知ろうとせずに、彼女と友達になりたいと、願ったことだろうか。
 風の強い日だった。強風にあおられ、火はあっという間に畑に広がっていった。あまりのことに蒼白になるジーグエに向かって、彼女は泣きながら叫んだ。
「だから、金民と友達になんか、なりたくなかったのに!」
 粉塵が舞う。熱波が髪の間に入り込んだ。頬が熱い。煙を吸い込んで、胸が痛くてたまらない。
 悲鳴と怒声、かーんかーんと非常を知らせる鐘が鳴って、低くて恐ろしい唸り声。ぎらりと白く光った大きな爪は、誰に向けられたものだったか。
 気が付くと真っ白な寝台の上で、横になっていた。
 畑は全焼し、金懐花の安定供給を失ったウォーグは、運送計画の縮小を余儀なくされた。ジーグエは煙を吸って倒れ、三日ほど目覚めなかったらしい。火災に驚いた近くの龍が暴れ、消火に駆け付けた数人が亡くなったと聞いた。
 彼女があの後どうなったのか、誰も教えてくれなかった。だから怖くて、誰にも聞けなかった。
 両親と話し合い、南の寄宿舎に身を寄せることにした。訳アリの地方貴族の子どもや、それなりの大きさの商家の子どもたちが集められた空間は、それでもあの場所よりは息がしやすかった。
 亡くなった社員の親族に配慮し、会社は妹が継ぐことになった。雲民は全員解雇された。
 ずっと自分が恥ずかしくてたまらなかった。忖度と配慮に気づかず、仮初の友情に気づかず、いかにも子どもっぽい独占欲ですべてを台無しにした自分が。この失態を上回る何かを残さないと、本当に死んでしまうと思った。
 できることを必死で探し、衛国竜団に入ることにした。毎日が目まぐるしく過ぎていき、幼い日の絶望などあっという間に頭の隅に押し流されてしまった。
 記憶の片隅でほこりを被っていた名前が、一瞬で戻ってくる。
「マシェ、って」
 あの小さかった女の子と、目の前の女性は、すぐには重ならない。蜃気楼を見るように目を瞬かせると、彼女はふいに顔をゆがめた。苦手な野菜を見たような、醜い傷を見たような表情を見て、変なことにようやくそこで腑に落ちた。
 マシェだ。あの炎のなかに消えてしまった、ジーグエの最初の友達が、いま、目の前で息をしている。傷跡はあるものの手足が揃っていて、見える範囲に大きなやけど痕もなく、背をぴんと伸ばして。
 ジーグエは右手で顔を覆った。
「――よかった」
 生きていた。
 本当はどこかで、彼女は死んでしまったのではないかと思っていた。気に喰わない相手と意に沿わない友達ごっこをした末に、炎に焼かれて死んでしまったのではないかと。
 生きていた。生きていた。きっと、苦労したことだろう。想像もつかないような苦しみだって、何度も味わってきたのかもしれない。それでも、きょうここまで、ちゃんと目に光を宿して。
 生きていてくれた。
 熱い塊がのど奥から目の後ろにせり上がってきて、こぼれそうになるのをぐっと耐えた。
「いや、おかしいでしょ」
 沈黙のあと、彼女の声が聞こえた。
「よかった、ってなに。よかった、じゃないでしょ。私のしたこと、忘れたの? あなたを傷つけて、大事なものを燃やして、逃げて、なのに」
 うつむいた姿からは表情は見えない。あぐらの間に置かれた両手はぎゅっと握り合わさって、指先が白く変色している。それだけで、彼女が彼女なりに、あのことをずっと覚えて、抱えていてくれたことがよくわかった。それだけでよかった。ずっと胸の底にこびりついていたしこりが、流水に投げ入れた泥団子みたいにふっとほどけて消えていくのを感じる。
 ずっと謝りたかった。謝って、謝られたかった。けど、いつの間にか満ちた杯のように、傷を確認し合っただけで、もう十分だと思った。だからどうしようかと迷い、ミスミと目が合う。子竜のじゃれ合いを見つめるような目でほほ笑んでいる竜医は、そういえばなぜ、マシェのことを知っていたのだろう。
「おまえ、マシェとはどこで知り合ったんだ?」
 ミスミは片眉を上げてから、「やっぱり覚えてなかったんですね」と言った。
「覚えてない?」
「え、覚えてないの?」
 マシェの声がかぶさる。お互いに疑問符を浮かべて見つめ合ってしまった。ひとりだけ事情の見えているミスミが、含み笑いをして口を開いた。
「マシェとあなたと僕で、一緒に遊んだじゃないですか」
「……え?」
 一緒に? いや、あの頃、同じ年ごろの友人はマシェだけだったはずだ。
――本当に?
 どこかで囁く声がする。だって、いつも彼女を家まで送っていたのは誰? 重たい図鑑を、本棚の上から降ろしてくれたのは?
「……ミスミ、おまえ、いくつ?」
「あなたより五歳は上かと」
 うそだろ。絶句するジーグエを見て、おかしそうに笑う男は確信犯に違いない。
「だって、入隊時期」
「やけどの後遺症で療養してたんですよ。それで入学が遅れて、さらに隊員として働けるようになるまで予備訓練もして」
「やけどって、あそこで?」
「ええ」
 細い指先が彼の右頬から首筋にかけてのやけど痕をたどる。
「夜中にマシェのご両親に起こされて、彼女が帰ってこないと。心当たりはなかったけれど、もうそのころには煙が見えていましたから。慌てて駆け付けたときに、油断して」
 何度も触れたひきつれの感触が指先によみがえる。その薄さも、下を這う脈の強さも、知っている。
「……早く言えよ」
 なんだか呆然としてしまって、そんな恨み言が先に出てしまった。気にした風もなく、ミスミは「すみません、覚えてなさそうだったので、ちょっとしたいたずら心で」と首をすくめた。
「じゃあ、入隊と同時にもうここと繋がってたってことか」
 何気なく聞いた質問だった。でも、ミスミはみるみる顔をこわばらせ、マシェは目を伏せて敷物の濡れた部分を指でなぞっていた。なんだ? ふいにすべての風が止んだときみたいな違和感に眉をひそめる。
「ジーグエ。それを話すのなら、決めてもらわなければならない」
「なにを?」
「誰の味方になるのかを」
 マシェは背筋を伸ばした。その顔にはたしかにあの頃のおもかげがあり、しかしそのどこにも甘さはなかった。
しおりを挟む

処理中です...