イオリの海

尾崎葉

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第3章

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 八月にしては涼しい日だった。昨夜、ぎりぎりの距離を逸れていった台風の影響もあるのかもしれない。相変わらず太陽は照りつけているけど、炙られるような強烈さではなかった。

 そんな少し優しさを帯びた太陽を背に、圭は長い坂道を登っていった。

 四季が丘の団地は、昼間でも静かだった。市内の人口減少のあおりを食って、団地も空き部屋が目立ってきているらしい。駐車場を通りすぎ、階段を上る間も、買い物袋を下げた年寄りとすれ違っただけだった。

 一階、二階。一歩一歩踏みしめるように、階段を上っていく。
 そして、三階の突き当たり。

 ドアの前に立ち、時間を置かずに呼び鈴を押した。あまりぐずぐずしていたら、変に緊張していただろう。

 連絡はしていなかった。一瞬間が空いて、留守なのではないかと不安になる。けどすぐに、『もしもし?』と返事があった。

 女の人の声。きっと彼女の母親だ。

 圭は黒のTシャツにジーンズという私服姿。制服でも着ていれば別だったのだろうけど。急に現われた、見覚えのない少年に、少しばかり警戒しているらしかった。

 「あの、そらさんと同じクラスの一ノ瀬です』
 『一ノ瀬くん……?』

 記憶を探っているように、少し間があった。

 『もしかして、夏祭りの日にそらと一緒だった?』
 「はい。突然すいません。そらさんと話がしたいんですけど、いいですか?」
 『ええ……。いま呼びます。ちょっと待っててください』

 そらも家にいたらしい。
 身体の前で手を組み、おとなしく待つ。そうしていたのはほんの一、二分だっただろう。だが暑さのせいか、緊張が戻ってきたのか、圭にはやたらと長く感じた。

 やがて現われたそらは、薄手の白いカーディガンを着ていた。髪を切ったらしく、前髪は普通の長さだ。

 そんな前髪の下で、そらは瞬きした。

 目を大きくしてぱちぱちさせる、あの瞬きじゃない。もっとゆっくりした、ためらいがちな動きだった。

 「悪い。急に押しかけたりして」
 「いいけど……どうしたの?」
 「いや、どうしたってことないんだけど。ちょっと話せたらと思って。いいかな?」

 そらは戸惑いながらもうなずいた。「その……」と口ごもって、玄関の向こうを横目で見る。

 「上がる?それともどこか、ほかの場所で……」
 「あー……。邪魔じゃなければ」

 そらは小さくうなずいた。
 軽く「お邪魔します」と声をかけ、玄関からそらの部屋に向かう。

 女の子の部屋に入ったのは小学校以来だから、いわゆる「女の子の部屋」がどんなものなのかわからない。その上で、そらの部屋は比較的すっきりした印象を与えるものだった。

 子どものころから使っていそうな学習机の上には教科書や筆記用具が置かれ、横には学校指定の鞄がかけられている。プラスチック製の衣装ケースに、やけに空いた空間が目立つコート掛け。ありふれた風景写真の印刷されたカレンダー。

 部屋の真ん中にはちゃぶ台を思わせる小さなテーブルがあった。

 しばらくすると、麦茶の入ったグラスを持って、そらが入ってきた。それを黙ってテーブルの上に置く。緊張しているらしいが、それは圭も同じだ。
 場つなぎに、適当な質問をした。

 「あのカレンダーの写真、日本?」

 そらは首を振った。

 「イタリアの海だって。よく知らないけど」
 「ふうん。でも確かに、そんな感じがするな」

 ふたりはまた、しばらく無言で、壁にかけられた遠い海の写真を見た。広く眩しい、けれど世界中どこにでもあるような、ありふれた海の景色だ。

 『彼女』だったら、この景色を見て、なんと言っただろう。本物の海を知らないと言った彼女。
 そらの隣でそんなことを考えている自分を、少しだけ恥じた。

 「どこ?」
 「え?」
 「『そんな感じがする』って、どの辺りを見てそう思うのかなって……」
 「そうだな。光がくっきりしてるのとか、海が緑っぽい色なのとか。エメラルドグリーンっていうんだっけ、こういうの。日本の海はもう少しくすんだ感じだよな。そうじゃないとこもあるんだろうけど」

 圭の頭にあったのは、夏祭りの翌日に見た朝の海の風景だった。

 夜の海で、『彼女』を抱きしめた、次の日の朝。圭はひとりで海岸の古びたベンチに横たわっていた。顔は真っ赤に日焼けして、身体は砂まみれ。おまけに、おかしな寝方をしたせいで筋肉痛になり、身体中がギシギシしていた。

 おかげで通りがかった老人と小学生の孫には酔っ払いだと思われてしまった。なかなか親切なじいさんで、のどがからからだという圭に水筒入りのお茶をくれ、始発の時間を教えてくれた。

 結局無断外泊になってしまったが、家族の反応はあっさりしたものだった。高校生の男の子が、祭りの日に友達の家へ遊びに行って、翌日遊び疲れて帰宅するのは普通のことだと考えているらしい。

 面倒事にならずにほっとする気持ちと、寂しいような気持ちが半々。

 そらはちゃんと家へ帰ったのだろう。もしそうでないなら、圭の携帯に母親から連絡が入ったはずだ。着信は圭の番号で入っているのだから。

 置いていかれたことに、腹は立たなかった。
 なんとなく、自分たちはあそこで顔を合わせないほうがよかったのだろうと考えた。

 それから二日が経った今日。ようやく疲労と筋肉痛も抜け、こうして彼女のもとを訪れた。

 すぐにそうしなければならないとわかっていた。ぐずぐずして、あの夜の海で『彼女』にもらったなけなしの勇気までふいにしたくなかった。

 「一ノ瀬くん、ユーリに会った?」

 ユーリというのは、もちろん学級委員長の悠里ではなく、夢で見たあの少女だろう。つい数日前のことなのに、もう顔も思い出せない少女。

 圭は「ああ」とうなずいた。

 「わたし、海は嫌いだった」

 そらが言った。

 「どれだけ綺麗でも、わたしにとっては関係ない場所だったから。誰かと『きれいだね』って言い合うこともできないし、友達と泳ぐこともできない。テレビで海水浴の映像が流れるたびに、自分には一生手に入らないものを見せつめられてるみたいで、大嫌いだった」

 そらは感情的になることなく、淡々と話した。
 圭は黙ってその言葉に耳を傾けた。

 「海だけじゃない。家族とか、学校とか、目に映るものぜんぶが嫌いだった。だから、そんなもの捨てたってかまわないと思ってた。ぜんぶ捨てて、誰にも捕まらないところに逃げて、もう帰らないつもりだった。でも、帰ってきた」
 「ユーリがいたから?」

 ためらいながらたずねる。

 それを聞いて、そらは初めて笑った。圭の知っている照れたようなはにかみ笑いじゃない。内側から喜びがあふれてくる明るい笑いでもない。ごくごく薄い笑みだ。

 でもその表情に、圭は安心した。安心させるような笑い方ができるようになったんだ。ただ自虐的なだけの笑顔ではなく。

 「そうだね。ユーリと、イオリがいたから。ユーリはときどき厳しいことも言ったけど、いつも一緒にいてくれた。わたしがやけになったり間違ったことをしても、見捨てたりしなかった。それで、イオリは……」

 その名前を口にして、そらは一度言葉を切った。

 「イオリは……。うまく言えないけど、わたしの捨ててきた世界は、そこで生きる価値があるんだって教えてくれた。言葉じゃなくて、生き方とか、笑い方で……。そう悪いことばっかりでもないんだって。わたし、しゃべりすぎてる?」
 「いや」
 「一ノ瀬くんは、イオリのこと好きだったの?」

 なんだか、前にもこれと同じことを聞かれた気がする。でも思い出すことはできなかった。思い出す前に、涙がこみ上げてきたからだ。

 突然、気づいてしまったのだ。
 自分がいつかイオリを忘れるのだということを。

 いま、圭はイオリの笑顔を覚えている。しゃべり方を覚えている。彼女を好きだったこと、彼女が好きだと言ってくれたこと。手首の感触も瞳の色も、何もかも覚えている。

 でもいつか……。そう遠くない、いつか……。

 圭はイオリがどんな風に笑っていたか、思い出せなくなるだろう。彼女と言葉を交わした記憶が曖昧になり、鮮明に覚えていたはずのイメージがぼやけ、いつしか自分が恋をした彼女が本当に存在したのかも疑うようになるのだろう。

 どれだけ美しく、幸せな夢も、目を覚ませば忘れてしまうように。

 圭はそれが悲しかった。彼女がここにいないということよりも。どの世界にもいないということよりも。いつか自分の中からいなくなるということが悲しかった。

 悲しむところが違うんじゃないかと思った。いなくなったことより、忘れてしまうことのほうが悲しいなんて。

 歯を食いしばり、どうにか悲しみを押しとどめようとした。涙はこぼれたけど、泣き声を上げたりはしなかった。

 「一ノ瀬くん……」
 「悪い。だいじょうぶ」

 ようやくそれだけ答えた。
 それからしばらくは、ふたりとも無言だった。

 「……わたし、二学期から学校行こうと思う」

 そらが自分のひざを見つめたまま、ささやくように言った。

 「これまでもイオリが行っててくれたけど。わたしにとっては、すごく久しぶりになる。うまくできるかわからない。でも、だめならだめでいいかなって。ユーリも言ってた。わざわざこっちの世界まで来なくても、逃げ場はいくらでもあるって。ぐずぐず考えるなって」
 「そっか」

 もしかしたら、イオリがクラスメイトと関わらないようにしていたのは、このためだったのかもしれない。自分の築いた関係を受け継がせるのではなく、そらに一から築き上げてほしかったのかもしれない。

 そう思うと、なんだかまた泣けてきた。

 「一ノ瀬くんは、平気?」
 「何が?」
 「わたしが同じクラスにいて、毎日顔を合わせても。だって、わたしは……あの子じゃないから」

 圭は笑ってみせた。かなり無理のある表情になったけど、笑おうとしたことは伝わったはずだ。

 「来いよ。うちの委員長も心配してる」
 「委員長?」

 そういえば、前はクラスが違ったのか。
 圭はにやりとしてみせた。

 「俺たちのクラスの委員長だよ。成績優秀で人気者で、完璧人間みたいなふりしてるくせに、中身はどこにでもいる悩み多き十七歳の」

 ――ついでに、お前の友達と同じ名前の。

 心の中でそうつぶやく。
 そらはよくわからないというように首を縮めた。

 「まあ、実際に会ってみることだな。わからなきゃ教えてやってもいい」
 「それは……。ありがとう」

 彼女はとりあえずという調子で礼を言った。

 「でも勉強はだいぶがんばらなきゃだな。お前、一学期の成績えらいことになってるだろ」
 「知ってるの?」
 「べつに聞いたわけじゃないけど、わかるよ。だってあいつ、どう考えてもペーパーテストが得意そうには見えないし」

 適当なメモとくじらの絵が描かれたノートを思い出して、圭はまた笑ってしまった。

 「うん……。でも、ちょうどいいよ。どうせわたしも補修は受けなきゃいけなかっただろうし。去年の冬から学校行ってないんだから。この成績はさすがに予想外だったけど……」
 「人に頼りすぎると痛い目見るっていう、いい教訓だな」

 そらは苦笑して、また海の写真に目を向けた。穏やかな顔だった。

 本物の海を見たことがなかったというイオリ。たぶん、そらもそうだったんだ。そらの海は、これまでの人生の中で歪み、輝きを失っていた。いまはじめて、本当に海を見ているんだ。

 それにしても……。

 そらは圭とイオリのことをどこまで知っているのだろう?これまでも口ぶりからして、ふたりがどういう関係だったのかわかっているようだし。もし全部見られていたのだとしたら、かなり恥ずかしかった。

 まあ、仕方がない。情けないところばかりだったが、そんな圭の醜態も、そらを励ます助けになったのなら少しは意味があったのだろう。

 「……実は、ちょっと考えてることがあって」
 「うん?」

 そらはまた下を向いて、もごもごと言った。

 「家に帰ってから、イオリの残してくれたものをいろいろ見たの。あんまり多くはなかったけど、ノートとか、美術で描いた絵とか」
 「ああ、あったな。静物画だったっけ」

 遠慮がちにうなずいてみせるそら。

 「うん。イオリって、絵はあんまり上手くないのね」
 「そうか?」 

 ついそんな言葉が口をついて出た、。彼女と始めて話した日に見た、ガラスの器と果物の絵を思い浮かべる。

 確かに飛びぬけて上手いわけじゃないけど、そう下手でもなかったはずだ。少なくとも、適当に描いただけの圭の絵よりは、よほど上手だった。

 それを伝えると、そらはますますうつむいてしまった。少し顔が赤い。

 見ているうちに、ああ、と思いついた。

 「絵、描くのか?」
 「そんなに立派なものじゃないの。画用紙にちょこちょこ描いて、色を塗るだけ。でも……。うん、絵を描くのは好き」
 「そっか」
 「からかわれるのが嫌だったから、ずっと隠してた。そんな趣味あるなんて、暗いって言われてたし。でもイオリの絵を見て、わたしももう少し……。その、人前に出せるようになったらいいなって。いま、新しい絵を描いてるの。もしうまくいったら、学園祭で展示してもらおうと思う。完成させられるか、わからないけど」

 不安げに圭のほうを見た。

 圭はどうにか伝えたかった。そらの言葉をうれしく思っていると。俺もそらの絵を見てみたいと。でも直接そう言うのは、なんだからしくない。どこか気恥ずかしい。

 だから、結局「何を描くんだ?」と聞くことしかできなかった。

「その……。く……」

 ……くじら?

 圭は身構えて、言葉の続きを待った。 
 そらはまた赤くなった。

 「くらげの絵。わたし、むかしからくらげが好きなんだけど……。見てると、なんだか落ちつくの。でも普通の人はそうじゃないみたいだし。やっぱり、くらげの絵なんか、気持ち悪いかな……」

 声はだんだん小さくなり、最後のほうはほとんど消え入りそうだった。

 くじらかと思ったら、くらげ。

 その答えに妙に安心して、でもどこか重なり合うようなふたりの好みがおかしくて、気づいた時には声を上げて笑っていた。

 突然の笑いの発作に、そらは驚いて固まった。それから自身も、ちょっと申し訳なさそうににやりとした。

 彼女がここにいないことは悲しい。

 でも、イオリに救われた少女が、こうして隣で笑っている。それを見て、圭も救われた気持ちになった。

 ドアの外で、母親がそらを呼んでいる。そらは「ちょっとごめん」と立ち上がり、部屋を出て行った。窓からは、少し翳り始めた夏の光。

 なんだかぼんやりしてきた。
 圭はテーブルに頬杖をついて、目を閉じた。

 眠りが夢を運んでくるのを感じながら。
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