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ボクオーンーある生活保護者

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ボクオーン

             



 ボクオーンとは日本国認定の生活保護者である水野正孝のハンドルネームである。どこまでも愚かでがめつい寄生虫である。彼は生活保護を受けながら、なおかつ障害者年金までもかすめ取ろうとしている、あくどい毒虫である。彼は支給される額が足りないと言っていつも日本国に文句を言っている。彼の受取った金はいつも風俗とパチンコに消えるからである。俺をホームレスにする気かと言っていつも怒っている、徹底した屑である。だがそんな屑でも日本国は生かしてやっている。これは全くの無駄金である。死んでいい人間がいるとしたらまさに彼こそそうだろう。病気から来るにしても彼の愚かしさは並大抵ではない。その愚かしさを治せる医者はこの世に一人もいない。彼は重い病人のふりをするが病気の程度はそれほどでもない。むしろ複数の病状が根底にある性格異常者と言った方が正しいのかもしれない。彼は金が入るとさっそく安いソープへ行く。彼の発射したスペルマは年増のソープ嬢の膣からあふれ出し東京の下水道を流れていく。彼のスペルマに受精させようとする女はこの世に一人もいない。彼の生活は愚かしさここに極まれりと言っていいほど無残である。彼の口から出る言葉は不特定多数の「女」と受給された「金」である。それ以外、彼の頭の中には何もない。

「先生、このところ、いつにもまして具合が悪いんです。とても働けません。障害者年金受取れませんかね。生活保護費じゃ足りないんです。僕にはお金が必要なんです。当然の権利と思いますけどね」
「君は生活保護費で食べていくことを考えなくちゃならない。君は確かに躁うつ病患者だが障害者年金を出すほどじゃない。君が手にするお金はみんな税金から出ているんだよ。大事に感謝して使う必要があると思うよ」
「先生、何を言っているんですか、生活保護費と障害者年金は全く種類の違うものなんですよ。僕は一日生きていくことさえ息も絶え絶えなんです。他の医者は重度の統合失調症だと言ってました。僕は躁うつ病患者であると同時に統合失調症なんです。生きていくことが困難だ。先生は僕に死ねというのですか」
「君は作業所からでも働けると思いますよ。そこで得られるお金は僅かかもしれませんが、生活保護費と足せば生きていけるでしょう」
「先生、作業所がどんなところか知っていますか。あそこは本当の気違いが集まってくる場所だ。あんなところに行ったら気が狂ってしまいますよ。おまけに時給が桁外れに安い。あんなの労働じゃありませんよ。あれこそブラックだ」
「とにかく私のところでは君を障害者年金の受給者として認定することはできません」
 ボクオーンは腹が立っていた、藪医者め、どこに目をつけているんだ。俺様が障害者だということが分からないのか。医者なら一目みて俺が天下の障害者様だと分からなきゃな。くだらねぇ、次だ次!
 彼は頭がカッカカッカしてぶち切れそうだった。
 俺様の生活保護費こそこの世で最も有意義に使われている。俺様が生きているからお前らは生きていけるんじゃないか。ふん、何も精神科医どもの詐欺師連中だけを言っているんじゃないぞ。俺様の存在は世の中の要だ。俺がいるからこそ人は空気を吸い、おいしいものを食べ、SEXが出来るんじゃないか。感謝しろ! 糞どもめ! 俺様は神様より偉いんだ。
 
 彼の生活保護費は月に十三万円だった。節約すれば今はやりのワーキングプアよりも楽な生活ができるはずである。医療費はタダだし、バス乗り放題だし、都内のいいところへ優先して安い家賃で入居できる。だが彼にはそれだけじゃ足りなかった。三十代の若い体は女を欲した。ばばあばかりじゃなく、若くていい女を抱きたい。二十歳そこそこの膣に精子をぶちまけたい。彼の欲求は際限なかった。だから日本国が障害者年金を出さないのが腹に据えかねていた。あれが入ればもっといいものを食べてもっといい女を抱けるんだ。
 どうにも頭が怒りで収まらないのでパチンコ屋へ入った。
 すごい騒音だ。このジャラジャラした音は俺を狂気にいざなう。こいつらみんな殺してやろうか。血が見たいんだよ! 彼は一つの台に座った。一万円を入れた。しかしそれは十分たらずで終わった。彼の怒りは頂点に達し、刃物があれば確実に隣のハゲ親父を刺していたところだろう。彼はそのハゲ頭にボールペンで「バカ!」と書いた。親父は驚くと同時に怒り狂って彼に殴りかかっていった。だが足がもつれたところを蹴られてひっくり返った。
「クソ親父、死ね!」
 彼は捨て台詞を残してその場を立ち去った。

 人生とは(壮大な?)暇つぶしである。用もないのに生まれ、死にたくないから生きているのが真相である。生まれたら何が何でも生きようという生存本能によって自殺しないのである。それは細菌に始まって虫や動物に至るまで共通である。人間のみが自殺する。だが自殺による死とは生存本能の裏返しである。生存本能が著しく傷ついたとき人は自殺する。死のみを願って自殺する人は少数である。人は八十年足らずの人生を実は暇つぶし以外の何物でもないと理解している。スポーツ競技や一般社会の無意味な競争は暇を持て余すのが怖いから空虚を埋めようとして盛んに行われている。百メートルを九秒で走ろうと六秒で走ろうとどうでもいいことである。マラソンで一時間を切ったとしてもどうでもいいことである。球を足で蹴って枠の中に入れてもどうでもいいことである。投げられた球を木の棒で打って柵を越えようとどうでもいいことである。氷上で跳んだりはねたり回転しても無駄である。こうしたことは全てゲーム(遊び)である。つまり人は暇をつぶすためにこうした競技を編み出した。今現在スポーツが盛んなのは平和だからである。平和な時には人はやることがない。相当な時間が余って暇つぶしにスポーツとやらをやる。スポーツ競技全体に言えることだが記録が今より飛躍的に伸びても実はどうでもいいことである。金メダルを手にした選手が称賛されるのはいかに効率的に暇をつぶせたかという一点に過ぎない。だからオリンピックは壮大な無駄である。それこそ壮大な暇つぶしである。誰もが自分が何のために生きているか本当のところは理解していない。その根底に暇つぶしがあるのが人間の本質である。会社に入り社長や重役を目指すのも無駄である。汗水流してろくに眠ることもしないで働いて出世したところで、もう人生の末路に来ている。後は死ぬだけである。子供を産んで育てるというのも無駄である。暇を持て余すのが嫌だから子供を育てるという無意味な行為に没頭する。実のところ子供が生きようか死のうがどうでもいいことである。望まれて生まれる子供は稀である。子供の誕生は親にははた迷惑なことである。大抵はSEXに没頭した結果、子供が生まれてしまったというのが真相である。勝手に生まれた子供が悪い。人間は現実というのは強固な存在だと理解している。その場所でしゃにむに生きなければならないと思っている。だがボクオーンは誰もが現実という架空の幻想の中で揺らめいている幻影だと理解していた。過去や未来に限らず、現在でさえも実在しているものとは考えなかった。だから現実というものを徹底的に馬鹿にしてかかっている。ただ自分だけが「王国」という絶対的な永遠の光の園を生きていると思っていた。

 ボクオーンの活躍できる夜中が来た。実際はそこでも嫌われているのだが気づく様子もない。減らず口をたたくのでボクオーンの敵は多い。ある自殺サイトの集まりが開かれる。
《ボクオーン》
「作業所でね、Aが僕に刃物を持って襲い掛かってくるんだよ、どうしたらいいんですかね。もう少しで殺されるところだった、ああ、怖かった。ほんまもんの気違いがいるんですよ、なんで雇ったのかな、ふつう洒落で終わるところでしょ」
 彼は作業所などたまにしか行っていない。遊び狂って夜中には同じ種類の馬鹿連中とチャットをするのが何よりの喜びだ。
《ダイ》
「君が挑発したんじゃないか?」
《ボクオーン》
「え? 僕は態度が悪いのを注意しただけですよ。ミスが多いんですよ。それでも自分が悪いと思っていない。評価は他人様から頂くものであってね、自分で自分を評価しちゃいけないよ。あいつはみんなから嫌われているんだ、思い知らせてやらなきゃ。どうですかね」
《ダイ》
「みんなって誰のこと? 君はみんなに確かめてから言っているのかい? 一人ひとり確かめてみたの? そういう卑怯な上から目線は止めた方がいいな。今じゃパワハラっていう言葉もある。人の評価なんて曖昧ないい加減なものだ。自分の評価は自分自身ですればそれでいいんだよ」
《ボクオーン》
「何を言っているの? それじゃ社会を生きていけないよ。社会に出たら人の評価こそ絶対的なものなんだ。ダイさんはいい年して引きこもっているからそういう考え方をするんだ。やっぱりAにはこの社会のルールを教えてやらなきゃいけないな。どうですかね」
《ダイ》
「君の自己評価はどのくらいなんだ?」
《ボクオーン》
「僕の自己評価は空よりも高く海よりも深い。人からの評価も絶大なものがある」
《ダイ》
「君の妄想だろう、それ(笑)。Aだって注意されれば腹の立つときもある」
《ボクオーン》
「え? まっとうな大人はそこをグッと我慢するんじゃないですかね。そいつはそれからというもの僕をいつも睨み付けている。いくら人のいい僕でも嫌になりますよ。訴えようかな。どうですかね」
《ダイ》
「その人は刃物をいつも持ち歩いているの?」
《ボクオーン》
「そうなんですよ。ああ、怖かった。僕が死んだらこの世が立ち行かなることをわかってないんだから。世界の心臓を刺すようなもんなんですよ」
《ダイ》
「えっ、なにそれ、言っている意味が分からないな」
《ボクオーン》
「いやこっちのことで。とにかくああいう危険人物は作業所に置いといちゃいけませんよ。作業所の名誉に関わることですよね。ただでさえ作業所には気違いが来ていると世間から思われている。僕がいることで作業所の評判を変えたいんだ。それにね、糞みたいに安い賃金を値上げさせたいんだ。いいこと言うでしょう、僕は。このチャットでも僕のこと、もっと大切に扱ってほしいんだけどね」
《荒らし》
「ボクオーン死ね、ボクオーン死ね、ボクオーン死ね、ボクオーン死ね、ボクオーン死ね、ボクオーン死ね、ボクオーン死ね」
《ボクオーン》
「また荒らしが来た。よっぽど僕のこと好きなんだなぁ。まぁ無視していきましょう」
《ダイ》
「その人も虫の居どころが悪かったんじゃないか。みんな病人だからね。助け合ってやらなきゃね」
《ボクオーン》
「分かってないな。この糞のような世の中に一点、光を放つのが僕なんだよ。人生は苦だ。お釈迦様も言っている。この苦しみから救うのが僕じゃないですか。そうですよね」
《ダイ》
ダイはボクオーンと話すといつも具合が悪くなる。この日もうんざりして頭が重くなった。気違いと話すのは地獄だ、彼はそう思った。ダイは嫌気がさしてチャットから落ちた。
《ボクオーン》
「あれ、落ちた。逃げ足が速いやつだ」

 ボクオーンは作業所で働く人間を軽蔑していた。どうしようもない愚か者だと思った。作業所で働くなんて自分が障害者だということを公言しているようなもんじゃないか。あんな単純労働で満足できるような人間ではないと彼は思っていた。障害者年金をもらったほうが何倍も楽して稼げる。何しろ働かなくていいんだからな、けけけっ。来週は生活保護の受給日だ。今日からは焼き鳥とビールと焼酎だな。宴会だ、宴会! 俺のために働け、世の愚民どもよ。俺に生活費をよこせ。もっと、もっとだ。俺のために汗水流して働け。
 生活保護費の入ったボクオーンはさっそく吉原のソープへ行った。総額で二万の低価格帯のソープだ。彼は写真と実際の顔が違うパネマジというやり方に腹を立てていた。しかし露骨に顔に出すほど愚かではない。ソープ店のバックには怖い暴力団が控えているからな。ソープでは大人しくしていなければならない。彼は写真と違う年増のばばあ嬢の前でさっさと服を脱いだ。ばばあ嬢は彼の陰茎を加えフェラチオをした。この時、舌で舐めずに唇で済まそうとするソープ嬢がいることに気づいていた。舌で舐めなきゃ気持ちよくならないだろう。この売女め!
 彼は何千回、何万回、使い込まれたであろう娼婦の膣に自分の陰茎を沈めた。緩い、太平洋の中で芋洗っているようなもんだ、と思った。まあ、緩くない女なんかいないけどね、彼は経験から学んでいた。どんなに顔がきれいでも若くても女の性器は、臭い、きたない、気持ち悪い、危険の4Kだと思っていた。危険というのは、用もないのにガキを孕むからだ。ガキはいらぬ。この世からガキを放逐すれば、このろくでもない世界は滅びる。

 ボクオーンがこの世ですることは何もなかった。また出来ることも何もなかった。生きる必要のない人間とはまさに彼の代名詞であった。だが彼はいつか大それたことをやると思っていた。それが何かは今のところ彼自身にもわからない。彼の最大の欠点は今まで本気で自殺しようと思わなかったことだ。自殺するくらいなら人を殺すと彼は放言していた。彼は自分が生きることが世界中の全ての人間の生命より重要だと思っていた。自分の生のためなら人をなんなく殺す人間だと彼は自認していた。彼が今まで殺人を犯さなかったのは偶然以外の何物でもない。彼は容易に殺人者になれただろう。それを拒む内的外的要因は何もなかった。殺人を犯せば自由が束縛されるだろうとは漠然と思っていた。でも今の糞のような自由にも彼はいい加減飽きていた。彼のようなゴミみたいな人間が自由でいることは実は危険である。ゴミはきちんと回収されるべきだ。だが三十代の彼が回収されるにはまだ数十年かかるのかもしれない。
 ボクオーンは今日も金がなくてピイピイしていた。金が欲しい、強盗でもしたい。だが強盗が割に合わない商売だということは少なくとも理解していた。強盗殺人でもやらかしたら、えらいことになるのは頭の中では分かっていた。しかし人を殺すのに全く抵抗がなかった。牛や豚と同じよ、食われないだけましだろうって思っていた。他人が死ぬことに全く心が動かなかった。だって俺じゃないもん、人がいくら死のうと俺の知ったことじゃないと思っていた。他人は容易に死ぬけれど、俺はなかなか死なない。生活保護という特権を生かして立派な寄生者として長生きしようと思っていた。

 生活保護費は年間で数兆円に膨れ上がっている。働けるのに働かない輩や朝からパチンコ屋に並んだりする不正受給者も多い。大抵の不正受給者は罪悪感など露ほどもない。国民の税金で生かされているのに感謝の気持ちなどからっきしない。人のものは自分のもの、自分のものは自分のものという感覚が染みついている。彼らの被害者意識は強い。女のヒステリーのような被害妄想である。ヒステリーにつける薬がないように彼らにもつける薬がない。彼らは虐げられていると思っている。口を開けば、政治が悪い、行政が悪いの一点張りだ。彼らのプライドは高い。生活保護者のくせにプライドが高いのは滑稽だが、ボクオーンのように「人生は苦だ」などと言ってのける愚か者も多い。人の金で食って寝ているのに、そんなことを吐ける資格がそもそもない。国民の多くが彼らにいっそ死んで欲しいと思っている。死んでも困ることは何もない。悲しむ人もいない。もしいればそいつも生活保護者だ。彼らの多くは貯金がない。ぎりぎりで生活していると言っているが、かなり贅沢している。ワーキングプアが貧困に苦しんでいるのに比べ生活保護者は働く気など皆無で保護費が安い、安いと文句を言っている+。彼らはホームレスを軽蔑している。自分らは生活保護費を受け取ることのできる特権階級に属しているのに対し、ホームレスは国から見放された用無しだと思っている。ホームレスのことをしばしば乞食と言ってはばからない。自分らはその価値があるから国が保護費を出すものだと思っている。彼らには常識も判断力もない。ボクオーンのような鬼っ子が生まれるのもさにあらんである。

 ボクオーンは宅配の寿司を食べていた。週に二回、土日は寿司の日と決めてある。軽く三人前はいく。国民が休息している土日に寿司を食べるのは気分がいい。俺のために国民が働いてくれることを祝っているつもりだった。週に一回、焼肉を食べに行くことに決めてある。国民が英気を養えるように焼肉を食べるのだ。カルビ三人前、ロース、ハラミ、タン塩二人前、カルビクッパ、キムチ盛り合わせ、生ビールとメニューは決めてある。これで軽く一万は超える。だが肉を食うと活力がみなぎる。食物連鎖の頂点にいると勘違いするのが心地よい。彼はいつもこぎれいにしている。ここがホームレスと違うところだ。彼が行く精神科病院にたまにホームレスが来ることがある。そうすると彼は彼らの放つ悪臭に耐え兼ね逃げ回る。精神科の医者は彼にとって薬を処方するマシーンでありカモである。障害者年金を受けさせてくれる医者を探し回るのが今のところ彼にとっての「仕事」である。

 ボクオーンはある頃から嫁が欲しくなった。毎日SEXできるなんてどんなに幸せなんだろう。ガキはいらない、生まれてきても育てる気はない、その辺に捨てようと思っていた。結婚相談所には行けなかった。中学中退で生活保護を受けている人間を相手にするところではなかった。そのあたりの知恵はまだあった。彼は自分を客観視することはまずないが、客観視せざるを得ない所には近寄らないようにしていた。鏡を見ることすら彼はなかった。自分が考えている自分と異なった自分がそこに映し出されるからである。彼は鏡が歪んでいると思った。そこで合コンである。数少ない友人に声をかけて合コンを開こうと提案していた。彼は中央大学法学部卒のエリートを装った。見抜かれる心配はなかった。誰も彼に法律のことなど聞きもしないと確信していたからだ。聞かれても話をはぐらかす技術は一人前にあった。職業は何にしようかと迷ったがM物産に決めた。何も理由はない、彼が最も興味がない種類の職場にしただけである。彼には貿易というものが分からなかった。ただ商品を右から左へ流して差益を稼ぐだけという単純な職業に思えた。そういうなら漁業も魚を海から市場へ移すだけの職業である。というわけで彼にはおよそ商業というものが愚かしさの極みというように思えた。マスコミ関係もいいかなと思ったが、相手の女性に突っ込まれても困ると思い、とりあえず止めにした。
 その夜、自殺サイトに再び侵入した。

《ボクオーン》
「合コンしたいんですけど、やったことないんですよ。合コンてどんなことを話すんですか、適当なことを話せばいいんですかね。結婚前提でお付き合いしてもいいんですかね、合コンで出会う女は尻軽っていうじゃないですか。僕、結婚前提じゃないと女性とお付き合いすべきじゃないと思うんですけど、どうですかね」
《オマリー》
「おい、ボクオーン。結婚を舐めてんじゃないぞ、女を食わしていけるのか、生活保護の分際で」
《ボクオーン》
「さんを付けろ! 呼び捨てにするな! ボクオーン様だぞ、せめて、さんを付けてくれないですかね。相手の女性に働いてもらえば、僕が生活保護を受けていてもやっていけますよね。どうですかね」
《オマリー》
「お前はとことん情けない奴だな。働く気はないのか、三十代のくせして一生、生活保護を受ける気か。お前は言ってみれば日本という国の悪質なヒモだな」
《ボクオーン》
「僕が働くわけないじゃないですか、せっかく国が毎月お金を入れてくれているというのに、なんで働く必要あるんですか。僕は障害者なんですよ、解離性双極性障害のⅡ型です。先生がそう言っているんですよ。僕はもっとみんなに大切に扱われてもいいんじゃないですかね。恋愛結婚じゃなくても見合いでもいいんだ。結婚できればね」
《オマリー》
「おい、ボクオーン、狂ったか、お前に見合いの話が来るわけないじゃないか。そもそも恋愛する権利もないんだぞ、生活保護の人間なんて世間じゃ人間として扱われないんだぞ、分かっているのか」
《ボクオーン》
「サイトの皆さん、オマリーが僕を苛めるんですけど、こんな事あっていいんですかね。人権問題だ。人権蹂躙で訴えますけどいいんですかね」
《吉田》
「生活保護の人間だって生きる権利はある。当然、結婚する権利もね。でも不正受給者が結婚するのを見るのは抵抗がある。私だっていい歳をしながら、経済的問題で結婚していないんだから」
《ボクオーン》
「へっ、それ吉田さんの性格に難があるから結婚できないんじゃないですかね。前から聞いてみたかったんだけど吉田さんって働いているの? 不正受給者だという噂もちらほらあるよ」
《吉田》
「私は前から言っている通りシステムエンジニアだ。日本中を飛び回っているよ。ガセネタだね。ボクオーンさんのような不正受給者と違う」
《荒らし》
「吉田死ね、吉田死ね、吉田死ね、吉田死ね、吉田死ね。ボクオーン死ね、ボクオーン死ね、ボクオーン死ね、ボクオーン死ね、吉田死ね、吉田死ね」
《ボクオーン》
「へっ、僕が不正受給者だって。おかしなことを言わないでね。僕は立派で誠実な生活保護者なんだよ。ちゃんと毎年資格を更新しているんだから」
《吉田》
「生活保護者に立派もへったくれもないよ。社会の底辺で国民に迷惑をかけながら生きているんだから。ところで君って生活保護を受けるほどの障害者なの?」
《ボクオーン》
「僕は精神科医認定の障害者なんですよ。おすみつきを頂いているんです。他の人とは格が違う。筋金入りなんだ。僕は一生、生活保護を受けて優雅に暮らしていけるんですよ。でも金遣いが荒いから、いつもぴいぴい言っているけどね。本当は今の倍は貰ってもいいんだけど、最近の日本人は働かなくなってきているからね。もっと僕のために汗水流して働いてくれないかなぁ。どう思います? 僕がいるからみんなこの世に存在できるんですよ。僕の将棋の駒なんだ。最近、日本人は怠けることを覚えたからなぁ。僕がいなけりゃ日本は一秒だって立ちいかなくなるんですよ、日本の命運は僕が握っているんだ。そうですよね」
《オマリー》
「ボクオーン、お前、それ狂人が喋っているということが分からないか。てめえのことなんか、誰も知らないぞ」
《ボクオーン》
「言ってみれば、オマリーさんも僕の意識の中の一人なんですよ、僕は永遠に一人芝居をしているんだ。僕が死んだ時、この宇宙は消えてなくなりますからね」
《オマリー》
「へっ、気違いに付ける薬はないか。まぁいい、お前の骨を拾ってやるよ。『哀れな狂人、ここに眠る』っていう墓を建てればいい」
《ダイ》
「オマリーさんは気が長い、僕はボクオーンさんと話していると具合が悪くなる。この世の中に絶望的な気分になる。あぁ、こんな馬鹿でも日本国は生かしてやるんだとね。精神病も重くなると治らないから一定以上の精神錯乱を起こした人はみんな死刑にすればいいのに」
《ボクオーン》
「えっ、それ僕のこと言っているんじゃないですよね。そうですよ、気が狂った人から殺していけば、日本はせいせいする。狂人を抹殺する軍事部隊を作りませんか? どうですかね」
《オマリー》
「お前が一番先に殺されるよ、ボクオーン、この気違いが!」
《ボクオーン》
「えっ、何言っているんですか、僕は天下の障害者だけれど気違いじゃないですよ。気違いは暗がりに潜んでいて、僕のように公道を堂々と歩けないんですよ。そうですよね、僕のような大物の障害者はみんなに奉仕してもらえる存在なんですよ」
《ダイ》
「ボクオーン、死ね、この世から消えろ、お前のおかげでこっちも具合悪くなる」
《ボクオーン》
「あれ、落ちた。逃げ足の速い奴だ」

 ボクオーンは同じチャット仲間のスナメリとテトラを誘って合コンの計画を練り上げた。相手の女性は彼らのバイト仲間で三人集まった。スナメリはコンビニでバイトしていて、テトラは警備員のバイトをしている。カラオケボックスで合コンは開かれた。ボクオーンは最初に女性たちに会った時に「だめだ、こりゃ」と思った。彼の美意識はテレビの中で作られた。いくらでも美男美女がいるそのレベルで女性のことを考えていた。ごく普通の容姿の女性は眼中になかった。今日子、明美、小雪という女性はそういう容姿をしていた。
 スナメリは不安障害と統合失調症だった。テトラはうつ病患者だった。今日子、明美はコンビニの店員、小雪は警備会社で事務をしていた。カラオケでボクオーン以外の人は盛り上がった。スナメリとテトラは次々に女性たちと打ち解けていった。ボクオーンがボーっとしてつまらなそうな顔をしているのを見て、小雪が話しかけてきた。
「歌は歌わないの? 水野さん」
「あっ、ボクオーンでいいよ。僕は本名なんてどうでもいいと思っているので。水野正孝という人間はどこにもいない」
「じゃ、ボクオーンさん、好きな歌手いる?」
「いないよ、僕にはどの曲も同じに聞こえる。サザンもミスター・チルドレンも昔の曲を焼き直して新曲として発表しているとしか思えないんだ」
「あら、全部が全部、名曲というわけにはいかないわ。そんなこと考えずに楽しみましょう。じゃ、ミスター・チルドレンのHANABIにしましょう、知っているわね」
「冗談じゃないよ。そんな難しい曲、勘弁してよ」
 HANABIのイントロが流れてきて、マイクが渡された。仕方ないので歌ったがとんでもなく音痴で下手だった。自分が下手くそだってことはボクオーンにも分かっていた。まさに地獄だった。でも歌い終えると小雪が拍手をしてくれた。それに合わせるように他の人も拍手した。合コンは二時間くらいでお開きになった。ボクオーンは意気消沈していた。人と付き合うということは自分を客観視することだと思った。それは彼が最もしたくないことだった。彼にとっては主観が全てだった。主観の世界に生きている彼が人と付き合うのは無理があった。合コンは失敗だった。二度とするものかと思った。

 ボクオーンは無修正ビデオを見ていた。AVは裏じゃなきゃ意味がないと彼は思っていた。モザイクに隠された性器は男をイライラさせるだけで何の役にも立たない。かえって害である。モザイクの下に隠された、神聖な或いは卑猥な肉ビラと穴を想像して若い男は気が狂う。今夜も精液が噴水のように男性器から溢れ出るだろう。無駄な精子、受精できない精子が今夜も気が狂ったように腐っていく。その精子はあらゆる可能性を持っていた。大統領を生み、偉大な科学者や思想家を生んだだろう。だがその腐っていく精子はもう何の可能性も持たない。その男が精通してから射精した無数の精子はその一匹一匹がかけがえのない可能性と個性を持っていた。だがそれらは全て無駄に終わった。腐っていく精子はこの世の無駄を体現している。彼はそれらの精子を思い浮かべるたび、この世が滅べばいいのにと思う。この世が消えて人間たちがいなくなったらどんなにせいせいするだろう。

 彼の中の殺意、破壊衝動は止めることが出来ないほど膨れ上がっていた。彼の口癖は「死ね!」だった。全ての人が死に絶えるなら彼はどんなことでもしただろう。だが彼は、それは自分に限った特別なことだとは思っていなかった。誰の心の中でも意識するしないに関わらず暗い闇があるものだと思っていた。彼には死んでほしい人が山ほどいた。テレビに不細工な芸人が映るたびに「死ね! 死ね!」と叫んだ。こいつらが決してその呪詛で死ぬことがないのに腹を立てていた。彼は道を歩くたび、不快な人間がいると「クソ野郎、死ね」と心の中でつぶやく。面と向かって「死ね!」とは声に出して言えない。不自由な世の中だ。彼は全ての行為は殺意から生じると思っている。マザー・テレサの慈愛とヒトラーの狂気は同じものだ。どちらも錯乱した精神が生んだものだ。いや錯乱などしていない。明晰な殺意から生じたものだ。慈愛と殺意は同じものだ。マザーは死を願いながら人々を看護しただろう。ヒトラーはユダヤ人が悶え死ぬのを何回夢見ただろう。誰もが他人の死を願って生きている。それ以外、生きる道はないのだ。生と死も同じものだ。生の果てに死がある。死の果てに生がある。人の目的は死ぬことだ。それは必ず叶えられるだろう。

 AVの定番は凌辱ものであるが彼はただの凌辱ものは面白くないと感じている。たかが性器を挿入してこすり合わせて膣に射精するだけでは全然面白くない。もっと女性の体を分解し解体して子宮を取り出し、その中に直接精液をぶちまけてもいいではないか。一作ごとに女優が死んでもいいではないか。殺人をありふれたものにする必要があるのではないか。だが現実には撮影のたびに女優が死んでは商売が成り立たない。それ以前に殺人で逮捕される。だが無修正のAVは男性器と女性器がもろに映るからそれなりに真実があると思う。人間の性器ほど生々しくて獣くさいものはない。彼は清楚な女優の醜怪な性器を見て、そのギャップに目がくらむ。ああ、みんな死んでくれないかなぁ、この世が滅びればどんなにいいだろう。

 ボクオーンの性欲は人並み外れてあった。毎日オナニーしても追いつかなかった。こんな男の遺伝子が将来に残っても仕方なかった。彼はプライドも人並み外れて高かったから、好きな人が出来ても自分から打ち明けることはなかった。だからソープ嬢としか経験がなかった。ソープ嬢は彼に優しく接してくれた。お金のためとはいえ彼にはそれが有難かった。ソープ嬢は自分の感情をコントロールする熟練工だ。彼を不快にさせることを絶対にしなかった。それが彼をソープ漬けにする大きな要因になった。国民の税金を湯水のようにソープランドで使った。しかしソープ嬢だけで満足しているわけではなかった。彼は普通の女性と交際したかった。だけどそういう女性が彼を好きになることはまずなかった。彼は肥満体だし顔もまずかった。彼の会話も独特な皮肉があり女性にはまず受け入れがたかったようだ。女性には彼を一目見て避けるような本能が備わっているようだった。しかし彼には自分は女性にモテるという妄想があった。そこでフェイスブックに登録して女性と巡り合うという手段を考えた。中央大学法学部卒でM物産に勤めているエリートだと装えば女性は騙されるだろうと考えた。彼は写真スタジオに行ってプロのカメラマンにポートレートを撮ってもらった。その出来栄えに満足した彼は、俺だってソープ嬢以外の女性と付き合えるんだと確信した。それから毎日フェイスブックとにらめっこしたがアクセスしてくる女性はほぼ皆無だった。男がアクセスしてきても彼は無視した。用はないんだよ、男は! 彼にとっては地球上で男は彼一人で十分だった。余計なんだ、男は! 彼はそう思った。時たますごいブスがアクセスしてくることがあった。そういう場合は自分のことは棚に上げて全て無視した。ブスは生きている資格がない、息を吸うなと彼は思っていた。奇跡的に人並み以上の容姿の女性がアクセスしてくることがあった。彼はそのチャンスに飛びついた。しかし会話しているうちに女性のほうが彼の異常性に気づくのか、いつもピッタリと会話は止まってそれきりになった。彼はそのたびに戸惑い、頭に血が上った。なんで俺様を無視するんだ。俺の話を聞かないとは何事だ。俺のおかげでお前たちは生きていけるんだぞ。俺様はこの世の神なんだ、俺の言うことを聞かないととんでもない目に合うぞ。
 しかし世の中には奇特な女性がいるものである。誰が見ても人目を引く美少女が彼のフェイスブックにアクセスしてきた。会話もいつになくはずみ、二人きりで会うことになった。彼にとって三十数年生きてきて初めてのデートである。彼は出来る限りのおしゃれをして出かけていった。待ち合わせ場所に彼女は立っていた。ひときわ目に付くオーラがその美少女にはあった。彼は目がくらむ思いで話しかけた。
「やぁ、真希さん、初めまして、ボクオーンこと水野正孝です。ボクオーンていうのはゲームのキャラクターの名前なんだよ。すごく可愛いね。フェイスブックでは女優志望って書いてあったけど、分かるよ、それだけきれいならね」
 酒井真希は目の前のずうずうしそうな醜男に戸惑った。帰ろうか、でもせっかく来たんだし。そもそも男性は外見じゃないし。お茶ぐらいいいか。
「初めまして、水野さん、遠いところをどうもありがとう。暑くなかったですか、ほらこんなに汗かいているわ」
「それじゃ、そこの茶店に入ろうか。涼しいよ」
 ボクオーンは写真より実物のほうがきれいな、逆パネマジに初めてあった。こんなことあるんだなと思った。
「真希さんはもう映画にも出ているって書いてあったね。どんな作品だろうね」
「ちょい役よ、まだまだこれからだわ」
「僕の書いた小説のヒロインにならない? えーとなんだっけ、題名忘れたけど、テロリストと女子高生が戦う長編小説なんだ。ああそうだ、『女子高生魔子』っていうんだ」
「小説お書きになるの? すごいわ」
 ボクオーンが小説など書くわけがない。
「うん、ちょっとね。まあ、大したことないけどね」
 彼は突っ込まれるのが嫌で話を逸らそうとした。
「君みたいにきれいな人ならお付き合いしたい男性は山ほどいると思うけど、やっぱり僕のことが気に入って会いにきたの?」
 彼女は彼の厚かましさに呆れた。でももともと彼女は穏やかな優しい性格をしていた。
「そうね、そうかもしれないわ。お話ししたいと思って」
「今日は土曜日だね。僕はいつも寿司食うんだけれど。これから寿司食べに行かない? ちなみに僕は赤貝が好きなんだ。君は何が好き?」
「私はまぐろかな。赤身が好きだわ」
「まぐろはやっぱり赤身だね、あの血の色にはそそられるよ」
 二人は寿司屋に入った。
「大将、お任せで頼むよ」
 ボクオーンが景気よく言った。それが国民の税金だということは全く頭にない。
「僕はM物産に勤めていて、年収は二千万円以上かな。いい時は三千万くらいだよ。君を食べさせていけるだけのお金はあるんだ。どうだい、僕と結婚を前提に付き合わないか」
 真希はまたしても呆れた。どこまで非常識なんだろう。
「初対面でそういう話はできないわ。結婚なんて、考えたこともない……」
 彼女は言葉を失った。
「ああ、そうだよね。先走っちゃった。我慢汁が出てきてしまったよ。え、いやこっちのこと」
 ボクオーンにはお付き合いするとは結婚することだった。いいよ、あんたの子供なら育ててやるよ。その辺に捨てたりしないよ。だがまずSEXで充分楽しんでからだね。
 ボクオーンはにやにやしていた。下心丸見えだった。
 しかし経験のない真希にはよく分からなかった。
「テーマパーク行こうよ。映画だと眠くなるんでね。ジェットコースターなんかならいいね。きっと僕のことが好きになるよ。頼りがいのある男だってね。抱き付いてきていいからね。何も恐れることないよ。守ってあげる」
 ボクオーンは彼女との距離が一気に縮まると思った。テーマパークの帰りに抱くのだ。合法的にね。
 彼は合法的なSEXと非合法のSEXの違いがよく分からなかった。どちらもやっていることは同じなのに何の違いがあるんだろう、と思っていた。
 二人はアドレス交換をした。寿司店を出たところで彼は言った。
「今度会うときにはもっと僕のことが好きになっていると思うよ。君にはその資格がある。本当に可愛いからね。本当はこれからホテルに行こうかと思っていたんだけど今日は許してあげる。寂しくなったらメールしてきてね。僕からもするよ。結婚前提のお付き合いだと僕は思っているからね。もう僕の魅力からは逃れられないよ」
 ボクオーンの特徴は自分のことしか見えないところである。自分を中心に世の中が回っていると信じていた。自分のステージで踊る役者だと相手のことを思っていた。全ては自分の意識内の出来事だと思っていた。だから自分に批判的な人間を攻撃する。自己完結した世界を壊そうとするものは誰でも許さない。そういう人間にとってこの世は実は生きにくいものだが、ボクオーンはそうではない。何故なら自分を責めることはまったくなく、人を責めるのにたけているからだ。他人をゴミくらいに考えている彼には殺人もゴミの処理も同じだ。邪魔な他人を否定すれば自分の世界の王様でいられる。彼は自分の王国が地球全体に広がっていると思っている。地球それ自体が彼の領地である。
 酒井真希は水野正孝を異常者だと認識した。よく言えば病人だと思った。関わり合いにならないほうが身のためだと思った。しかしまた会ってしまうだろう自分を感じた。自分はゲテモノ好きなのか? 彼女はそういう言葉を使ってしまう自分を恥じた。彼女はこの太った醜男の心の底を見たかった。その不細工さを体感したかった。可愛い自分との対比がおかしかったのかもしれない。二人はまた会う約束をして別れた。

 ボクオーンは今度行く医者にこそ障害者年金受給を認めさせようと思った。これでいくつ医者を回ったことか。でもタダだから彼の懐は何も痛まない。
「先生、僕はひどく悪いんです。このしんどさを何故、医者は分かってくれようとしないんだろう。人権蹂躙だ。医者を訴えたい。毎日、これまで会った医者の顔を思い出して狂いそうだ。本当に狂っていいんですかね。僕は医者からゴキブリのように嫌われている。僕も医者をゴキブリのように嫌ってもいいんですよね。どうですかね。金が足りないんだ。僕にとって障害者年金は死活問題なんですよ。そこを何故、医者は分かってくれようとしないんだ。病人だって人権はあるんだ。出るところへ出てもいいんですよ。僕は有能な弁護士を立てて戦います。あなたの医師免許をはく奪することだってできるのですよ。先生は働けなくなって路頭に迷うことになる。ホームレスの苦悩が分かって返っていいですかね」
 ボクオーンは医者の前で延々と長口上をした。しかしどこに行っても彼の要求は認められなかった。彼は失望し、火をつけてやると脅した。
 医師はこういう連中には慣れていた。いちいち相手をする気もなかった。火をつけてやると言った患者が火をつけたためしがなかった。
狂人すれすれの人間は多い。でも彼らは本当の狂人ではない。本当の狂人とは会話も難しい。幻想の世界を生きている彼らとは全くコミュニケーションがとれない。狂人すれすれの人間たちにいちいち障害者年金を認定するわけにはいかなかった。
 ボクオーンは生活保護で守られていた。その上になおも障害者年金を受け取ろうとするのは何と厚顔無恥なのか。身体と違って精神の障害者は外見からは分かりにくい。本当のところは分からないだろうと高を括り医者を騙そうとする輩は多い。医師はそうしたあくどい連中の扱いには慣れていた。それでも障害者年金を受け取っている人間はこの世に多い。明らかな過ちが起きている。性格的異常者と障害者は違う。しかしこの判断を間違う医師も多い。年間何万もの障害者が新たに生産されている。この現状を放置すべきではない。

 ボクオーンは今日も腹を立てていた。道を歩いていても、行き交う人たちに『国民よ、愚民たちよ、俺のために働け、何を暇そうに歩いているんだ』と心のなかで罵っていた。彼の難点は生活保護を受けているくせに金遣いが荒いことだった。支給日が近づくと一人宴会をするため、何日か前までに金は底をついていた。それから支給日までは何も食べずに過ごした。そうした彼の偽造された困窮は自分自身を苦しめることになった。彼は貧困を憎んだ。しかし自業自得な彼の貧困を国民の税金で救ってやる必要は何もなかった。彼の口癖は「そこはグッとこらえて」と「人生は苦である」だった。彼の口からその言葉が出るとぞっとする。こらえ性のない愚か者が発する言葉ではなかった。彼には母親がいた。父は家庭から逃げ出していた。母親も生活保護を受けていた。母親はボクオーンに生活保護で食べていきなさい、障害者年金も受けなさいと教えた。彼はその教えを忠実に守っていた。この寄生虫たちにつける薬はない。新しい殺虫剤が必要だった。母親も息子同様、働くことの嫌いなただの怠け者だった。彼らは生活保護を受ける人たちを特権階級だと思っていた。その階級を維持するためにあらゆる手段を講じていた。母親はうつ病と診断され生活保護と同時に障害者年金を受けていた。家のなかはゴミで溢れていた。ゴミの中にいると人間はゴミ虫と同じようになるようだ。その辺を這って歩いた。母親は息子を誇りにしていた。自慢の息子だと思っていた。息子にとっても母は生きていく指針だった。念願はボクオーンが早く障害者年金を受け取られるようになることだった。

《ボクオーン》
「あぁ、なかなか障害者年金受取れないなぁ。能無しの医者ばかりだ。ああいう馬鹿どうすればいいんですかね」
《オマリー》
「馬鹿に人を馬鹿だという資格はない。お前が早く死ねば余計な税金使わなくてすむ。頼むから死んでくれないか」
《ボクオーン》
「あれれ、忘れたかな。みんな僕に生かされているんですよ。僕が死んだらあなたたちも消えちゃうんだから、言葉に気をつけた方がいいですよね。あなたたち、あぶくと同じなんだから。僕がつつくと消えちゃうよ。それでもいいんですかね」
《オマリー》
「お前のご機嫌とるために俺たちがいるんじゃないんだぜ。お前の目からは世界が幻影に見えるかもしれないが、俺の目からはお前が幻影なんだ。お前こそ吹けば飛ぶような塵なんだ。その認識がない奴は生きている資格がない」
《ボクオーン》
「へっ、何を言っているんですかね。僕は絶対者であなたは相対者なんですよ。この基準は何億年たってもそうなんだ。宇宙の歴史と言われている139億年以上この関係はゆるぎないんだ。あなたたちは奴隷以下、ゴミ以下なんですよ。そのことを身に染みて感じたらいいんですがね。ゴミ虫って呼んでいいですか? これからそう呼ぶね」
《オマリー》
「おい、調子に乗るな、ボクオーン。お前こそゴミ以下だ」
《ボクオーン》
「さんをつけろ! 呼び捨てにするな! 今日は相談に来たんですよ。今、可愛い女の子と付き合っているんですよ。女優の卵だからね。もういくつか映画に出たって言ってた。あと二三回デートしてプロポーズしようと思ってんですけど、僕にすごく惚れているみたいで、早くSEXしたそうですよ。結婚式にはみんなも呼ぼうと思っているんだけど、どうですかね」
《オマリー》
「死んでも行くか、馬鹿! だいたいお前に女が引っかかるじたい、あり得ないんだ。よほど男に不自由している醜女か、狂人に違いない。狂人は狂人同士ウマが合うだろうからな」
《ボクオーン》
「あれれ、そんなこと言っていいんですかね。すごい美人だって言っているじゃないですか。写真撮ったら送りますよ。真希ちゃんていうんですがね。すごく目が大きくてキラキラしてて可愛いんだ。その辺のタレントの比じゃないよ。SEXしたら子供ができますかね。子供はいらないな。子供は僕一人で充分だ。彼女は処女だと思うからあそこもぶかぶかじゃないよ、よく締まると思う。このろくでもない薄汚れた世界も人生も苦だけど、あの子の周りにはオーラがあるんだ。そうですよね」
《オマリー》
「お前が『人生は苦』だって言うな。お前にその資格はない。国民の税金で食っている寄生虫のくせに」
《ボクオーン》
「へっ、僕だって生活保護から抜け出したいんだ、いつも言っているの聞いているでしょう。分からないんかな」
《オマリー》
「聞きすぎて耳にタコが出来ているよ。お前がそう言ってから何年たった。五年以上たっているよね。お前は国民に甘えることに味をしめて働くことを止めたんだ。お前が生活保護を止めることは絶対ない、そう断言するよ」
《ボクオーン》
「別にオマリーさんに食べさせてもらってるわけじゃないよ。国民の当然の権利さ。生活保護は神聖なんだ。国民は障害者を養う義務がある。僕が障害者だということはみんなが認めている。僕は国民に愛されている。国民のペットなのさ。そうさ、生活保護を止める気なんかこれっぽっちもないさ。なんで僕が働く必要があるの、障害者なのに。健常者より障害者の方が偉いんだよ。だって健常者は働かないと生きていけないのに、僕らは働かなくてもお金が稼げて生きていけるんだからね。特権階級なんだから。財閥の御子息が働かなくても生活できるのと一緒だよ。僕が道を歩くとモーゼのように人の波が割れてひれ伏すのさ。僕は彼らの日頃の悪い行いを許してあげる。そうすると人々は心が軽くなって安らぐのさ。僕はイエス・キリストの生まれ変わりなんじゃないかと思う。この国の人々の救い主なんだよ」
《オマリー》
「幸せな奴だ、この馬鹿め。狂人の多くに多幸感があるというデータがある。狂人は狂人らしく、障害者は障害者らしく生きてほしいね。だがこいつらを養うのに国はいくら出したら追いつけるのだろう? 何という無駄だ」

 ボクオーンは酒井真希に夢中だった。彼の頭の中には裸の真希がいた。彼が夢見ていたのは、彼女の両足を大きく開いて女性器を舐め、自分の性器をぶちこむことだった。彼女は彼の世界の妃だった。
 ボクオーンの状態がこのように悪くなったのは八年前に勤めていた会社で上司に「この役立たず、お前はみんなに嫌われているぞ。ミスも多いし、辞めた方がいいんじゃないか。お前がいなくなればみんながせいせいする」と大声で仕事中に怒鳴られてからだった。ボクオーンはその言葉で体を引きつらせ硬直し床に倒れた。そしてその日のうちに会社を辞め、それから自分自身に引きこもり、自分の王国を作り、その王国と現実の世界を同一視するようになった。そもそも彼にとってみれば現実と幻想は区別がなかった。引きこもっていれば世間の荒波を遠ざけ、世間の目を気にせずに王国の王様になっていられた。
『真希さん、僕のことどのくらい愛しているかなぁ。もっと手をつないだりして写真でも撮りたいな。二人の記念のものを残したいんだ。結婚する前にいろいろな所へ行きたいな。温泉に二人で入りたい。裸の二人を写真に残しとくんだ。彼女のあそこどうなっているかなぁ。陰唇広げて膣を舐めたいなぁ、他の女性と全く違ってきれいでいい香りがするんだろうな』
 ボクオーンは長々と独り言を言った。

「先生、僕はもう一歩も歩けないんです。障害者年金を認めてもらえないのなら僕はここから動きません。僕はまっとうな障害者ですよ、生活保護だって不正受給者ではありません。僕はぎりぎりの生活をしているんです。国民は健康で文化的な生活をする権利があるんじゃないですか。もう僕は気が狂いそうです。先生は僕が狂ってもいいんですか」
「君みたいな患者で働いている人はいっぱいいますよ。生活を切り詰めれば生活保護でやっていけるでしょう。狂人はね、自分が狂人だとは言わないの。抗不安薬を出しときますから今日はここまでですね」
ボクオーンは大声でわめき始めた。
「ここの医者は藪医者だぞぉ。騙されるな、医師免許も持っていないんだ。薬を出すだけのマシーンだ。ここに通うと殺されるぞぉ」
 すると看護師が彼の周りを取り囲み身動きできないようにした。それでも彼は暴れて、椅子やら花瓶やらを放り投げ、窓ガラスを割った。やがて警察官が来て彼は器物損壊で現行犯逮捕された。パトカーの中で低い声で「うーっ」とうなり声を出していた。

署内の一室でボクオーンはくだを巻いていた。
「なんで僕を捕まえるの? 悪いのはあの悪徳医者でしょう。いつも3分診療で適当に薬を出し私腹を肥やそうとしている。ああいうのは医師免許を取り上げなくちゃいけないんだよ」
 警察官が言った。
「診察室の中まで我々は関知しない。問題は君が暴れて器物を損壊したことだ。割れたガラスでケガをした人もいる」
「僕は障害者なんだ。暴れることぐらいなんだ! 死人が出たわけじゃなし。弁償すればいいんでしょう。しますよ、僕は生活保護者なんだから何でもタダだからね」
「馬鹿か、お前、あんたが自費で弁償するんだよ。障害者だからって免れることは出来ない」
「あれれ、警察官のくせに言葉遣いが悪いね。ちゃんと名前で呼んでくださいね、さもないとあんた消えちゃうよ。まあいい、僕が払うとしますね、でも返済能力ないから税金で賄うしかないね」
「少しずつでもお前が払っていくことになるんだよ。いくら生活保護者に対して甘い国だからと言って障害者のケツまでぬぐう必要はない。お前がしたことに対してお前が責任を取るんだよ。当然のことだろうが」
「えーっ、払えないよ、というか払う気ないよ。おじさんたち払えばいいよ、あんたたちも国民の税金で食っているんだから。もう僕なんかに関わらずに仕事しなさい。税金泥棒って言われちゃうよ」
 警察官は机を激しく叩いた。
「甘えるな、性根を叩きなおす必要があるようだな」
 彼はそう言うと書類を見せ、署名をするように言った。
 ボクオーンは文字を読むのが大嫌いだった。その書類には漢字が並んでいた。彼は平仮名とカタカナだけ読んだ。よく分からないが弁償せよ、ということなんだろうと思った。彼は生活保護者に責任能力はないと思い込んでいたのでサインをした。彼はその日のうちに釈放された。
 彼は警察官のように正義を振りかざして生きている人が大嫌いだった。この馬鹿め、法律の中でしか生きられない芋虫みたいなやつだなぁ。俺は法律なんかに縛られずに生きられんだ。だって俺は永遠の障害者だからな。俺は羽根を持っている。芋虫と違って大空を羽ばたけるんだ。みんな俺のことを尊敬の目で仰ぎ見ている。警察官が何だ! 生活保護者で障害年金をもらっている人が一番偉いんだ。働かないで食える人間が一番偉いんだ。みんな俺にひれ伏する。俺に逆らわなければ許してやるよ。俺は世界の救世主なんだからな。

 向うから真希が歩いてくる。ボクオーンは微笑みながら手を振った。
「こんにちは、真希さん、僕のことが忘れられなくなったね。僕も真希さんのことをいつも想っているんだ。今度どんな映画に出るの? 真希さんのことを映画のスクリーンで見たいな。僕も出してくれないかな。監督に紹介してくれる? 僕は素晴らしい演技で期待に応えるよ。華々しいデビューを飾るよ。僕が演出してもいいな。あぁ、そうだっけ、僕、小説を書いているんだっけね。主演は当然、真希さんだよ。僕以上に真希さんのことを愛している人はいないから、そういう人が演出した方がいいんだよ。もっと言えば監督になってあげてもいいよ。大ヒット間違いないよ」
 真希はやつぎばやに話すボクオーンに圧倒された。来るんじゃなかったと少し後悔した。今日はサントリーホールでクラシックの音楽鑑賞だった。ボクオーンにクラシックが分かるはずもなく、彼女から手渡されたチケットを握ってタクシーに乗った。ちなみにボクオーンの移動手段はほとんどがタクシーである。肥えた体を動かすのが面倒だからだった。タクシーは手を伸ばせば自分の前に止まりドアを開いてくれる。下僕の一種だと考えていた。演目はバッハ時代を中心にしたバロック音楽だった。ボクオーンは演奏が始まるとたちまち目をつむりいびきをかき始めた。彼の頭が真希の肩に寄りかかってくるので彼女は身動きがとれなかった。彼女が動くとボクオーンの頭が彼女の胸から下辺りに落ちてくると思った。それは避けたいのでコンサートの始めから最後までずっと身動きがとれず、演奏より彼のいびきが気になった。やっと全ての演奏が終わり彼女は彼に「終わりましたよ」と耳元で囁いた。彼は寝ぼけて「えっ、何が?」と言った。そして頭を起こし「いい演奏だったね」と言った。
「ねぇ、今夜はホテルに泊まらない? 気持ちいいことしよう。君だってそれを望んでいるんでしょう。処女を捧げるのが僕でよかったね。その辺の糞ったれと僕は違うからね。僕は世界の中心であり王様であり僕のために全ては動いていく。君はずっと永遠に幸せだよ。映画の主演もきっと出来るさ。だって僕がついているんだもの。芸能界にだって僕の下僕はいるんだよ」
 真希は肩が痛かった。それにもましてボクオーンの話が気に障った。この狂人といつまで付き合えばいいのか。もう終わりにしようか。二人はホールを出てタクシー乗り場に行った。
「あのぅ、ここで別れましょう。私たちもう会わない方がいいようです」真希はきっぱり言った。
「照れないでいいよ。暗くしてやるからさ。初めは誰でも怖いものだよ。でも僕は痛くしないからさ。僕に全部まかせて大丈夫だよ」
 すると彼女は一人でタクシーに乗って行ってしまった。
 ボクオーンはあっけにとられて少しその場に佇んだ。
「恥ずかしくないのに。よっぽど僕に見られるのが嫌なのかな。陰唇の形がゆがんでいるのかな。気にする必要ないのに。誰だって多少はゆがんでいるものだよ。まぁ、今日はいいか。今度こそあの子の処女を貰うよ」
 ボクオーンはぶつぶつ言いながら一人でタクシーに乗って帰った。

 真希はボクオーンに関する全てを消去し変更した。これで二度と彼に会わずに済むと思うと安心した。風呂に入ってリラックスし眠りについた。そして翌朝、門を後にすると「真希さん、何で帰っちゃったの?」というボクオーンの声が聞こえた。
「なんでここが分かったか、驚いているね。フェイスブックの中に入り住所を突き止めたんだよ。そういう業者がいるんだよ、知ってた? 便利な世の中だね。後をつけるなんてストーカーのやることさ。もっとスマートにいかないとね」
 真希は駆け出した。大声を出そうと思った。だが大人しい彼女には出来なかった。すぐにボクオーンに追いつかれた。
「今日は一日、真希さんの傍にいるね。なんで照れるの? 恥ずかしいことなんて何もないよ」
 真希は強い口調で言った。
「迷惑です。声を出しますよ。もう近づかないでください。すぐに離れてどこかへ行ってください」
「あれれ、二人は誓い合った仲じゃないですか。誓いを破ると災難に合うよ」
「誓ったりしていません。あなたの言うことは全て勝手なでたらめです」
 ボクオーンはここで血迷った。真希の下半身にさわり指を滑らした。
 真希は悲鳴を上げた。ボクオーンはさすがにまずいと思ってその場を立ち去った。真希はそれから彼の執拗な行動に悩まされることになった。だが愚かしい百回の求愛はあり得ない奇跡を生むものである。彼女は次第にボクオーンの狂気に慣れてきた。離れて付けていたボクオーンはやがて彼女のすぐ後ろをついてくるようになった。そしてついには隣りを歩くようになった。ボクオーンは一方的に話しつづけ彼女はそれを聞き流した。
「ねえ、ごめんね。手が勝手に動いたんだよ。外だから嫌がったんだよね。どうせ二人は結ばれるんだから予行練習みたいなものだよ。ホテルの中なら真希さんのあそこ開いていい? 陰唇を開いて膣を舐めまくるの。ラブホテルに来る人はみんなやっていることだよ。ホテルに限らず一般家庭の夫婦がみんなやっていることさ。みんなすました顔をしやがって本当はスケベなんだよ。スケベだからこの世はなかなか滅びないんだ。この苦しみに満ちたろくでもない世界は消えればいいのに。僕と真希さんだけこの世にいれば十分だ。他人は一人もいらない。あぁ、みんな死ねばいいのに。なんで生きてるの? 不細工な女は生きてても無駄だ。そういうのは遺伝子残すな。それと大家族も困ったものでね、ああいう遺伝子をばらまく輩はみんな死刑にすればいいのに。そう思うよね」
 ボクオーンの愚かしい話は耳にタコができるくらいいつも一緒だった。真希は何故か自分が穢れていくように感じた。彼は影のように彼女の行く先々についてきた。彼女は自分の手には負えないように感じ警察に相談しようかと思った。でもそこまでは出来ないと思った。彼は病気であり、ショックを受けて想像もつかないような行動に出るかもしれない。彼に対して気の毒な人という気持ちを持った。ある日、彼に対して言った。
「あなたの話は分かったわ。だから私にずっとついてくるのは止めてもらえませんか。あなたのことを全否定する気持ちはありません。でも今のままでは困るんです。会える時は会います。それで勘弁してもらえますか」
「あれれ、困っているの、何でだろうね。僕と真希さんは一心同体なんだから、いつも一緒にいないと余計困るよ。ねぇ、同棲しようよ。きっちりしたいのなら結婚しようよ。真希さんにも僕にも断る理由はないからね。ねぇ、でもね、僕は最近不安なんだよ。僕はもしかしたら世界の中心じゃなくて、ただのそこいらの人間と同じじゃないかってね。そんなに思うのって何なんだろうね。真希さんと出会うまではそんなこと考えなかった。僕は絶対的な存在で宇宙は僕が永遠に生きる限り存在すると思っていた。僕が宇宙の存在を支える神なんじゃないかと思っていた。でもね、真希さんが僕をその幸せな夢から覚まそうとするんだ。真希さんを大切に思うと自己愛が傷つくんだ。僕を何もかもが相対化しようとかかってくるんだ。真希さんを愛せば愛すほど自分の存在が希薄になってくるんだ。だから僕らは一つにならなければ幸せになれない。僕らは特別な存在で必然的に結ばれなければいけないんだよ。それしかないんだ。この胸の不安をなくすにはそれ以外ないんだよ」
 真希はボクオーンの心の中に初めて理性の目覚めを感じた。でも彼にとってそれは幸せなことなんだろうか。ずっと夢の世界にいる方が幸せなんじゃないかと思った。彼が自分の真実の姿を知ったとしたら、その姿に堪えられるだろうかと思った。また人格の崩壊を或いは招くほど自分のことを愛してくれるのを無下にするのもどうかと思った。その心の中にボクオーンの存在が育ち始めているのに気付いた。
 ボクオーンは泣いていた。幼児的な夢が壊れかかっていた。何かしら圧倒的な真実に対する不安が彼の心を壊そうとしていた。王国が瓦解しかかっていた。薄く濁った膜を通してしか現実世界を見られなかった彼の目が開かれようとしていた。
 真希はボクオーンの背中をさすりながら「分かりました。今度の日曜にお会いしましょう。だからもうストーカーのような行動は止めてもらえませんか」と言った。
 ボクオーンは自分でも不思議なほど涙を流した。自分をそこいらの人間と同じだと思うことは彼には過酷すぎた。そのように思うことは彼にとって死ぬのと同様に苦しいことだった。彼は「うん、会ってください、お願いします」と言って頭を下げた。
 彼の自我の崩壊は免れた。彼はいつも飲んでいる精神病薬を飲み忘れたから変なことを考えたんだと思った。真希を愛しすぎたからこの現実世界に目覚め始めたんだとは思わなかった。

 次の日曜日にボクオーンは大宮駅前で真希を待っていた。彼の実家は大宮駅前西口にあった。しかし区画整理でその姿は激変していた。彼が遊んだ故郷の姿はもうどこにもなかった。彼の父親は駅前にあった一等地を勝手に売って失踪した。当時の金で3億は下らない土地だった。子供だったボクオーンには分からないことだったが、父からその土地を相続しビルでも建てていれば一生苦労せずに生きられたはずだった。もし相続してれば彼の人生はこんな風じゃなかったはずだ。そう思うたびに父への憎悪がぐつぐつと沸いてきた。しかしボクオーンは父の正妻の子ではなかった。父は子供に対する愛情がないただの女好きで方々に子供を作った。その中の一人がボクオーンである。母はどうにかこうにか彼を育てた。だがうつ病になって働けなくなり今では母子ともども生活保護の世話になっている。
 ボクオーンは幸せになりたかった。子供のころは楽しかった。小学校の放課後、三角ベースの野球をして遊んだ。夕方になると母が「ご飯ですよ」って声をかけに来てくれた。ジャングルジムの天辺で、これから訪れる未来に思いをはせ感傷的な気分になった。小学校五年生のときに初恋をした。相手は美人で優秀な人だった。その少女に出会ったときの心のときめきは表現しようがない。なにしろ彼自身も少年であったのだから。彼女の家は小学校から十五分くらいのところにあった。そこは彼にとって遠くから眺めるしかない聖地だった。「一緒に帰りましょう」という言葉をどれだけ言おうとしただろう。しかし卒業するまで言うことは出来なかった。その無邪気で幸福な時間は永遠に続くものと思われた。でも中学に進むころから生来の秘めた悪しき性質が露わになってきた。ボクオーンのノートに「僕は神だ!」という文字が躍るようになってきた。彼は鼻持ちならない人間となりみんなから嫌われた。彼は中学を中退し引きこもるようになった。母は働けなくなってから預金を切り崩して生活していたが、生活保護の制度があるのを知ると、何としてでも認定されようと苦心した。そしてめでたく生活保護を受けるようになると全く働かなくなり家の中もゴミで溢れかえり、それをかき分けて生活するようになった。ボクオーンは全く現実が見えなくなっていた。それは現実を見たくない本能のようなものだったのかもしれない。彼の妄想は自身の中で増殖し王国を作り上げていた。その王様であるボクオーンは幸せになれたのかもしれない。でもネットをしている時や外出をする時にはその王国は容易に危機にさらされた。他人は彼が王国の王様だという妄想など知らないし知る気もない。彼は王国を攻めてくる外敵を攻撃した。他人を罵り嘲り彼らは自分の下僕に過ぎないと思い込むようになった。そして愚かしさここに極まれり、自分は世界の、宇宙の中心であり全ての存在は自分の周りをぐるぐる回転し自分に奉仕する下僕だと思うようになった。その妄想の世界は彼にとって真実の世界だった。彼の自己愛は限りなく膨れ上がり、その執拗な愛情は自分に向けられ、それに酔いしれて、王国は愛に満ちた世界となった。そしてその濁った目を通してしか世の中が見えなくなった。真希は彼にとってお妃様だった。だが真希が自分から逃げようとしたり、ネットでみんなから攻撃されるので彼の神経はズタズタになった。でも真希と暮らす永遠の未来を妄想の中で描くとき彼は幸せな気分になった。

 真希がやってきた。ボクオーンは体を上下左右に揺らしながら走った。興奮すると彼は体の自由が利かなくなる。それは身体的なものではなく神経の発作とでもいうようなものだった。
「やあ、また会えたね。寂しかったよ、真希さんもそうだった? この前、僕泣いちゃったね。恥ずかしかったよ。ああいう不安は時々あるんだ。真希さんと出会ってからよくあるような気がする。これが恋なのかな。でも僕に会いに来てくれて嬉しいよ。大宮公園行こう。桜が咲き誇っているよ」
 二人は桜舞う道を歩いた。爽やかな昼間だった。広い池のベンチに腰掛けた。真希はバッグからサンドイッチを出した。
「朝、作ったのよ。お口に合うかどうかわからないけど食べましょうね。私、考えたのよ。これからどうしたらいいかって。こうしてたまに会う関係が一番いいのじゃないかって思うの。男と女っていうのではなくて、友達として会いたいの」
「僕は真希さんと話せるだけで幸せだけど、本当は一つになりたいんだ。男と女が一つになるって分かるよね。抱きたいんだ。あそこが見たいんだ。真希さんが誰にも見せていない所を見たいんだ。あそこを広げたいんだ。中の方まで見たいんだ」
 真希は困って少し周囲を見渡した。誰もいないのを確認してから言った。
「そういうことは外では話さないで。おかしな人と思われるわよ。あなたは自分の中と外がよく区別できていないようだわ」
 真希はボクオーンが自分を守るために王国を築き上げたのを知らない。
「えっ、自分の中と外ってどういうこと? 自分と真希さんしかこの世にいないよ。厳密に言えば真希さんは僕の世界の中にいるお妃だよ。僕はこんなに人を好きになったことないよ。僕らはまだ一つになっていない。ねぇ、ホテルに行こう」
「それは無理よ。私は結婚するまでそういう行為はしないことに決めているの。あなたがあまり要求すると会えなくなるわよ」
「じゃ、体だけ見せて。君の一糸まとわない姿が見たいんだ。僕は死ぬほど君を愛している。僕ほど君を愛している人はいない。見せてくれないなら僕は死ぬ」
 ボクオーンはそう言って、ポケットからバタフライナイフを取り出してナイフの切っ先を自分の喉に当てた。
「僕は死ぬのは怖くないんだ。だって一万回以上死にたいって考え続けてきたからね。僕が死ぬことはこの世が消えることなんだ。真希さんも道連れだよ。夢から覚めるようなことだよ、死ぬっていうのはね。死んだら他の自分になって甦るのさ。人はね、死んでも自意識から逃れられないんだ。死んでも死んでも同じ自意識を持って甦るのさ。前世のことはすっかり忘れてしまっているけどね。でもそれは他の誰でもない自分なんだ」
 切っ先が皮膚を破り、血が出てきた。
「止めて! なんてことをするの。死んだらそれで終わりなのよ。人生は一度きりなの。命を粗末にしてはいけないわ。あなたが満足するなら体は見せます。でもそれ以上の行為を求められたら私はあなたを訴えます。それでもいいですか」
「真希さんの体を見られたらもう僕には思い残すことないよ。死んでもいい。でも君とそれっきり会えなくなるんじゃ僕は嫌だよ」
 真希はそれには答えず歩き出した。
「どこへ行きますか?」
「この辺はラブホテルが一杯あってね。ほらあの武蔵っていうホテルはどう?」
 二人はホテルの中に入って行った。
 ボクオーンはベッドに座った。真希はその正面に立った。そして決心したように服を脱ぎ始めた。彼の胸は張り裂けそうに高鳴った。全部脱ぎ終えた裸は彼の予想に反して艶めかしかった。
「触らないでね」真希は言った。
 ボクオーンは彼女の胸のふくらみと下腹の薄い陰毛の下にあるはっきりとした亀裂を見て興奮し激しく勃起した。そしていきなり吸いつくようにその亀裂に唇を当てた。彼女は抵抗したが下半身をきつく押さえつけられて身動きが出来なかった。彼はその亀裂の上から下まで舐めまわした。何回も何十回も舌を這わせクリトリスを刺激した。彼女の口から声が漏れるようになった。彼は抵抗する彼女をベッドに横たえた。柔らかくて張りのある乳房に顔を沈めながら下腹へと舐めまわし足を広げた。そこに夢にまで見た真希の唇があった。彼はその唇を両方の指で広げ、その光景に酔いしれた。甘い香りが膣から沸き上がった。彼は舌をとがらせて膣に入れた。彼女の口から喘ぎ声が聞こえるようになった。彼は素早く全裸になり勃起した男性器を膣に当て押し込んだ。彼の性器はほどよい圧迫を得ながら彼女の中で暴れた。愛する人とのSEXはこれほど気持ちいいのかと生まれて初めて知った。彼は彼女を激しく突き、そして果てた。彼女から溢れ出る精液を舌で押し込んだ。
 真希は泣いていた。涙が止まらずしゃくりあげて泣いた。彼がきつく抱きついてきた。そして唇を押し付けてきた。彼女は抵抗せず唇を開いて彼に吸われるままになった。

 ボクオーンは突然、真希と連絡が取れなくなった。彼女は彼の前から姿を消した。マンションの部屋は解約されていた。それから六か月彼は悩み苦しんだ。しかし彼には彼女が必ず自分のもとに帰ってくるという確信があった。彼は仕方なく保護のお金を使って探偵を雇い調査をしてもらった。一週間後、彼女は主演の映画を撮影しているという結果を得た。彼は驚くとともに傷ついて嘆いた。自分の知らない所で物事が動いていくのを唖然として見送る以外なかった。あの日の行動で彼女が去ってしまったという後悔の念に苛まれた。
 ボクオーンはこの世の全てから縁を切りたいと思った。ひどく些細なことが彼を傷つけた。彼の心は傷だらけだった。傷つけた全てのものに復讐したいと思った。だが復讐にとらわれていると縁は切れない。縁を切ろうとすると復讐できない。このジレンマがさらに彼を苦しめた。
 
 ボクオーンは胃の下辺りが痛むようになった。その痛みは激しさを増し、錐で突かれているような激痛が走った。彼はやむなく病院に行った。
 検査後、先生が複雑な表情をして言った。
「水野さん、今度お母さんと一緒に来てくれますか。ちょっとお話があるので」
「えっ、僕悪いんですか。ただの胃痛じゃないんですか」
「この前の検査で気になる部分がありました。精密検査をしたい」
「えっ、僕が病気になるわけないです。僕が病気になるとこの世がとんでもないことになりますよ。僕が死んだらこの世は消えます。だから僕は容易なことでは死ねないんです。先生も消えます。もともと幻影だからね。僕の舞台で医者を演じている役者さんでしょう。過剰演技しなくてもいいですよ。僕が病気になるなんて台本に書いていないでしょう。アドリブは止めてください。ちゃんと演技してね」
 医師はボクオーンの話に最初の方は耳を傾けていたが、すぐに無視するというか流すようにしていた。精神科に通っているようだし、そちらの方は任せていた。ボクオーンはひとまず入院という形をとることになった。六人部屋に彼のベッドが用意されていた。ボクオーンはとても耐えられないと思った。人と一緒に寝るなんてことは出来ないと思った。下僕どもと同じ病室に入るなんて考えられなかった。彼はナースステーションへ行った。
「なんで僕のベッド六人部屋なんですか? お金払いますから個室にしてくださいよ」
「ええと、あなたは生活保護を受けられている方ですね。個室には入れない決まりになっています」
「えぇっ、そんなことを言っているようではこの世に災害が起きますよ。あなたの責任ですよ。あなたは殺人者になるんですよ。いいんですかね」
「何をお話になられているか分かりませんが病室は変えられません」
 ボクオーンはその夜、大地震が来るのではないかと思って寝付けなかった。僕は生きなきゃならない。逃げなきゃならない。彼の予感はほとんど外れたが、たまに当たることもあった。少なくとも宝くじの確率よりもあった。僕につらい仕打ちをすると大変なことになるぞ、彼はそう言ってベッドの上で震えていた。隣の病人がいびきをかきはじめた。それになんか変な臭いがする。靴墨のような臭いがする。ボクオーンは音と臭いに桁外れに敏感だった。アスペルガー症候群と診断されていた。彼は耳を抑えて耐えたが、無理だったのでナースステーションに耳栓を貰いに行った。
「隣の人のいびきが気になって眠れません。それに変な臭いもする。耳栓と活性炭入りのマスクを下さい」
「耳栓はありますが、普通のマスクしかありません。それで様子を見てください」
 ボクオーンは病室に戻ったが、相変わらず隣の病人がいびきをしている。どうしようか考えた。首を絞めて殺すか、別にこんな人間殺しても世の中に何の変化もない。でも僕が不快な思いをすると世の中が乱れ、僕がつらい仕打ちを受けると大災害が起こる。耐えようか、彼は子宮にいたときのように体を丸くして毛布にくるまった。彼は子宮にずっといた方がよかったのかもしれない。そのほうが幸せだったろう。無駄に鋭敏な神経と感覚を持つ彼にとって世の中は刺激的過ぎた。
 精密検査の結果、彼は悪性のすい臓がんだった。彼には知らされず母親に伝えられた。手術不可能だったので二週間で退院した。強い鎮痛剤を飲んでやり過ごすことしか出来なかった。時々差し込むような痛みが胃の辺りを襲うが、薬を飲めば収まるのでボクオーンは再び前のような調子を取り戻した。僕に死はない、僕が死ぬ時は世の中が消える時だ。この世はめったなことでは消えないだろう、ゆえに僕の命は永遠に等しい。彼はこう解釈した。
 彼の入院費、治療代はもちろん無料だった。ワーキングプアはもちろん自費で支払う。だから彼らの多くは医者にも行けない。保険代が払えないのだ。彼らに比べて生活保護者は恵まれすぎている。生活保護を受けている人のどれだけがそれを受けるに値するのか疑問だった。
 ボクオーンは真希を再び探し始めた。住所、電話番号、メールアドレスは探偵から得ていた。映画のロケ現場の周囲をうろつくようになった。もちろん撮影所の中には入れない。この中にいる真希は手の届かない女優で、もはや彼のことを虫けらのように見ているのではないかと思った。彼は自分の放ったスペルマの行方が気になった。うまく子宮口に潜り込んでくれたかどうか気になった。他の女の孕んだガキはゴミ箱に捨てるが真希と自分の子供は育ててもいいと思っていた。
 ボクオーンは真希のマンションの前で何日も彼女の帰りを待った。しかし彼女は現れなかった。探偵の調べた住所は間違っているのではないかと訝った。その時、彼女は地方にロケに行っていた。彼女を王国に取り戻さなければならないという焦りで彼は強く歯ぎしりをして歯医者の世話になることになった。
 そしてとうとう真希が向うから歩いてくるのが見えた。彼は近寄った。
「真希さん、探したよ、何故会えなくなったんだろうね。僕はずっと悲しんでいたんだよ。僕を悲しませるなんて恐ろしい災厄が起こるよ。日本は沈没するかもしれない。責任もって行動してくれないかな」
 真希はスマホを握ってどこかへかけた。するとマンションの入り口から男性が現れボクオーンを突き飛ばした。
「何をする。誰だよ、あんた!」
「私は酒井真希さんの婚約者の佐藤誠です。あなたのことは彼女から聞いています。残念ながらきつい言い方をします。あなたは気が狂っているそうですね。狂人だそうですね。あなたが彼女に対してした行為も聞きました。私は警察に行けばいいと言ったんですが、彼女はそれは止めてくださいと言った。憐れみなんですよ。あなたには分からないでしょうね」
「へっ、いつから彼女と付き合い始めたの? 彼女は処女だったんだよ。SEXはしたんかい。SEXもできないで婚約者かい。あんたなんか彼女に取りつく毛虫同然さ。処女じゃなくて残念だったね。彼女の膣には僕のスペルマがこびりついて離れないよ。永遠に刻印を押してやったんだからね。あんたはよそ者さ。後から来て略奪する侵略者だよ。真希は僕を選ぶ。真希は僕を愛しているんだ」
 真希は佐藤の体の影に隠れた。
「いいですか、これ以上、彼女に付きまとうようなら警察に連絡します。これが最後通牒です。二度と彼女に近寄らないでください」
 佐藤はマンションの中に一緒に入って行った。
「同棲してるな、この野郎、俺の子はどうなった? 妊娠したのか。お前が育てていくのか。俺は一銭も払わないぞ。俺は子供なんか興味ないんだ。ただ真希と俺の子供だから大切だと思っただけだ。お前が育てるならそれでいい。誰が育てようと子供は育つように育つからな」
 ボクオーンは腹が立って仕方なかった。自分の子供があのマンションの一室で佐藤と真希に可愛がられていると思うと無性に腹が立った。しかしこれはボクオーンが勝手にそう思い込んでいただけで子供は当然、生まれていなかった。そもそも半年足らずで子供が生まれるわけがない。彼は半年もあれば子供が生まれると思っていた。それに腹を膨らませた状態で映画の主演が出来るわけもない。彼の愚かしい妄想はぐんぐんと成長し、はっきりとした映像になっていた。日の当たる窓辺につどう、真希とあの男と赤ん坊の幸福そうな光景が目から離れなくなった。
「殺す! 皆殺しだ」
 彼の頭の中で三人が惨殺され血まみれになって死んでいる情景が駆け巡った。

 彼の病気はさらにひどくなった。あまりの激痛に「お母さん、僕死ぬのかな」と聞いた。母は「そりゃ、いつか死ぬよ」と言った。「僕がんじゃないよね」と聞くと「先生はしこりって言ってたよ」と返した。
 母はボクオーンが悪性の腫瘍だと聞いた瞬間、彼を諦めた。いないものと見なそうとした。彼女は相変わらず一日中寝ていた。彼は真希への復讐と病気への恐怖で気が狂いそうだった。
『僕が死ぬわけがない。一人っきりで死ぬわけがない。世界を道連れにしないで死ぬわけがない。あのドイツの哀れな副操縦士とは違う。この世のシステムを変えると言って墜落死した副操縦士、彼と僕はどこか似ている。百五十人を道連れに自殺した彼は愚かで哀しい。あぁ、何かが間違っている。僕がこんなに弱っているのに世の中は平然と流れている。大地震が起こるべきだ。大災害が起こるべきだ。死病が蔓延するべきだ。彼は真希に原因があると考えた。彼女の振る舞いが僕を病気にし、王国を壊していくんだ。何故僕から逃げる? あり得ないだろう』

 ボクオーンはテレビを見ていた。真希が共演する俳優と一緒に画面に出ていた。映画の告知だった。真希の笑顔がまぶしかった。それまで彼が見たことのない表情だった。彼女の顔がアップになる。美しい、清廉な笑顔だった。その輝きに彼は圧倒された。
「畜生! 俺の子どうした?」
 彼はティッシュペーパーの箱をテレビ画面に投げつけた。
「畜生! 訴えてやるからな。俺の子供を産んで殺したのに違いない」
 ボクオーンはすぐに頭で考えを巡らせ、訴えられるのは自分だと思い直した。彼は画面に向かって皿を投げた。画面は粉々に砕け、保護費で買ったテレビが無駄になった。
 彼は連日マンションの入り口で彼女が出てくるのを待った。しかしいつも佐藤という男と一緒で手が出せなかった。そのうちに警備員が来て注意された。彼の怒りは頂点に達し、他の住民がオートロックで入る時を狙ってマンション内に侵入した。そして壁の陰に隠れ彼女が帰ってくるのを待った。夜の十時ごろ彼女が現れた。彼女一人だった。同棲しているわけではないのか? 彼はとにかく彼女がドアを開いた瞬間に飛び出して同時に部屋の中に入った。
 ボクオーンは叫ぼうとしている彼女の口をハンカチで覆いガムテープを貼った。
「おいっ、俺を裏切ろうとしているんじゃないのか。許さんぞ。子供はどうなった? 殺したか? あの男はどうしている。同棲しているんじゃないのか? 俺を裏切るものはどうなるか教えてやる」
 彼は彼女の衣服を脱がせ全裸にした。彼女は激しく抵抗したが体力だけはある彼の力に抑え込まれた。彼はバタフライナイフを取り出した。そして彼女の口のガムテープを切った。真希は大声を出した。彼は慌てて口を押えた。
「ゆっくり話しましょう。なんで僕を避けるんです? あなたは僕の王国の妃なんだから帰ってきてください。僕と真希さんは許嫁なんですよ。生まれたときに運命は決まっていたんだ。記念に写真撮りましょう。さあ笑って、微笑んで」
彼はおびえる彼女と一緒に写真に納まった。
 ボクオーンはいっぱい写真を撮った。彼女の体の隅々まで舐めるように撮った。真希は彼を激しく睨んでいた。

 その翌日に警察官がボクオーンのもとへやってきた。彼は抵抗したが逮捕された。刑事と彼の話はまるでかみ合わなかった。勾留期間が過ぎ、彼は釈放された。
 ボクオーンは激怒していた。王国が壊れそうになっていた。危機に瀕していた。復讐の二文字しか彼の頭にはなかった。部屋に隠しておいたUSBメモリーを取り出し写真をネットにアップした。写真はあっという間に拡散した。
 彼は再び彼女の帰りを待ち、壁に隠れ、部屋に侵入した。彼女のおびえる顔は美しかった。ナイフを腹に刺し体内を抉った。彼女はうめき声を出し、こと切れた。
彼は満足していた。彼女を自分の手で殺したことに彼はいたく感動していた。彼女の生から死へ移る美しい瞬間を見届けられたことは素晴らしいことだった。たとえ再び自分が逮捕されてもである。それだけの価値があった。

メディアのカメラの放列の前で彼は誇らしかった。彼は彼女の運命となり、彼女は彼の運命となった。これからどれくらい刑務所に入ろうとも死刑にならない限り彼は自分の誇りを保つことが出来るだろう。彼女を殺せたという事実は彼の中で一層の輝きをこれからも放つだろう。人を殺すことこそが一番素晴らしいのだ。それも彼女のように若くて愛らしい美しい女性をその未来ごと殺すのが何にもまして素晴らしいのだ。彼女の未来は彼の未来となった。彼は残されたわずかな未来を彼女とともに歩んでいくだろう。

                             了


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