エスケープ

北丘 淳士

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駆ける

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 三年後、就活期に入り、大手旅行会社の内定がすぐに決まった。だが今は卒業旅行など考える事はなかった。一緒に行く相手もいない。暇を埋めるようにバイトに勤しみ、孤独が付きまとう様になった。親と連絡をとるのも少なくなり、友人や仲間とも疎遠になっていた。
 大手旅行会社の入社式を終え、オリエンテーション後、手渡された配属先を見た。俺の配属先は葛飾支店の営業部だった。
 果たして、魂を焦がすような仕事が出来る場所なのだろうか、不安もあった。
 初日は当然仕事をさせてもらえなかった。業務内容やお客様への対応、現地での緊急時の対応などマニュアルを二日間ビデオで見せられ、三日後には、ようやくお客様の顔が見える現場に入ることが出来た。営業としての仕事の回し方や、顧客対応などを先輩の隣で教わりながら、徐々に会社の歯車として少しずつ形をなしていく。一ヶ月も経つと、現地コーディネーターとの交渉なども出来るようになった。
 仕事が出来るようになってから残業も増えるようになり、会社や社会の重要な歯車の一部になった気がした。
 二年間、充足感を感じる生活を送っていたところ、人事異動の話が来た。今度の勤務地は新宿本社の第二企画部だった。本社で働けると言う事は、今までの仕事が認められたのだろう。新天地でも即戦力になれるよう、他の先輩に引き継ぎを行いながらも、企画部についての情報を集めた。
 本社の第一企画部が海外旅行向け、第二企画部が国内向けと決められていた。自分が今まで海外、国内の両方を担当していたので、国内の名所や景勝地、サービスの行き届いたホテルや旅館、民宿、その旅行にかかる大凡の収支などを、もう一度頭に叩き込んだ。
 引き継ぎが済んだその週の金曜日、葛飾支店の皆が夜に送別会を催してくれた。思い起こせば支店の皆と飲むのは、歓迎会の時以来だった。
「では、大楠君の前途を祝して、乾杯!」
 支店長の音頭で会は始まった。
 乾杯の音頭の後、俺がビールを一口飲むと、皆が顔をこちらに向け聞いてきた。
「大楠君、入社二年で本社行きなんて、すごいね!」
「毎日頑張ってたもの」
 経理のおばちゃんが、自分の息子のように得意げに言う。
「仕事の多さに、なかなか飲みに誘えなかったもんなー」
 三つ上の先輩が僻みっぽく言う。
「少しは自愛した方が良いわよ。あなた生き急いでいるようにしかみえないもの」
 三十路前の女性社員が、値踏みするように俺を見ていた。
「ところで大楠君、彼女はいないの?」
「ええ、今はいないです」
「恋はいいわよ。でもあなたの仕事量は多すぎだと思う。生き急いでいるように感じるわ。もうちょっとプライベートも楽しまなきゃ」
「すいません。でも今は仕事がないと、落ち着かないんです」
「まあまあ、今は仕事の話は忘れて飲みましょう。せっかくの宴会だ」
 支店長補佐がグラスにビールを注いでくれた。
「あ、ありがとうございます」
「新天地でも頑張って」
 支店長補佐の笑顔は葛飾支店から本店行きが出たことを、誇りに思っているようだった。

 週明けの月曜日の朝、俺はわずかに緊張しながら新宿本社の受付で葛飾支店の社員証を見せた。
「葛飾支店の大楠武一さんですね、承っております。こちらが当日限りの入門証となっております。新しい社員証は上で人事部から貰えます」
 と、受付の女性から入門証を貰った。
「これを、そこのスキャナーに翳せば入れるんですね」
「はい、私が上まで案内します」
 事務的な手続きは簡単に終わった。スキャナーに入門証を翳してゲートを通過し、前を歩く受付の女性に連れられてエレベーターで十二階まで行く。広い通路を歩き、小さな面談室に通された。
「こちらでしばらくお待ちください」
 受付の女性は一礼して、俺が部屋に入るなり音もたてずに扉を閉めた。
 俺は窓際まで歩き、外を眺めた。リクルートスーツを着た新社会人と思しき一群が、緊張した面持ちで不夜城の新宿を歩いていた。俺の今の気持ちは彼らたちと同じだった。
 働く意欲が出た所で扉がノックされた。
 現れたのは、細い黒ぶちのフレームに厚めのレンズのメガネをかけた、いかにも人事部畑で育った感じの痩躯の男性だった。手には青いファイルを持っていた。
「人事部の加藤といいます。座って待っててくれても良かったのに」
「いえ、ちょっと新宿の街並みを眺めていました」
「そうですね、葛飾に比べたら新宿は雑多でしょう。いや、外国人観光客も多いからそうでもないかな? それでは早速、打ち合わせしましょう。ようこそ新宿本社へ」

 午前中は入門証と新しいIDカードの交換や部署案内、食堂の利用方法などを教えてもらった。午後はいよいよ第二企画部への挨拶となる。
 会社案内が早目に終わったので、食堂で一人食事をとる事になった。IDカードで会計が出来ると言う事だったので、定食の中で一番高いC定食を頼んだ。品ぞろえも多く、美味かった。環境には慣れそうだ。
 他の社員で込み合う前に食べ終わり、俺は屋上に上がり、改めて新宿の街並みを見た。種々雑多な人々が動いている。電話しながら忙しなく歩くサラリーマン。昼食の場所を探しているようなOLたち。客引きをしているホスト。路上で拾った雑誌を打っているホームレス。大きなアタッシュケースを引きずる外国人たち。誰に聞かせているのか、ギターで一人弾き語りをする髪の長い女性。多彩多様な人間が動いて、日本の経済を回している。
 そんな人々を見ていると、ふと友利の事を思いだした。
 彼女が生きていれば、今何をしているだろう。まだ恋人同士のままだったかもしれない。結婚していたかもしれない。お父さんの癌は完治して大学に進むことが出来たかもしれない。彼女の可能性を、人生を、死が奪った事に心痛した。
 彼女の分まで生きなくては……。
 そう思っていると、遠くに見えるデジタル時計は十二時半を示していた。俺は一回深呼吸をし、階段室へ向かった。
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