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17.変わりゆく日常

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 そんなこんなで時間はあっという間に過ぎ、武本さんが退院した。

「お見舞いに来ますね」と言って手を振る彼にみんなで激励を贈る。
「お元気で」と言葉をかけた私を筆頭に、ヒュースさんは武本さんにひとつ頷き、赤池さんは手を軽く上げ、ミアくんは少し眉を下げて笑った。

 武本さんはミアくんのベッドに近寄ると、彼の肩をポンポンと叩いて小さく声をかける。
 何を言ったのかは聞こえなかったけど、頷くミアくんの顔つきが明るく変わったので流石だなぁと感心していた。
 入院荷物を彼女さんが持とうとするのを、優しく制して持ち上げる武本さん。
 心配そうにしている彼女の顔を見て、嬉しそうに眉を上げて笑っているその姿はとてもお似合いだ。
 優しい雰囲気を纏ったまま、「では」と武本さんは病室を去っていった。

「あーあ、空いちゃった」

 空いたベッドをみてミアくんが、寂しそうにポツリとこぼす。
 武本さんは物静かな方だったけれど、常に優しい雰囲気をもたらしてくれる人だった。
 姿が見えなくなって、なんとも言えない寂しさを感じたのは、私だけじゃなかったらしい。

「いい事じゃねぇか。まぁ、縁があればまた会えるだろ。また新しいヤツが入ってくるだろうし、気を落とすな」

 そう赤池さんが返しているが、後半は事実そうであっても……縁起でもないことをさらりと言っていて苦笑する。

「でも、ヒューももうすぐ居なくなっちゃうし…。おっちゃんと二人きり……」
「お?嬉しそうな声だなァ?」
「……嬉しいッス」

 カラカラと笑う赤池さんと、半目でそれを見るミアくんのやりとりが面白い。
 今度こそクスクス笑っていると、上から目線を感じた。
 見上げれば、ヒュースさんが優しい顔でこちらを見ている。

 はじめ常に引き締まった顔をしていた彼は、警戒がとれたのか最近この様な顔を見せるようになった。

 男性の、柔らかい微笑みにどきりと心臓の高鳴りを感じる。
 それとなく……でも内心は慌てて目線を手元に戻した。

 私の定位置になったチェスト横で、いつもは家から持ってきた物を荷解きするのだけど……今日は逆。
 ナイロン生地の大きな鞄に荷物を詰めていた。必要なものだけを残し、洗い物は分けて鞄に詰めれば、ベッド周りはずいぶんとすっきりした。

 二日後、ヒュースさんも棟を移動する。

 ここ数日、ヒュースさんと私は移動に伴う書類手続きをずっとやっていた。
 はじめは私が全て代筆しようかと思っていたのだが、英語のスペルで自身の名前を書けるようになったヒュースさんが自らサインすると申し出てくれたので、任せることに。
 ペンを持ち、背を正して手を動かす彼を見て、ふと思ったのは。

 (……なんか、様になってる。)

 そもそも、手渡された書類をみて「これはサインを求められているものだ」とヒュースさんがすぐに判断したところから疑問が浮かび、しばらく横で観察していて確信した。
 サインする前に指で書面をなぞり、内容を一読する仕草や、書かれた中身をきちんと確認するようにしている彼。
 決めつけに近い確信だけど、恐らく以前そういった書類を扱うような仕事をしていたのだろう。

 とは言え漢字も多く、言い回しの難しい手続き書類はまだ理解が難しい。
 簡単な日本語を読めるようになってきていたヒュースさんだけれど、やはり筆は殆ど進まなかったので、私も同席していて良かったとひとり安堵する。
 事故後の第一発見者という以外、血も繋がらない、事故前に面識もない私の同席の意味は本来あまりなく、事務受付の方は一瞬不思議そうな顔をしていたが。
 ヒュースさんの容貌をみて、通訳的な立場の人だとでも納得したのか、説明はほとんど私の顔をみて話していた。
 病院での書類手続き自体はそこまで複雑なものではなかったけれど、並行して生活保護の手続きなど、ヒュースさんの代わりに役所を行ったり来たりしていればどうしても通常より時間だけがかかってしまい、今日に至る。

 (生活保護……か。)

 生活保護を受けるという事は、ヒュースさん所縁の人も土地も、現時点では見つかっていない。という事だ。
 名前しかわからないヒュースさん。
 国内での情報を確認するだけでもそうだし、明らかに日本人ではない風貌の彼の身元を得るには、海外にも目を向けなければならない。
 入出国履歴の確認にも時間がかかる。
 けれど病院のベッドには限りがあって、身体が回復してしまえば本当に必要とする人々の為に出なければならない。

 多分だけど、精神科に移して入院を長引かせている現在の状況は、旭先生の配慮も多く含まれているのではないだろうか。

 国内の犯罪歴にもひっかからなかった彼は、彼を探している人が見つからなかったとき、この地に住む人として住民票をつくり生活を営んでいかなければならない。
 言葉も満足には使えず、生活用品でさえ使い方がわからない人間が「治ったから、はい退院ね」といきなり市政に出されればどうなるだろう。

 もし海外で、お財布もケータイもなく私がその立場に置かれたなら……途方に暮れて……その後は、想像さえできない。

 ほう。と思わずため息を吐くと、ヒュースさんがこちらに目を向けた。
 微かに目を細めたその顔は、こちらを案ずるもの。

 精神科を退院したとき、彼が少しでも安心して暮らせるようにしよう。と私は密かに決心した。
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