月夜に吠えて、君想う

雪兎

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第1話「獣の夜、君と出会う」

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 夜の街は、昼間とはまるで違う顔を見せる。

 コンビニの看板が眩しいほどに光る小道。住宅街の奥、大学の近くにある静かなエリアを、成瀬悠人は一人、足早に歩いていた。時刻は午後十時を回っている。

 「……くっそ、またレポート忘れてきた……」

 自分の不注意を呪うように小さくつぶやく。さっきまで大学の図書館で調べ物をしていて、帰るときに資料を机に置いたままだったことに気づいたのは、家に着いてすぐのことだった。

 怖がりの自分が、こんな時間にまた外に出るなんて、本来ならありえない。

 だけど、レポートの提出は明日だ。どうしても、今晩中に書き上げないといけない。

 「明日こそ締切……! 提出しなかったら単位が……うぅ……」

 うめき声を上げつつも足を止められない。自転車で来ればよかったと後悔するが、すでに時は遅い。

 街灯の少ない通りにさしかかると、背筋を撫でるような冷たい風が吹いた。ビルの谷間を抜けてきた風は、肌寒く、妙に湿っている。

 そのときだった。

 耳の奥に、かすかに聞こえた――ざり、と、何かを踏みしめるような音。

 「……えっ?」

 思わず足を止める。

 音のした方向を見るが、誰もいない。だけど、たしかに何かがいたような気がした。

 「気のせい……だよね……?」

 無理やり笑ってごまかそうとする。けれど心臓がバクバクと鳴っている。いつもこうだ。幽霊もホラーも全部苦手。変な想像が頭をよぎり、身震いする。

 早く、早く行って帰ろう――そう思った、その瞬間だった。

 ――ぐるる。

 地の底から響くような唸り声が、背後から聞こえた。

 「……ッ!?」

 振り返ったときには、すでに何かが地面を蹴って飛びかかってきていた。

 「やっ……!」

 声を上げる暇もなかった。巨大な黒い影――獣のようなそれが、悠人に向かって突っ込んできた。

 硬直した体が、ただ受け止めるしかなかったそのとき――。

 「下がってろ!」

 低く鋭い声が夜を裂く。

 次の瞬間、目の前に白銀の閃光が走った。何かが風を切る音と、衝撃音。悠人の視界の端で、黒い獣が弾き飛ばされた。

 「……えっ……?」

 呆然と見上げた先にいたのは、銀髪の青年だった。

 逆光に照らされて、その姿は幻想のようだった。

 漆黒のジャケットの裾が風に舞い、月明かりの中、鋭く光る金の瞳が悠人を射抜く。

 そして何より、彼の背中から伸びていたのは――長く太い、獣の尻尾。

 「おまえ、無防備すぎる」

 青年はひと睨みし、視線を再び黒い獣へと向ける。目の前の“それ”は、まるで狂ったように地面を引っ掻きながら、唸り声を上げていた。

 獣というより、何かが狂ってしまった異形の生き物。

 悠人は恐怖で足がすくみ、声も出ない。

 だが青年――レオンは、まるで慣れた様子で踏み出した。

 「おまえは、ここで終わりだ」

 そう言うと同時に、彼の姿が一瞬ぶれたように見えた。

 速い。見えない。

 ――ガッ!

 再びの衝突音。今度は黒い獣が地面に倒れ込み、そのまま動かなくなった。

 「…………」

 あまりに呆気ない終わりに、悠人はその場にへたり込んでしまった。足に力が入らない。

 レオンは獣の死骸を見下ろし、それからゆっくりと振り返った。

 「立てるか?」

 無表情な声。けれど、どこか心配するような色もあった。

 悠人は、やっとのことで首を縦に振った。

 「い、今の、なんですか……あれ……あなた……は……」

 「関わらない方がいい」

 冷たい声で切り捨てられる。だが悠人は、どうしても気になってしまった。

 あの鋭い目。人間離れした身体能力。そして――尻尾。

 「……あなた、人間じゃ……ないんですか?」

 問いかけると、レオンは一瞬だけ言葉を詰まらせた。

 そして、月を背にして言った。

 「そうだ。俺は“半獣”……おまえの世界に属さない者だ」

 悠人は、目を見開いた。

 ――半獣。

 その言葉の響きが、悠人の耳の奥で重く残響した。

 「……はんじゅう、って……」

 レオンは言葉を返さない。代わりに、ふう、と小さくため息をついた。

 「知らなくて当然だ。今の人間社会で、俺たちは存在しないことになってる」

 「でも、さっきの……あれは……人間じゃ、なかったですよね……?」

 「あれは、もともとは人間だった」

 悠人は一瞬、息をのむ。

 「けど、人間であることを捨てた。力を手に入れる代わりに、自我をなくした“獣”だ」

 言いながら、レオンの金色の瞳がわずかに細まった。その目は、まるで長く続く夜を見てきたように、深く静かだった。

 「……俺も、放っておけばああなっていたかもしれない」

 それは、誰にも聞こえないような小さな声だった。

 「……助けてくれて、ありがとうございます」

 悠人は震える声でそう言った。

 自分の足元には、まだあの“獣”の残骸が残っている。恐怖は完全には消えていないけれど、それでも、助けてくれた彼に礼を言わずにはいられなかった。

 「礼はいらない。たまたま通りかかっただけだ」

 レオンはそっけなく言い、踵を返そうとする。

 だが、悠人は咄嗟に声を上げた。

 「待って……!」

 「……何だ」

 振り返るレオンの表情は、やはり冷たい。それでも、悠人はひるまずに続けた。

 「名前、教えてください」

 「……は?」

 「こんな夜に、命を助けられて。あなたがいなかったら、オレ……」

 言葉が詰まる。思い出すだけで、背筋が凍る。

 それでも。

 「……名前も知らずに、お礼も言えないの、嫌なんです」

 レオンは、明らかに面食らった顔をしていた。こんな風に真っ直ぐ向き合ってくる人間に慣れていないのかもしれない。

 「……レオン。九条レオンだ」

 「九条さん……」

 「レオンでいい」

 その一言に、悠人の顔がふわりと緩む。

 「あの……オレ、成瀬悠人です。大学生で、近くに住んでて……今日、レポートを取りに戻ってたら……」

 自分でも何を言ってるのか分からない。必死に自己紹介をして、何とか気持ちを落ち着けようとしていた。

 レオンはそれを黙って聞いていた。いや、聞いているというより、観察しているようだった。

 「おまえ、さっきもそうだったな」

 「え?」

 「こんな状況で、怖がってるくせに、俺を真正面から見る」

 悠人はどきりとする。たしかに、自分でもおかしいと思っていた。あんな恐ろしい状況のあとで、逃げるどころか名乗ってる自分がいるなんて。

 けれど、恐怖以上に、気になったのだ。この人がどんな存在なのか。なぜ、そんな悲しげな目をしているのか。

 「……怖いですよ。ほんとは、今でも足ガクガクですし」

 と、正直に言うと、レオンがふっと鼻で笑ったように見えた。

 「……正直すぎるだろ、おまえ」

 「えっ、すみません……」

 「謝るな。嫌いじゃない」

 思いがけない言葉に、悠人は目を見張った。だがレオンはそれ以上言わず、空を見上げた。

 「もうすぐ、月が満ちる」

 悠人もつられて夜空を見上げる。雲間から覗くのは、丸くなりかけた月。静かで美しい光。

 「満月って、何かあるんですか?」

 「“あっち”と“こっち”が繋がりやすくなる。おまえは関わらない方がいい」

 その口調は、まるで――願うように、呪うように、優しい拒絶だった。

 悠人は小さくうなずいた。

 「……でも、また会えたら、いいなって思ってます」

 レオンが一瞬だけ動きを止めた。

 そして、その瞳を少しだけ細める。

 「おまえ、ほんとにバカだな」

 その言葉には、どこか微かなあたたかさが混じっていた。

 レオンは背を向けて歩き出す。悠人はその背中を、しばらくの間見つめていた。

 ――あの人は、人間じゃない。

 だけど。

 ――きっと、誰より人間らしい目をしていた。

 その晩、悠人はなんとか資料を回収し、無事に帰宅した。

 けれど、心はざわざわと落ち着かなかった。

 月の光、金の瞳、黒い影。

 そして、あの銀髪の青年の名を、何度も胸の中で繰り返していた。

 ――九条レオン。

 それが、悠人の世界が少しずつ変わりはじめた、最初の夜だった。
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