フローライト

藤谷 郁

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美しいひと

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「あのさ、エリ」

「何よ」

「カラダの相性って言ってたよね……雪村」

「それが?」


彩子は迷いながらも訊ねる。それは、根本的な疑問だった。


「あの、真面目というか……堅実そうなお爺さんが、できるのかな」

「……そりゃ、できるよ」


エリは答えるが、彩子を見返す目は揺らぎ始める。


――合うんだよね、すごく。

――カラダの相性が。


「あの、文治さんが?」


二人は頭の中で、それぞれ雪村の顔を思い浮かべる。彼女の謎めく微笑みは、何を意味するのか。


――カラダの相性は重要だよ。


北風に翻弄され、枯葉がボンネットに舞い落ちる。探りにきたつもりが迷宮に入ってしまった。

彩子もエリも、ただ黙ってそれを見つめていた。




◇ ◇ ◇




「早いなあ。もう1月5日か」


原田はらだ浩光ひろみつはカレンダーを眺め、独りごとをつぶやく。妻の啓子けいこが居間にお茶を運んでくると、振り返って訊いた。


「良樹よしきは仕事が始まったのか」

「ええ、今日はこっちに帰ってくるはずなんたけど」


彼らのひとり息子である良樹は会社の寮に住んでいる。それほど離れていない場所なので、実家に顔を出すこともあった。

時刻は午後9時を回ったところだ。


「忙しい部署なんだな」


浩光はソファに腰掛け、テレビのスイッチをつける。テレビ番組も正月気分が抜け、だいぶ落ち着いてきたようだ。


「この頃の正月は、ロクな番組をやらんからなあ」


浩光は30年間勤めた自動車製造会社を、二年前に定年退職した。現在は再雇用で同じ工場に通っている。

妻の啓子は夫の定年と同じ頃、20年間続けたパート仕事をやめたので、今は専業主婦。

夫婦共々体調もよく、この頃は二人で観光旅行に出かけるなど、余暇を楽しんでいる。何か心配するとしたら、息子の縁談くらいのものだった。


「で、どうだい、例の娘さんは。交際すると決まったんだろう」

「そうそう、彩子さいこちゃんね。私も早く会いたいわ~。ああ、本当に嬉しくって」


啓子は甘納豆をつまみながら、楽しそうに言う。


「あいつには心配させられたからなあ」


浩光は遠くを見るように目を細めた。


「もう過ぎたことだけど、あの頃は大変だったわよ」


二人は、良樹が大学二年の頃の、とある出来事を思い出している。


「もうあんな思いはたくさん」


啓子は眉根を寄せ、苦々しげにつぶやく。


「それで、良樹は彩子さんについて、なんて言ってるんだ」

「それが男坊主は喋らないから……よくわからないのよ。でも、この頃は電話しても機嫌がいいからねえ。相当気に入ってるんじゃないかな」

「ほお~、へえ~。あの良樹がねえ」


浩光は面白そうに笑った。


「しかし、28、9で結婚なんてこの頃じゃ早い方だろう」

「私は構わないわ。あの子には早く落ち着いてほしいから」

「俺だって、そう思ってるさ」


噂をすれば影。その時、玄関の引き戸が開く音が聞こえた。

「ただいま」

「はいはい、お帰り……あら」


居間に現れた良樹は空手の道着を着て、スポーツバッグを肩に担いでいる。


「稽古だったのか」


ソファにどっかと腰を下ろす息子に、浩光が声をかけた。


「稽古始めだったんだ。30分しかできなかったけどね」

「早く着替えなきゃ風邪ひくわよ」

「うん。ああ~、腹が減った」


啓子は息子の入浴中におかずを温めようと思い、台所に立った。浩光はやれやれといった顔で、息子を眺め回す。


「しかし、道着も帯もボロボロだな。新しいのに替えたらどうだ」

「親父さん、これぐらいが体に馴染んで、ちょうどいいんだよ」

「ふうん、そんなものかね」


良樹が風呂に行くと、入れ替わりに啓子が戻ってきて浩光の向かい側に座る。


「あの子ったら、着る物に無頓着で困るわ。彩子ちゃんと初めて会う時も、つんつるてんのスーツを着て行ったんだから」

「あのスーツをか」

「そう」


浩光は思わずため息をつく。あのスーツというのは、良樹の一張羅である。

職場では作業着で働くのでスーツは必要ない。出張に出掛けるとしても、面倒がって新調しないのだ。


「それに、あの空手着だって、誰にもらったのか知ってる?」

「自分で買ったんじゃないのか?」

「甲斐さんにいただいたものよ!」


浩光はハッとして、妻の顔を見る。


「まだ、あれを着てたのか」

「口出すと嫌がるから、黙ってるけど。わが子ながら無頓着で……というより、無神経なのかしら」


廊下から足音が聞こえてきたので、啓子は喋るのをやめた。


良樹が夕飯を食べ終ると、啓子はコーヒーを三人分淹れて居間に運んだ。


「ちょっと良樹。ここに座んなさい」

「はいはい、何でしょうか」


ソファを指さす母親に、息子は冗談っぽく返す。


「取調べだよ、良樹」


浩光までふざけるので、啓子はじろりと睨み付ける。

男二人は目を合わせ、首をすくめた。

良樹は両親と向き合って座ると、コーヒーにミルクだけ入れて軽くかき混ぜた。


「ねえ、彩子ちゃんのことなんだけど、あんたどう思ってるの」

「どうって、何が?」

「どんな風に思ってるのか、気持ちを訊いてるの!」


とぼけた返事に、つい声が大きくなる啓子。浩光はまあまあと宥めてから、良樹を促した。


「我々は彩子さんに会ったことがないからね、どんな感じなのか聞きたいんだよ」

「う~ん、そうだなあ」


良樹はコーヒーをひと口含むと、何か思い浮かべるようにして言った。


「面白い子だよ」

「面白い? 冗談とか駄洒落が上手いのか」


浩光は真面目である。


「違う違う。一緒にいて、退屈しないってこと」

「つまり、気が合うってこと?」


頷く良樹を見て、啓子は喜びの声を上げた。


「いい感じじゃないの。今度ぜひ、うちに来てもらわなくちゃ。なるべく早く」

「そうだな、父さんも会いたいな」

「わかった」


良樹はコーヒーを飲み切るとカップを置き、そそくさと自室に引き揚げた。両親は物足りなそうに、それを見送る。


「もっといろいろ聞きたいのにねえ。男の子ってホントに喋らないんだから」

「はは……照れてるのさ」


とりあえず、息子の縁談は順調に進んでいる。本人に確認できたので、二人は安堵の表情を浮かべた。
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