先生

藤谷 郁

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告白

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赤ワインの瓶。

それが、教室に入って最初に取り組んだデッサンのモチーフ。簡単に思えた。だけど、すぐにそれは間違いだと気付いた。

ワインの瓶は、直線と曲線を有し、コルクと、ガラスと、ラベルの質感がそれぞれ異なっている。それを鉛筆のみで紙の上に表現するのだ。四苦八苦して、何枚も描いた。2時間をそのデッサンのみに費やし、何とか納得できたものを先生に見てもらった。

入会3回目の教室だった。


「う、う~む」


先生は顎に手をやり、唸っていた。

私は「駄目なのかな」と、鉛筆で黒くなった指先を擦りながら、小さくなっていた。


「よし、初めてにしては上出来ですよ。これは取っておきましょう」


顔を上げると、先生は微笑んでいた。


「取って……おくのですか?」

「はい。星野さんは入会一年目ですから、秋の展覧会にはデッサンと水彩画を出品していただきます」


私はぎょっとして、目を丸くした。


「じゃあ、これを出品するということですか?」


そんな、未熟以前のものを……と、私はうろたえた。

すると、横で先生と私のやり取りを見ていた、教室でベテラン会員である達川たつかわさんが言った。


「生徒の習熟を知らせるためでもあるのよ。秋の展覧会前にもう一度、同じモチーフで描いて、その取っておく一枚と並べて展示するの」


65歳になろうとは思えない張りのある声で簡潔に説明され、私はなるほどと頷いた。


「上達しますよ、星野さん。君はいい。なかなか、良いですよ」


先生は、私のデッサンをまじまじと見つめながら、感心したように言った。私は、まるで自分が見つめられているように、体が火照ってきて、落ち着かなかった。



あれから2ヶ月。

私は今、その赤ワインの瓶を前に、やはり四苦八苦して鉛筆を動かしている。

最初に描いた時よりも、何故か上手く表現できない気がした。私は、先生が油絵を描く人達を指導するのを横目で見ながら、焦り始めている。


(上達すると言われたのに……私は先生の期待を裏切っている)


しかし、焦れば焦るほど、紙の上に表した線も質も、モチーフから遠いものになってゆく。

秋までに、何とかしなければ。

汗が滲んでくる。集中力を失い、雑念に気を取られる。私の手は行き場を無くしたように、静かに止まった。


今日、この教室に入る前に、真琴と交わした会話は私に刺激を与えた。

私は他の誰かと恋愛など、考えられない。先生でなきゃ、嫌だ。

だから、合コンの誘いを断った。真琴は「行くだけ行ってみようよ」と、なおも誘ったが、どうしてもその気になれなかった。

「本気で好きなの? その先生を」と、呆れ顔で訊く彼女に、私は深く頷いていた。

真琴はとりあえずは諦めたようだが「でも、いつまで片想いしてるつもり?」と、目を伏せる私を覗き込んできた。

いつまで片想い? いつまで……

そんなのは分からない。

答えられない私に、「どんどん年、取っちゃうんだから。早く告白して、駄目なら次、行かなきゃ」と、嫌味でも皮肉でもなく、彼女は言い聞かせた。

やがて煮え切らない私にため息をつくと、「なにか状況が変わったら連絡して。待ってるよ」と、そう言い置き、私の髪をそっと撫でてから、カフェを出て行った。

これから合コンの幹事と打ち合わせだと言って。


――早く告白して、駄目なら次、行かなきゃ。


「ちょっと貸してください」


不意に、背後から伸びた手が、私の握っていた鉛筆を取り上げた。


「あっ?」


振り向くと、先生の作業着の胸元がそこにあった。もう一度声を上げるところだった。


「そうだね……」


油絵の具の匂いが私を包んだ。先生の匂いだ。

顔を前に戻した。胸がどきどきしている。

先生は、私が持つスケッチブックの上に、3Bの鉛筆でひと息に何本も縦線を引いた。そして傍らにある道具箱から2Hの鉛筆を取り出すと、さらに線を引き、明暗をつけていった。

ガラス質の立体が、魔法のように現れてくる。私は胸が高鳴るのを感じながらも、その素早く明確に引かれた描線に見とれていた。


「遠慮は迷いから」


先生は私に鉛筆を持たせると、呟いた。


「迷っていると、線が遠慮がちになる。それでは、感じたままの質感を表現できません。君は……」


先生は腰を屈めた格好で、私のすぐ背後に迫っている。息がかかりそうなほど近くに。


「何か迷っている」

「……」


心を見抜かれた。そう感じて、眩暈がしそうだった。


「僕では解決できませんか」


息を呑んだ。

鉛筆を持つ手が震えそうで、私は慌ててそれを道具箱に戻した。


「私……」


声は震えていない。私はほっとしながら、次の言葉を探した。


「うん?」

「あの、少し……考えさせてください」


精一杯の返事だった。


「分かりました」


先生の体が起きて、背中から離れた。


「何でも相談してください。遠慮しないで、ね」


前を向いたままの私の肩にそっと手を置き、先生は立ち去った。



いつの間にか、教室の終了時間が迫っている。

後片付けを始める生徒がちらほらと見えて、私もデッサン用の道具箱を整理して片付け、鞄に詰め込んだ。


「ねえ、そうでしょ」

「およしなさいよ、もう」


ふと視線を感じた。

その方向から密やかな声が聞こえ、私は何となく振り返った。達川さんと、彼女と仲の良い入会10年目の同じくベテラン会員の市田いちださんが、こちらを向いてにこにこしている。

市田さんは達川さんよりもさらに年上の67歳。彼女は年齢相応の白髪頭だが、いつも好奇心に満ち溢れた瞳をキラキラさせて、やんちゃな子供のような雰囲気を持った人である。


「?」


曖昧に笑みを浮かべた私に、市田さんは小柄な体を寄せてきて、ひそひそ声で囁いた。


「アタシはこの教室にもう10年通っているが、初めて見るよ」

「え?」

「先生だよ、島先生」


私は、市田さんが目で指したほうを見た。島先生が、片づけを終えて帰る生徒の見送りをしている。


「先生、ですか?」


何かあったのかと、真面目に訊いたのだが、市田さんはニヤニヤしている。そして、いかにも楽しそうに教えたのだ。


「生徒の体に触れるなんて、初めて見た。あんたにだけだ」


言葉の意味を咀嚼し、それから私は、市田さんの顔をびっくりした目で見やった。


「ねえ、達川さん。おたくも、気付いてるでしょう」


達川さんは、嬉しそうにしている市田さんに「困った人ね」と肩をすくめ、私には手を振ってみせた。


「気にしなさんな、星野さん。この人はミーハーで、島先生の大ファンだから、どうでもいいことに目が行くのよ。肩をぽんとするくらい、どうってことないじゃない」


私は反射的に、ブラウスの肩に手をやった。


「それだけじゃないよ~」


市田さんは手際よく片付けをしながら、鼻歌交じりで続けた。


「教室の誰かを『きみ』なんて呼ぶのも、聞いた事が無い『何々さん』とか『あなた』とか、そう呼んでるのに」


肩を押さえたまま突っ立っている私に達川さんは苦笑して、荷物をまとめて立ち上がった。


「気にしない気にしない。もう、いい加減に行くよ。アンタは全く、ミーハーなんだから」

「へっへへへ」


二人は仲良く肩を並べ、帰って行った。

私はその場でぼんやりしていたが、殆どの人が出て行ったのに気が付くと、慌てて鞄を抱えた。

扉のところに先生が立っている。

今聞いたふたつのことが頭に渦巻いて、私はぎこちない表情と態度になった。


「あ、ありがとうございました」

「遅いですから気をつけて。また来週、お会いしましょうね」


俯き加減の私に、いつもの声掛けをしてくれる。何も特別な意味は感じられない。後ろにいる生徒にも、同じような調子で声をかけている。

同じような調子で……

私は、倒れそうになりながら階段を下りた。



アーケードの商店街を抜け、駅に着いても、ぼうっとしていた。

ふと、自分の肩に手を置いてみた。

先生の温かい手の平を思い出す。


「どうして?」


私は堪らなくなっていた。先生に、言いたくて堪らない。


「迷っているのは、あなたのことです。あなたしか、解決できない!」


――早く告白して、駄目なら次、行かなきゃ。


真琴の言葉が私を煽る。


――生徒の体に触れるなんて、初めて見た。あんたにだけだ。

――『きみ』なんて呼ぶのも、聞いた事が無い。


市田さんの言葉が後押しをする。

私は、大それた決心をしようとしている。
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