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素描
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松山さんは私の言葉にきょとんとしたが、やがて肩を揺らして笑い出した。
言ってしまってから、私は赤らんだ。つまり男の人を食事に誘ったことになる。でも、こういった場合どうすれば良いのか分からず、それぐらいしか思いつかなかったのだ。
「普通は飲みに行こうって言うよな」
「あっ」
お酒……そう言われればそうだ。この場合、ご飯よりもアルコールだ。それはやはり……しかし、ということは二人で飲みに? 男性と二人で。
経験の無いシチュエーションを想定して私は困惑する。
見上げると、松山さんの表情から翳りが消えていた。
いつものように大らかな眼差しだけれど、少し寂しそうに見える。
大丈夫、この人となら。
私は思い出した。悲しくて、消えてしまいたいくらい惨めだったあの夜。あの時、そばにいてくれてどれだけ救われたか。この人は恩人だ。恩返しをしなければ。
私はあらためて、『一緒に飲みに行こう』と言い直すことにした。お酒はそんなに飲めないけれど、お付き合いくらいはできるはず。
「松山さん、あの……」
「気持ちだけでいいよ。サンキュ」
「えっ?」
松山さんは前を向くと、クラクションを軽く鳴らした。
私は言いかけた言葉を飲み込み、ゆっくりと動き出すトラックから離れた。
「松山さん!」
入れ違いで別のトラックが入ってきて、公道に出て行く後姿を見送るほかなかった。
行ってしまった。慰めることもできず、私はただ立っていただけ。何も出来ないのだろうか。松山さんのあんな寂しそうな表情は初めてで、胸がしめ付けられる。
私は携帯電話をポケットから取り出すと、少し考えてからメールを打った。
底無しに飲める友人が一人いる。しかも明るい酒である。
松山さんは勘のいい人だ。私が本当は、二人きりで飲むのをためらっていると見抜いたのだ。
だから、自分から遠慮したのだろう。
あんな良い人が寂しい思いをしているのに、放っておくなんて、そんなことできない。二人が無理なら三人で飲めばいい。
送信して1分もしないうちに着信音が鳴った。新田真琴からの返信だ。
――飲みの誘いならいつでもOKだよ~。その人さえ良ければね。日時と場所の連絡よろしく!
酒も話も飲み込みの早い友人がありがたかった。
じりじりと照りつける夏の陽射しに顔を向けると、私はひとり頷いてから職場に戻った。
今日は木曜日で、教室のある日だ。
私は仕事を早めに終わらせると、引き出しからスケッチブックをそっと取り出し、ロッカールームに急いだ。昼休みに松山さんのスケッチをして、そのままになっていた。
「あ、お疲れ。絵の教室に行くの?」
ロッカールームに入ると、昼休みに松山さんのことで冷やかした小橋さんが着替えていた。私が小脇に抱えたスケッチブックを、彼女はちらりと見た。
「うん。7時からだから、急がなきゃ」
「そうなんだ。この近く?」
「アーケード街にあるビルなの」
「え、そんな近場に絵画教室なんてあったんだね、知らなかったあ」
会話しながらも着替えを急いだ。あと15分しか無い。
「そういえばさ、マジで訊くんだけど」
「うん?」
小橋さんは不意に静かな口調になった。私は制服をハンガーにかけてロッカーにしまうと、彼女に見向いた。
「松山さんのこと、本当に好きなの?」
「……」
真面目な顔。というよりも、どこか深刻そうな表情を浮かべている。私は軽く否定しようとした言葉を引っ込めてしまった。
「やめておきなよ」
「えっ」
小橋さんは、なぜか気だるそうに髪をかき上げる。私より一つ年上なだけなのに、彼女の仕草はとても女っぽくて、大人らしい。
「ちょっとね、男の人に噂を聞いたんだけどさ、あの人ね、案外悪いみたいよ」
「……悪い?」
「女癖」
松山さんが、ということだろうか。私はピンとこず、彼女を不思議そうに見返した。
言ってしまってから、私は赤らんだ。つまり男の人を食事に誘ったことになる。でも、こういった場合どうすれば良いのか分からず、それぐらいしか思いつかなかったのだ。
「普通は飲みに行こうって言うよな」
「あっ」
お酒……そう言われればそうだ。この場合、ご飯よりもアルコールだ。それはやはり……しかし、ということは二人で飲みに? 男性と二人で。
経験の無いシチュエーションを想定して私は困惑する。
見上げると、松山さんの表情から翳りが消えていた。
いつものように大らかな眼差しだけれど、少し寂しそうに見える。
大丈夫、この人となら。
私は思い出した。悲しくて、消えてしまいたいくらい惨めだったあの夜。あの時、そばにいてくれてどれだけ救われたか。この人は恩人だ。恩返しをしなければ。
私はあらためて、『一緒に飲みに行こう』と言い直すことにした。お酒はそんなに飲めないけれど、お付き合いくらいはできるはず。
「松山さん、あの……」
「気持ちだけでいいよ。サンキュ」
「えっ?」
松山さんは前を向くと、クラクションを軽く鳴らした。
私は言いかけた言葉を飲み込み、ゆっくりと動き出すトラックから離れた。
「松山さん!」
入れ違いで別のトラックが入ってきて、公道に出て行く後姿を見送るほかなかった。
行ってしまった。慰めることもできず、私はただ立っていただけ。何も出来ないのだろうか。松山さんのあんな寂しそうな表情は初めてで、胸がしめ付けられる。
私は携帯電話をポケットから取り出すと、少し考えてからメールを打った。
底無しに飲める友人が一人いる。しかも明るい酒である。
松山さんは勘のいい人だ。私が本当は、二人きりで飲むのをためらっていると見抜いたのだ。
だから、自分から遠慮したのだろう。
あんな良い人が寂しい思いをしているのに、放っておくなんて、そんなことできない。二人が無理なら三人で飲めばいい。
送信して1分もしないうちに着信音が鳴った。新田真琴からの返信だ。
――飲みの誘いならいつでもOKだよ~。その人さえ良ければね。日時と場所の連絡よろしく!
酒も話も飲み込みの早い友人がありがたかった。
じりじりと照りつける夏の陽射しに顔を向けると、私はひとり頷いてから職場に戻った。
今日は木曜日で、教室のある日だ。
私は仕事を早めに終わらせると、引き出しからスケッチブックをそっと取り出し、ロッカールームに急いだ。昼休みに松山さんのスケッチをして、そのままになっていた。
「あ、お疲れ。絵の教室に行くの?」
ロッカールームに入ると、昼休みに松山さんのことで冷やかした小橋さんが着替えていた。私が小脇に抱えたスケッチブックを、彼女はちらりと見た。
「うん。7時からだから、急がなきゃ」
「そうなんだ。この近く?」
「アーケード街にあるビルなの」
「え、そんな近場に絵画教室なんてあったんだね、知らなかったあ」
会話しながらも着替えを急いだ。あと15分しか無い。
「そういえばさ、マジで訊くんだけど」
「うん?」
小橋さんは不意に静かな口調になった。私は制服をハンガーにかけてロッカーにしまうと、彼女に見向いた。
「松山さんのこと、本当に好きなの?」
「……」
真面目な顔。というよりも、どこか深刻そうな表情を浮かべている。私は軽く否定しようとした言葉を引っ込めてしまった。
「やめておきなよ」
「えっ」
小橋さんは、なぜか気だるそうに髪をかき上げる。私より一つ年上なだけなのに、彼女の仕草はとても女っぽくて、大人らしい。
「ちょっとね、男の人に噂を聞いたんだけどさ、あの人ね、案外悪いみたいよ」
「……悪い?」
「女癖」
松山さんが、ということだろうか。私はピンとこず、彼女を不思議そうに見返した。
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