先生

藤谷 郁

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黎明

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家まで送ってもらう車の中、私は島先生と、今までとは違う距離感で隣り合っている。

肌と肌が触れる前とは質の異なる緊張感。

夕闇に包まれる街。私の家に、このまま着かなければいい……本当の望みを言えば、先生の家に戻ってしまいたい。

私の心と体は、いまやすっかり彼のものだった。


「今日は結局、君を描けなかったね」


ハンドルを操作しながら、先生がすまなそうに言う。

私も、今になってそのことに気付く。先生の自宅に招かれたのは、絵のモデルになるのが目的だったのに。

先生も同じ気持ちなのか、照れくさそうに笑った。


「白状すると、あれは口実だった」

「……」


驚いて先生を見ると、恥ずかしさを誤魔化すように、額に垂れた前髪をサッとかき上げる。

頬が紅く染まっていた。


(口実。私を家に招き入れるための?)


ぼうっとする私に、先生は更にすごいことを告げる。


「今日は初めから……君と、こうなることを望んでいた」


先生はウインカーを出すと、通り沿いのガソリンスタンドに車を入れた。

私は返事のしようがなく、膝に視線を落す。もしかしてと感じてはいたけれど、それを先生は、こんなにも正直に打ち明けた。

スタンドのスタッフにカードを渡すと、先生は車の窓を閉め、通りを向く姿勢で話を続ける。


「でも、君を描きたいのは本当だ。週末にアトリエに来て欲しいのは実際の望みだよ」


私はぎこちなく頷く。それが精一杯で、言葉が声にならない。


「こんなことを話したら誤解されるかもしれないけど、僕は君の素肌の色が好きで」


反射的に顔を上げた。先生もこちらを向くので、まともに視線が合った。私はびっくりして、もう一度俯いてしまう。

先生が困っているのが気配で分かる。でも、どうしようもない。

素肌の色が好き――と、彼は言った。なぜそんなにも、次から次へと刺激的な告白をするのだろう。

もう私は、いっぱいいっぱいだ。


「星野さ……」


先生は言いかけ、囁くように名前を呼び直した。


「薫」


胸がどきどきする。何とも言えない喜びが心に満ち溢れる。

それなのに、やっぱり先生を直視することができない。不器用な心がもどかしかった。


「薫、僕を見て」


優しい呼びかけに、そっと顔を上げた。潤んだ瞳が私を見つめている。


「君の素肌は夜明けの色」

「え……」

「君は教室で、僕が近付いたり絵の指導をすると、すぐにその……素肌をばら色に染めた。自分で、気付いていたかな」


私は顔を横に振る。

確かに、先生が近付くたびに体が火照った。でも、そんなに赤くなっていたなんて、知らなかった。


「その素肌の色が僕は好きでね。どこを見ているのかと、変に思われるのが嫌で言いたくなかったけど、本当の話だから」


先生は窓を開け、スタッフからカードを受け取り、車のエンジンをかけた。その場にいるのがいたたまれないように、すぐに車を動かして通りに出る。

ほんの数分の間に夕陽が沈み、街は夜になっていた。


「遅くなってしまった。早く帰ろう」


先生は何も言わない。私があまりにも幼い反応をするから、黙ってしまったのか。

だけど、私は話の続きを聞きたかった。すごく大事なことのように思える。

甘えてる場合じゃない。


「先生、続きを教えてください。私、聞きたいです」


松山さんの運送会社の前に差し掛かる。トラックが何台かとまっている。その中に、松山さんの専用車両があるかもしれない。

昨夜、彼は電話で『がんばれよ』と私に言った。

そう、がんばらなければ――


先生はトラックの列に一瞬目を当て、言葉を継ぐ。


「僕はどうしても、君とこうなりたかった。その素肌を、心ごと自分のものにしたいと、切望していたんだ」


運送会社はすぐに見えなくなり、私の視界には先生のみが存在していた。


間もなく私の家に着く。

先生は、角を曲がる前に車を停止させた。


「僕はね」


ふいに私の肩を掴み、自分のほうへと向けさせる。


「君にはもう分かっていると思う。僕は人一倍欲望が強い。その対象は、今までは芸術だった。一切妥協せず、徹底的に拘ってきた。変人と揶揄される程に激しく、強引にね。だが今は、それと同じくらいに君を欲しているし、絶対に誰にも渡したくない」


静かに燃える双眸と強い力に、私は息を呑む。先生の言葉すべてがダイレクトに響いてくる。

これが彼の真実の姿。

でも、私は知っていたのかもしれない。彼が内包する、意外なほどの情熱を。

だから、こんなにもこの人に惹かれる。


「薫……」


ぽつりと聞こえる声は自信なさげで、これ以上無いくらい真摯な呟きだった。

先生は目を上げると、何か言おうとする。唇を開きかけるが、そのまま引き結び、私の肩を離した。


「ごめん」


どうして謝るのだろう。彼はすまなそうに、どこか寂しそうにも感じる微笑を浮かべる。何か、大切なことを伝えられず、あきらめてしまった顔。

先生は私の家を見上げ、窓から漏れる明かりに目を細める。


「欲張っては罰が当たると、戒めたばかりだった」


私の手を柔らかく包むと、肩をすくめた。


「薫」

「はい」


何度呼ばれてもどきっとする。

先生は体をずらして私に近付くと、手を握り、耳元で囁く。


「海……気をつけて行っておいで。危ないことはしないで」


握った手に力がこめられ、男性の目で見つめられる。


「先生」


私は自然に瞼を閉じる。


「僕のところに戻ってくるのを、待ってる」


唇が重なった。

とても誠実で、それでいて蕩けるように甘い、約束のキスだった。
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