先生

藤谷 郁

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惜別

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「悪い、待たせたな」

マスターが声をかけると、松山さんはこちらをちらりと見るが、すぐに横を向いた。


――期待させちゃ駄目。

――受け入れてくれ。


二つの声が内耳で渦を巻き、引き裂かれそうだった。私は一人しかいない。だけど……

怖い顔で無視を決め込む彼は、張りつめた弦のよう。少しでも強く弾けば簡単に切れてしまうだろう。

(この人を守りたい)

私の中で、それだけが確かな意志だった。こんな気持ちを誰かに抱くのは初めてで、自分でも驚いている。

「それにしても松山、お前飛ばしすぎだぞ。少しは自重しろよ」

「……すみません」

いきなり小言をくらい、ばつが悪そうに肩を竦める。

「村上さん、違うの。スポーツセダンらしい走りを見せてって、私が頼んだのよ」

真琴が横から口を挿むとマスターは一瞬ぽかんとなり、呆れた顔で二人を眺めた。

「あのなあ……公道はサーキットじゃないんだぞ。何かあったらどうするんだ。自分達だけじゃ済まないんだぞ」

私までビクッとする。マスターは案外、本気で怒ると怖い人かもしれない。

「ごめんなさい」

真琴がしゅんとして謝ると、マスターの顔から怒りが消えた。
 
「ん……まあ、分かってくれたらいいんだが」

私はここで初めて、今回の旅行における本来の目的を思い出す。松山さんもはっとした表情だ。同じことに気付いたのかもしれない。

「村上さん」

松山さんが明るくマスターを呼び、チケットを二枚渡した。

「ちょっと提案なんですけど」

「うん?」

受け取った二枚のチケットを不思議そうに見るマスターに、松山さんは言った。

「四人だと歩きづらいから、別々に行動しませんか」

「別々……?」

「俺は薫と一緒に見て回ります」

マスターは驚くが、すぐにチケットを真琴に渡す。

「おお、なるほど。それはいいアイデアだよ。なあ、真琴さん」

「あ、うん」

真琴は曖昧な笑みを浮かべつつも頷く。複雑な心境だろうけれど、ここは受け取ってほしい。

マスターは真琴の手をとり、入場ゲートに向かって悠々と歩き出した。真琴が何度か振り向くが、混み合う人に紛れ、やがて見えなくなる。

「さてと」

松山さんは大きく息を吐いてから、私に見向く。もう視線を逸らしたりしない。

「今日の主役は俺達じゃなかったな。行くぞ」

私は頷き、はぐれないよう付いていく。いつもどおりの態度が嬉しくて、景色がじわりと滲んだ。
 

水族館はこみ合っていたが、館内はゆったりとした造りなので、のんびり見て回ることができた。

松山さんは私の斜め前を、時々こちらに目線をくれながら歩く。無言でも構わなかった。彼の横顔から、頑なさは消えていた。

「結構広いな」

巨大水槽の前に出ると、松山さんは独り言みたいに呟いて、それから、もっさりと流れるように移動していくウミガメを目で追っていた。

「喉、渇かねえか」

「そ、そうだね」

アクリルガラスのカーブに沿って進み始める彼の後を追った。

青みがかった空間は、海の中にいる錯覚を起こさせる。幻想的で、きれいで、そしてどこか懐かしかった。

巨大水槽の裏側に自販機コーナーがあり、松山さんは小銭をポケットから取り出すと、私にほらと寄越した。

「ありがとう」

遠慮せずに受け取った。硬貨は温かく、ずっと握りしめていたのだと思った。

松山さんはコーヒー、私はオレンジジュース。それぞれ飲み物を手にすると、流木をかたどった椅子に並んで腰かけた。水槽を眺められるよう設置されている。

松山さんは、喉が渇いたと言うわりには少し口にしただけで缶を弄っている。

何か言いたくて迷っているのだと分かった。だけど、気持ちが落ち着くまで待とうと思い、声はかけないでおいた。

「村上さんから、色々聞いたんだろ」

魚影を追いながら口を切った。

穏やかな声。いつかの、月が翳った夜を思い出す。あの夜、二人はこんなふうに傍にいた。

「遠足は、水族館だった」

思わず顔を上げると、彼もこちらを向く。

「あの日以来だよ」

子供を抱っこした母親と、ベビーカーを押す父親が目の前を通り過ぎた。松山さんはそれを見送ってから、私に再び目を当てる。

「俺はガキのままだ。お袋に捨てられた事実を受け入れられず、あの人と似たような女と付き合っては確認しようとした。俺を愛してくれてるって。ずっと、そんな事の繰り返しだった。懲りもせず、飽きもせず、納得がいかなくて、殆ど意地みたいなもんだ。無限に続くような、不毛な……」

そこまで言うと口をつぐんだ。

携帯が鳴っている気がした。でも、出たくなかった。松山さんの邪魔を誰にもさせてはいけない。そんな気がして。

「薫」

搾り出すように名前を呼ぶ。

瞳の色は蒼く深く、眼差しは真っ直ぐだ。私の体はどこも動かない。

「俺、お前が好きだ」

言いたくないことを無理矢理言わされていると、そんな苦しげな告白。何も応えられず、ただ見つめ返す私に彼は続けた。

「いつからかわからない。いつの間にかお前に惚れてた。一目で女を気に入り、こいつを俺のものにしよう、さあ口説くぞっていういつものパターンを無視して、いつの間にか始まってた」

松山さんはコーヒーを飲んだ。

「ふう、喉がカラカラだ」

私はオレンジジュースに目を落とす。さすがにもう、彼を見ていられなかった。

「ちゃんと聞けよ」

怒ったように言われ、目を伏せたままで頷く。

「まさかと思ったよ。全然俺の好みじゃない。お袋に似ても似つかぬ地味で冴えない、鈍くさそうな事務のお姉ちゃんに惚れるなんて!」

あまりの言い草に、つい顔を上げそうになる。でも仕方がない。私への評価なんて実際そんなところだろう。

「だけど、お前は俺に対して、やけになつっこくて、壁もないし、その……上手く言えないけど……お前に会う度、懐かしい気がした。自分でもよくわからねえ」

首を左右に振り、ため息をひとつ。懐かしいとは、どういう意味だろう。

「初めはそれだけだった。でも、いつの間にかお前を、女として意識するようになってたよ。いつからか分からないけど、強いて言うなら多分、俺が婚約破棄されたあの頃。いや、もう少し前の……」

私を女として意識するようになった。いつ、どんなきっかけがあったというのだろう。

答えを待つ私に、彼はクスッと笑う。

「夢を見て、うなされてたろ」

「夢?」

にんまりとする顔に、私は閃く。

昼休憩の時間に事務所でうたた寝して、先生の夢を見て、寝言を松山さんに聞かれたあの時?

「ま、まさか。そんなっ」

狼狽する私に、松山さんはますますスケベっぽく笑う。

「あの時はマジで焦ったなあ、色っぽくて」

「も、もうやめて」

恥ずかしくて、いたたまれない。忘れかけていたことなのに。

「でも、真面目に思ったよ。お前のあんな声、他の奴に聞かせたくない」

真顔になった彼の目に、あの日が映し出される。怖い顔で、他の奴に聞かせては駄目だと、この人は言った。どういう意味か分からなかった言葉。

松山さんは、私の何もかも見透かしている。でも、この視線を避けて隠していることが私にはある。言えない事実が……

「先生に、聞かせたんだな」

館内のざわめきに飲み込まれそうな、低い呟きだった。

だけど私には、雷鳴の轟きのように、全身に衝撃を与える一言だった。

「松山さん、どうして」

「ショーの時間だ」

突然、松山さんが立ち上がる。急激な動きに肝を潰されそうになり、固まったまま見上げた。

「ショー……?」

「イルカだよ」

聞こえてきた館内アナウンスに、私は耳を澄ました。イルカショーが始まる案内が流れている。

「行ってみるか」

「う、うん」

私も立ち上がり、胸元に手を当てて、どきどきする心臓を押さえた。

ここにある先生の痕跡。そのしるしを、この人は見透かしていたのだ。

「チクショウ……あのオッサン、あんな風にお前を泣かせておいて……よくも」

この人は怒っている。先生に、そして私にも。

「許せねえよ」

「松山さん、私……」

泣きそうだった。自分は最低の女だと思った。

守るどころか、守られてばかりいる、無神経な人間。

おずおずと見上げる私に、彼は寂しげに笑いかける。

「俺はお前に惚れながら、お前の恋が成就するのを本気で願ってた。馬鹿すぎるよな」

目の縁が光っている。

初めて見るこの人の、青く透明な宝石だった。
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