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54 なんてことない日
しおりを挟む読んでいた本を閉じて、シェリルは隣にいるクライドを見やった。
彼は集中しているのかシェリルの視線には気がつかず、かといって声をかける理由もないのでクライドの横顔をじっと見つめた。
束になった重たいまつげが影を落とし、血色のいい頬と、紅を指したかのように色鮮やかな唇。
よくよく見てみればそれらは作り物のように美しく、まるでガラスを一枚挟んだショーケースの中に展示されている美術品のようだった。
しかし、シェリルにとって彼はそんな手の届かない代物ではないし、手を伸ばしてはいけない立場でもない。
ただ今まで進展してこなかったし、昔から騎士と主という関係性でいたからこそ、今更、急いで変わろうとお互いに思ってもいなかったと思う。
……でも、機会があればそういうふうに接することだって……もちろんいけないことではないはずよね。
ただその機会が、なかなかやってこなくて、案外目の前のことに対処するので精いっぱいで前に進むことは難しい。
クライドは自分の中にシェリルと今以上の関係になりたいと思う欲があるからこそ、何も知らない状態で気軽にスキンシップを取ることを拒んだことがあった。
その時には、まごうことなくクライドはその機会を待っている、それを望んでいると言っていたが、そんな欲望があるとは思えないほど彼は自ら機会を作り出したりしない。
彼が動かないので、シェリルもこのままでいいような気がしていた。
しかし、よく考えてみると彼が機会を作らなければいけない理由などはないし、もしかしたらシェリルが望んで動くことを待っているのかもしれない。
彼の側から動けば、きっとシェリルは驚いて、あらぬ行動を取ったり失敗してしまうかもしれない。
だからこそ心の準備をして機会を作るのはシェリルの役目ではないだろうか。
そう考えると腑に落ちて、本をテーブルにおいて、それから髪を少し整えて、肩の後ろにやってからシェリルはクライドの肩をトントンと叩いた。
彼はすぐに顔をあげて、シェリルはその腕に手を置いて少しかがみ、目をつむってキスをした。
小さなリップ音が鳴ったが、感触は思ったより固めだった。
「っ……」
なにか違いを感じて目を開くと、クライドは鼻先を抑えて、シェリルと目が合った。
「……」
「……」
唇に軽くキスをしてみようと思っていたのだが、どうやら狙いが外れたらしい、ということをシェリルはやっと理解した。
しかしそれを説明するのは、なんだかとても難しい。
それにそうしようと思った理由だって、なんとなく思い立ったから、だ。
クライドはシェリルが動くのを待っているかもしれないという非常にうぬぼれた考えを持って自分から行動を起こしたが、よく考えれば進展を望んでいないから機会を作らなかったという可能性だってあり得ない話ではない。
それなのに、勝手にキスを試みて、勝手に失敗をして固まる自分は、とても滑稽だろうと思うと羞恥心に眩暈がした。
「……ま、間違えて、そう間違えたというか……」
口の中だけで呟くような、とても情けない言い訳をどうにか口にする。しかしクライドの顔は見ることができなかった。
その情けのない言い訳がクライドに聞こえているかも怪しいし、突然やってきた気まずい状況を打破する方法は思い浮かばない。
もうこの場から、はじけ飛んで消えてしまえたら楽なのにと思うけれど、実際にそんなことが起こることはない。シェリルの手を彼は取って、しばらくして静かに言った。
「間違えただけなのか? 本当に?」
問いかけに、首を縦に振って猛烈に肯定する。
「キスをしようとしてくれたんじゃないか」
さらに聞かれてシェリルは大きく首を横に振った。そうじゃない。いつものように頬にキスをしようとして、狙いが狂ったということにしてしまおう。そんな魂胆だった。
「…………」
けれどもまたクライドは黙って、そうしてやっとシェリルは顔をあげて彼を見た。
彼は見てわかるほど落胆している様子で、けれども目が合うとシェリルを気遣うように笑った。
「間違いじゃなかったら嬉しいと、思ったんだが。別に強制するつもりもないし、気にしなくていい」
寂しそうで、その気落ちしたような声に、シェリルはどうしても胸の奥がぎゅっとなって、それから声が震えないように注意しながら、返す。
「そう。あのね、クライド。私が目をつむってしようとしたから狙いが狂ってしまったのよ」
「? ああ」
「だから、あなたが目をつむってくれたらいいんじゃないかしら」
「そうか?」
そうすればきっと目が合って途中で、恥ずかしくなってやめるやめることもないはずだ、そう思ったのと、あとは勇気を出すつもりで目をつむった。
しかし今は勇気を出す必要はなくて、目が合わなければいいのでシェリルの頭の中では、とても論理的な提案だったが、クライドにそれは伝わっていないらしい。けれども彼は、素直に目をつむった。
「……」
きめ細かい肌、耳の後ろに手を添えて、彼の髪が手に触れる感触はどんな高級な布地よりも心地がいい。
小さく息を吸って、それから今度こそ狙いを定めて、シェリルはクライドの唇を奪った。
しかしその感触を実感する前に、驚いたクライドは目を開く。
それから嬉しいのか感極まっているのかわからないような顔をして、割と力任せにシェリルのことを抱き寄せる。
シェリルは彼の胸板に溺れることになり、キスの感触のことなどもう忘れてしまって気さくに笑う。
「苦しいわ、押しつぶされてしまいそう」
「悪い。でも嬉しくて、可愛くて、ついこうしたくて。なぁ、好きだ、シェリル」
「私も好きよ、ふふっ」
「両思いだな」
彼の言葉は少し子供っぽくて、少年のようなあどけない響きを持っている。クライドのそんな言葉を可愛いと思ったと同時に、お返しとばかりに額や頬に繰り出されるキスや彼の猛烈なスキンシップにくすぐったく感じる。
「ふふっ」
「当たり前にこうしていい関係になれてよかった、今更だけどそう思う」
しみじみ言う彼に、シェリルは深く同意したい気持ちになった。
今までの出来事がほんの少し違っていただけで、クライドとシェリルはこうして睦み合っていなかっただろう。
いろいろな選択肢があって、変わらないことを選択することもできた。それでも選んでよかったと思う。
彼がキス一つでこんなに喜んでくれるのならばなおさらだ。
「そうね」
「なぁ、俺からもしていいか、もっとたくさん」
同意すると続けて提案されて断るわけもなく、今日というなんでもない日は忘れることのない大切な日になったのだった。
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