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第二章 なぜ私ではないのか

『その名前は駄目だ。不吉な気がする。変えてくれ』

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 もうあれから三年が経とうとしているのか、と夜明け前の寝床のなかでジュシは毎朝変わらぬことを思いながら闇に向かい思い続ける。

 追放をされてからの自分のこの数年を思い出すも、結局は結論は同じである。自分は何も変わらなかった、と。

 名を変え言葉を変え役目も変え果てしなく遠くまで旅を繰り返してたとしても、ここにいる見習い商人のジュシは結局のところあの山の宣告から何ひとつとして変わらない呪われた身。

 後継者となれずにそのことを認められないという呪身。そこから一歩も変わらず進んではいない。

 たとえこの地方の言葉や東の言葉のみを喋ったとしても、この内心の声は故郷の言葉であり努力をしてもそれは変えられなかった。

 あれが正統後継者にならなかったら……とジュシはいつものこの最も惨めで情けなくなる悔恨の部分に入る。精神的な自涜である。

 印の継承者が自分か他人であったら、それが一番良かったのに、よりによってあれが選ばれ俺は追放となった。

 自ら選んだ追放だが、それでは自分はいったい何になれたというのだ? こうして数年間そうではないものを目指し生きてきたけれど何の変化もないとしたら、俺はいったいどうすればいいのだろうか? 

 この身はもはや余生であり、このまま生涯を後悔の中で生きるか、それとも悔い改め山に戻るべきなのか、それともなおも可能性を信じて新たに生まれ変わるべきなのか? だが、どこに行き、どこで過ごしても、自分は自分のままであった。あの赤い夕陽に焼かれたままの自分。

 たしかに呪われた身だ、とジュシは闇の中で自嘲する。自分に似たこの暗闇を心地良いとすら思う。

 この闇の中ではいつもの癖である手の甲を見てそこになにも無いことを気にする必要もなく、また傷つく必要がないのだから。

 ほらこのように左手の甲をかざしてみると。

「朝だぞジュシ! 寝坊助は貧乏の印だといつも言っているだろうが」

 アリバが朝利権的な説教と共に扉を開けると光によって手の甲が曝け出された。印の無い、なにもない手の甲。それはそのまま自らの運命であるかのようで。

「おっおはようございます。あの今日は定休日ですので休みだと思っておりまして」

「昨日言ったはずだろ。聞いてない? えっ言ってない? じゃあ今言うから聞け。隣の街で特別バザーがあるんだ。このアリバ様のお手伝いとして付き合うように、じゃあ準備をしろ」

 ドアが閉まりまた闇が来たがジュシは小さな窓を開け物置小屋に光を入れた。光は毛布と机を照らしジュシの眼を射し、再び思うしかなかった。今日があの日から三年目に到着したと。何処にも行ってはいないというのに月日だけが無情にも流れていく。



 一時間後にジュシはアリバと共に砂馬の馬車に乗り市場へと出発していた。ジュシは窓の外を眺めアリバは焼き菓子を齧っている。一度石に乗っかったのか馬車が大きく跳ねたがジュシは驚きもせず、またアリバも一切頓着せずに焼き菓子を齧り続けた。巨体を縮ませ鼠のように前歯で以って焼き菓子を齧るその姿にジュシはすっかりと慣れていた。

 食べ終わるとアリバはやっと聞いた。

「さっき跳ねたな」

「ええ跳ねましたね」

 と確認だけ済ませ、またアリバは焼き菓子を食べることを再開させた。

 アリバのボスが食事に熱中している時は決してこちらから話しかけてはならない、とジュシは初期の段階から説明されずとも了解していた。

 よって一言も口をこちらから利かずに話しかけられた時だけ一言二言返すだけと心がけていたが、ここがアリバに最初の頃から気に入られた。

 一心不乱に齧りながらもアリバの思考はくるくると回っている。やはり良いものを拾った、と。

 あれは、と記憶を探るもアリバの頭にはジュシと出会った年のことは不明瞭であり、たぶんと曖昧模糊なままいつも勘違いしてはいたが、今日は出会いの時のことははっきりと思い出せた。そうだあれは三年前の砂漠踏破の初挑戦の時だった、と。

 砂漠を越え東を目指すべく傭兵の案内所に行くも誰一人として首を縦に振らなかったときの寂しさをアリバは久しぶりに思い出す。

 賞金の問題ではなく、命を賭けた冒険には付き合えない、それがほぼ全員の意見であった。手を挙げたら死ぬだけだ、とすら言ったものもいた。

 ただ一人を除いては。手を挙げたのは陰気な若い男だった。荒んだ雰囲気を持っているものの、悪人には見えなかった。いつものように値踏みをする目付きで見るも、嫌な予感が無かった。

 聞くとその男は入ったばかりであるために誰もそいつのことを知らない。客は雰囲気に警戒して初仕事すらいつまでも貰えずにいたらしい。

 それはそれでアリバにとって好都合だった。砂漠越えの恐怖を知らないというのなら都合がいい。何も知らないのなら好都合だ。

 必要なのはこの暴挙に近い試みに従うものを連れていくこと。まずは実績作り、と。そうと決めればアリバはその男の手を強く握った。二度と離さないというぐらいに。

「わしの名前はアリバだ。ここからずっと西から足を伸ばしてここまでやってきた。そしてもっと遠くに足を伸ばしてみたくなったものでな。よろしく頼みたいが、それでお前の名前は?」

 そう聞くと若い男はバツが悪そうに小声で何かを言ったがアルバの耳には何も入ってこなかった。強めの方言なのだろうか?

 理由はとにかくアリバはその名前の響きに暗いものを感じた。これからの旅に不吉さは厳禁だ、許されない。冗談じゃない。

「なんだかその名前は駄目だ。不吉な気がする。いますぐ変えてくれ」

 わしは何を言っているのだろうと自分で気づくも後の祭りで、これで依頼を断られたら損をしたなと暗い気分になるも、眼の前の男の表情はどうしてか明るくなった。

「いいですよ。変えましょう。何にしますか」

 快諾とはいったい? 自分に名前に誇りはないのかと戸惑いや喜びとが相反する理不尽な感情が湧いてくる中でアリバは言った。

「とはいえそんなに簡単に新しい名前というのもな……おいさっきジューシーとか言わなかったか?」

「……呪身とは言いました」

 その名の悲しい響きを聞くと意味が分からずもアリバの身体に寒気が走った。

「もしかしてそれは忌まわしいものか」
「とても」
「では意味を変えてやる。ちょっと変えると名前の響きがわしの故郷では豊穣を意味する言葉に似ているな。だからジュシンではなく、ジュシとする。一字消したら言葉の雰囲気も変わる、どうだ? 構わんだろ」

 我ながらよく分からない提案だとアリバは思うも男の表情はさらに明るくなり雰囲気も一変した。

 荒んでいたものが薄れたところを見ると本当に呪いをかけられていたのかもしれない、とアリバは自分の目と直感に自信を深めた。験がいい。

 かくしてジュシと呼ばれるようになった男はアリバと共に働くようになり、砂漠踏破は決行されそしてそれは成功した。

 あれから三年も経つがアリバは初めてといっていいぐらいにジュシのことを考えていた。それにしてもこいつはとことん役に立ったな、とまず思った。身体は丈夫で腕っぷしも強く弱音を吐かない。おまけに隣にいて不快さがまるでないのも驚いた。

 頭だって悪くはなく話は通じるし東の言葉もどんどんと覚えていっている。砂漠の旅の最中に東の言葉だけで会話をしたが向うについた頃には自分と同じぐらいには上達をしていた。

 わしは良いものを拾ったとアルバは満足げに食い終わった焼き菓子の袋を逆さまにして口の中に粉を落しながら感慨に耽る。

 その後の二度の砂漠踏破の際もこの頼れる相棒と一緒に成功させ、わしはこうして店を構えられる身分となったのだ。

 たいへんに結構なことだと思うと同時にアリバはいつもの疑問が湧いてきた。それにしてもこいつは欲が無さすぎるな、ともう一つの菓子袋を開けながらアリバは思う。

 欲はないが社会貢献をしたいというタイプもいるにはいるが、あいつはそういうところもない。そこがまるで商人には向いていないが、それはそれでこちらに都合が良いから問題にはせん。わしには無関係なことだ。

 決して語らない過去やこれからの未来といったこいつの人生などわしには興味はない。とはいえ、今日だけは気になっているなと焼き菓子を齧りながらなおも思う。

 なにか災厄の前触れか、それとも吉兆か判断しかねているところで眼の前に水が出された。
そういえば喉が渇いたなと受け取ると喉の苦しさをやっと認識したために急いで一気に飲み干し、アリバはいま思いついたように何気なく尋ねた。

「お前は将来的に東に移住したいと以前に聞いたが、それは変わらないのか?」

 ジュシは真剣な表情で答える。

「変わりはございません。東の地で生きようと考えております。そのために学び貯蓄に励んでいるのですから」

 アリバは変わらぬ問いに満足し話を打ち切った。どうしてだ? 自ら聞かないことになにかひっかかるところがあるも、深くは聞くことはなかった。

 その考えは正しく、間違いではなく、早く実行したほうが良い、と信じられた。ただの勘であり理由なんて、ない。

 ただ出会った頃の第一印象や雰囲気や名前といったものから、こいつはどこか訳ありなのだなとは分かっている。

 この地方となにかあり、逃げないといけない、と。災厄が近づいていると。あの不吉な元の名はそういうことなのだろう。

「ところで特別市があるとは、近々もしかして戦争でも?」

 おっと、とジュシが話しかけて来るとは相当自分が無駄な思索に耽り過ぎていたのだなとアリバは頭を振って愚にもつかないものを落した。こいつの人生が一体なんだというのだ? 考える必要なんてないというのに。

「おおそうだ、南の部族間でドンパチの匂いがしているらしいぞ。それとわしらが何度も東から帰ってきたことに刺激されてかあっちに渡りだそうとしている奴らもいるみたいだな。東も東で戦争をしたがっている連中が多いからそいつらに武器を売れば、と算段をつけているだろう」

「あちらの反政府団体のシアフィル解放戦線やら連合でしたっけ? 俺達が西から来たと言ったら仲間扱いされて面倒な目に会いましたね。
西の砂漠が草原の頃はあの地は西シアフィルであり一つであったとか、そんな大昔で聞き覚えのない話をされてもこっちは困るってのに」

「そういう原理主義的な連中だからこそ妥協できずに戦いに訴え出るんだろう。まぁなんだっていいことだ。何よりもだ大事なのは誰が高く沢山を商品を買ってくれるかだ」

「けれど戦争が早く終わったら困るから、できれば両方に売って戦いを長引かせたい」

「こら! そんな意地汚いやり方をしてどうする。そんな商売がお得意先にばれちまったらエライことになるぞ。そんな阿漕な真似はせずにもっとスマートにだな、綺麗に、上手い事バランスを取るのが大事だ。まぁいきなり強烈な武器を売らずにちょっと強いぐらいの武器を売って段階を刻んでだな。ライヴァルの動きもチェックをして」

「そこは大丈夫ですよアリバさん。砂漠を踏破できるのは間違いなく俺達だけです。それは俺達でないと、できません。この絶対的優位性は揺るがないものです」

 そうだなとアリバは笑顔になるといつしか馬車は市場に到着をしていた。
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