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第一章 ただ暑いだけの日
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序章
杉の大木をからその力強さを感じ、空に溶けるような雲を見て、その儚さに打たれる。
物を見て何を思うか、それにその人の人生が現れるという。
向こう側のひと、こちら側の人、そしてその間をつなぐ三種類の人がこの世にはいる。
誰もが自分は多数派だと思うこともあれば、少数派だと思い込むこともある。
だが稀に、全てにおいて少数派だと思い込み、あるいは信じきって、うちひしがれている人がいる。その人は、大木を見て自分の価値の無さを痛感し、雲を見て明日への希望を失くす。
それでも、社会は前進しようと日々を更新していき、希望を失くした人はその移ろいゆく早さに、自分の無力を感じる。
一方で社会から完全に置き去りにされた人は、自らを少数派だと思って感傷には浸らない。彼らは自分にとって価値のあったもの、人を失い、あるいは自ら手放し、諦感の底に沈み込んでいる。
社会と隔絶されている状況に、自らの安息の地を得、隔絶されているが故に、自分とは真逆の明るい人生を歩む人間と、かえって気楽な関係を築く余裕を持つ。
夢も希望もなく、ただ生物としての欲求を満たし、設定されたかのような死期をただ待つ人に、俗世に漂う言説は何の興味も引き起こさない。
問題は、自らを社会の周縁に位置付け、少数派と思い、ささやかながらも夢や希望を持ち、人並みの幸せを掴みたいと考える人にこそある。
そう考える人は、―苦労はあれど―幸せとされる人間の明るさに精神を蝕まれ、さらなる苦悩を自らに舞い込ませ、社会のがわが自分とは距離を置いてきたように考える。
彼らと自分がなぜこうまで違ってしまったのかを知る術が、いまの世の中には多すぎること、それがいまの社会の生きづらさを加速させている。分断はいまに起こった現象ではない。ただ、その分断の亀裂がまざまざと眼に写るようになったことで、分断がはっきりと分断された側に認識できるようになっただけのことだ。
大木を見て、誰もがその生命力に刺激を受け、消えゆく雲を見て、誰もがその幻想的な景色に胸をうたれる社会を、どのように築いていけばよいのか、それを模索し、あちら側とこちら側の境界を曖昧に崩す人が、つなぐ人、となる。
1章
淀んだ空気のなか、咲は目を覚ました。安い社員寮の壁には、アイドルのポスターが貼り付けてある。クーラーはとっくに切れていて、こもった空気に息苦しさを覚える。
明日香は伸びをして、窓を開けた。熱風がレースのカーテンを揺らす。暑い、ただ暑いだけの日が始まった。
1Kの社員寮の家賃は二万ほどで、キッチンにはフライパンと皿、それに調味料が数種類あるだけだった。
7時になる。咲は身なりを整えて、気だるい体を無理に動かして外へ出た。
セミが急に鳴き始めたと思ったら、すぐになき止んだ。シャツにはすぐ汗がにじむ。これから8時間以上も会社に居なければいけないと思うと、足取りが重くなる。
寮から会社までは、歩いて15分の距離にある。
明るい音楽を叩き込むために、イヤホンを耳に突っ込む。
新卒で入社してはや3年。新人とも、中堅とも言われない、つらい時期にいる。
同期には恵まれたが、上司や先輩社員とはお世辞にもうまくいっているとは言えない。
正門にはすぐ着いた。無意識に社員証を出す。
陽気な挨拶をしてくれる守衛さんに代わりたいと思いながら、咲は軽く頭を下げた。
デスクにつくまでに先輩や同僚と交わす挨拶すら、咲には面倒で、また1日が始まってしまうのだなと、沈鬱した気分になる。
仕事が始まると、そう沈んだままではいられなくなり、取引先へ納期の催促をしたり、単価交渉をしたり、上司への報告書作りをしたり、時間はすぐに過ぎていく。
矢継ぎ早に質問を投げ掛けてくる課長にしどろもどろになり、やがては質問が叱責に変わる潮目が見えて、そろそろ気が滅入る、、、。
昼の休憩は短いが、時間に追われる社会人には貴重なリフレッシュタイムだ。
咲は唯一仲の良い同僚の玲奈と社員食堂に向かう。業務から解放される、至高の時間だ。
玲奈は大人しい子だ。目立つことを嫌い、寡黙だが、仕事はそつなくこなした。スキのない資料を作るし、コストダウンの定例報告会でも三年目ながら、部課長から責めをうけることもない。咲は玲奈の淡々として簡潔な報告を聞くたび、また先輩らの反応を見るたび、会社に必要とされる人はこういう人なんだなあと、どこか他人事のように感じる。
玲奈も決して器用な人間ではないが、それでも会社のなかで存在意義を認知され、毎日びくびくせずに仕事をこなし、社会の一員として、歯車として、うまく日々を過ごしている。
そこに自分との差を感じずにはいられなかった。尊敬と嫉妬が入り交じる、けれど結局は控え目な玲奈の性格のおかげで、咲は心を許して彼女と接することができた。
結局、いつものように昼休みはすぐに終わり、咲はいつものように定時には帰れず、20時過ぎに退勤した。
茫然としたまま食事を済まし、スマホをいじって好きなアイドルの動画を見る。寝る前は至高の時間で、自由を満喫できる。
何も目的を持たず、ただただ疲れた身体と心を癒すために、スマホを眺める。
連絡は誰からも来ていない。完全に一人だけの、何も産まない時間だった。その空虚な時間に焦りと苛立ちを覚えていたのは新人の頃だけだ。繰り返される日常に、もし明日が人生最後の日だったならば、という啓発本の忠告は実際、何の役にもたたない。
明日が人生最後の日であるはずもないし、仮にそうだとしてもやりたいことをやれる自信もスキルもないからだ。
週末をただひたすらに待ち続け、金曜日の退勤時が喜びのピークとなる今の人生に、咲は意味や価値を見出だせなかったし、華のある忙しない人生を送れる人をただ別世界の人と頭の中で片付けることしかできなかった。
杉の大木をからその力強さを感じ、空に溶けるような雲を見て、その儚さに打たれる。
物を見て何を思うか、それにその人の人生が現れるという。
向こう側のひと、こちら側の人、そしてその間をつなぐ三種類の人がこの世にはいる。
誰もが自分は多数派だと思うこともあれば、少数派だと思い込むこともある。
だが稀に、全てにおいて少数派だと思い込み、あるいは信じきって、うちひしがれている人がいる。その人は、大木を見て自分の価値の無さを痛感し、雲を見て明日への希望を失くす。
それでも、社会は前進しようと日々を更新していき、希望を失くした人はその移ろいゆく早さに、自分の無力を感じる。
一方で社会から完全に置き去りにされた人は、自らを少数派だと思って感傷には浸らない。彼らは自分にとって価値のあったもの、人を失い、あるいは自ら手放し、諦感の底に沈み込んでいる。
社会と隔絶されている状況に、自らの安息の地を得、隔絶されているが故に、自分とは真逆の明るい人生を歩む人間と、かえって気楽な関係を築く余裕を持つ。
夢も希望もなく、ただ生物としての欲求を満たし、設定されたかのような死期をただ待つ人に、俗世に漂う言説は何の興味も引き起こさない。
問題は、自らを社会の周縁に位置付け、少数派と思い、ささやかながらも夢や希望を持ち、人並みの幸せを掴みたいと考える人にこそある。
そう考える人は、―苦労はあれど―幸せとされる人間の明るさに精神を蝕まれ、さらなる苦悩を自らに舞い込ませ、社会のがわが自分とは距離を置いてきたように考える。
彼らと自分がなぜこうまで違ってしまったのかを知る術が、いまの世の中には多すぎること、それがいまの社会の生きづらさを加速させている。分断はいまに起こった現象ではない。ただ、その分断の亀裂がまざまざと眼に写るようになったことで、分断がはっきりと分断された側に認識できるようになっただけのことだ。
大木を見て、誰もがその生命力に刺激を受け、消えゆく雲を見て、誰もがその幻想的な景色に胸をうたれる社会を、どのように築いていけばよいのか、それを模索し、あちら側とこちら側の境界を曖昧に崩す人が、つなぐ人、となる。
1章
淀んだ空気のなか、咲は目を覚ました。安い社員寮の壁には、アイドルのポスターが貼り付けてある。クーラーはとっくに切れていて、こもった空気に息苦しさを覚える。
明日香は伸びをして、窓を開けた。熱風がレースのカーテンを揺らす。暑い、ただ暑いだけの日が始まった。
1Kの社員寮の家賃は二万ほどで、キッチンにはフライパンと皿、それに調味料が数種類あるだけだった。
7時になる。咲は身なりを整えて、気だるい体を無理に動かして外へ出た。
セミが急に鳴き始めたと思ったら、すぐになき止んだ。シャツにはすぐ汗がにじむ。これから8時間以上も会社に居なければいけないと思うと、足取りが重くなる。
寮から会社までは、歩いて15分の距離にある。
明るい音楽を叩き込むために、イヤホンを耳に突っ込む。
新卒で入社してはや3年。新人とも、中堅とも言われない、つらい時期にいる。
同期には恵まれたが、上司や先輩社員とはお世辞にもうまくいっているとは言えない。
正門にはすぐ着いた。無意識に社員証を出す。
陽気な挨拶をしてくれる守衛さんに代わりたいと思いながら、咲は軽く頭を下げた。
デスクにつくまでに先輩や同僚と交わす挨拶すら、咲には面倒で、また1日が始まってしまうのだなと、沈鬱した気分になる。
仕事が始まると、そう沈んだままではいられなくなり、取引先へ納期の催促をしたり、単価交渉をしたり、上司への報告書作りをしたり、時間はすぐに過ぎていく。
矢継ぎ早に質問を投げ掛けてくる課長にしどろもどろになり、やがては質問が叱責に変わる潮目が見えて、そろそろ気が滅入る、、、。
昼の休憩は短いが、時間に追われる社会人には貴重なリフレッシュタイムだ。
咲は唯一仲の良い同僚の玲奈と社員食堂に向かう。業務から解放される、至高の時間だ。
玲奈は大人しい子だ。目立つことを嫌い、寡黙だが、仕事はそつなくこなした。スキのない資料を作るし、コストダウンの定例報告会でも三年目ながら、部課長から責めをうけることもない。咲は玲奈の淡々として簡潔な報告を聞くたび、また先輩らの反応を見るたび、会社に必要とされる人はこういう人なんだなあと、どこか他人事のように感じる。
玲奈も決して器用な人間ではないが、それでも会社のなかで存在意義を認知され、毎日びくびくせずに仕事をこなし、社会の一員として、歯車として、うまく日々を過ごしている。
そこに自分との差を感じずにはいられなかった。尊敬と嫉妬が入り交じる、けれど結局は控え目な玲奈の性格のおかげで、咲は心を許して彼女と接することができた。
結局、いつものように昼休みはすぐに終わり、咲はいつものように定時には帰れず、20時過ぎに退勤した。
茫然としたまま食事を済まし、スマホをいじって好きなアイドルの動画を見る。寝る前は至高の時間で、自由を満喫できる。
何も目的を持たず、ただただ疲れた身体と心を癒すために、スマホを眺める。
連絡は誰からも来ていない。完全に一人だけの、何も産まない時間だった。その空虚な時間に焦りと苛立ちを覚えていたのは新人の頃だけだ。繰り返される日常に、もし明日が人生最後の日だったならば、という啓発本の忠告は実際、何の役にもたたない。
明日が人生最後の日であるはずもないし、仮にそうだとしてもやりたいことをやれる自信もスキルもないからだ。
週末をただひたすらに待ち続け、金曜日の退勤時が喜びのピークとなる今の人生に、咲は意味や価値を見出だせなかったし、華のある忙しない人生を送れる人をただ別世界の人と頭の中で片付けることしかできなかった。
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