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今までの、俺が嫌いだ。

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……あれから、夜は深くなっていく。不安は色濃くなっていく。冷房が効かず、蒸し暑い避難所の小学校に集まった、この町の人たちも……もしかしたらという恐怖に怯えていた。
────また地震が来るのではないか。あの揺れよりももっと大きな揺れが来るのではないか。
幸いなことに、この町で壊れたと思われるものはなく、誰かがケガをしたと言う話も聞かない。だがその不安は、そう簡単に拭えるものでもなかった。

「……先ほどの地震は、最大震度5弱と発表されました。震度5弱を観測したのは……」

 避難所に置かれたラジオから、微かにニュースが聞こえる。俺はそれを聞きながら、何も言わず隣にいる父さんに寄りかかっていた。何とか小学校へ向かう途中に、父さんと合流し、こうして体育館に避難している。誰かと一緒にいなければ、あの突き上げるような揺れを恐怖とともに思い出してしまう。


「光輝……地震なんて体験したことなかったもんな、怖かったよな」

 寄り掛かった俺の頭を、父さんは優しく撫でる。そんなの、久しぶりで────なんだか、泣けてきた。
 ずっとずっと、昔を思い出す。まだ母さんが生きていたころ、祖父も生きていたころ。俺は幸せだった、その時が幸せの絶頂だったと思っている。家族四人で、これから先もずっと生きていける。誰かが死ぬなんて考えたこともない、幼い少年だった。
 その時に、母さんが頭を撫でてくれたのを思い出す。遠い遠い、理想郷────そこに、母さんも、祖父も、美奈子もいるんだろうか。そこに行けば、こんなに悩み苦しむこともないんだろうか。

「母さんが死んで……もう10年は経った。お前のおじいちゃんが死んで5年。あぁ……美奈子ちゃんも5年前だったね。そして、お前のおじいちゃんのお兄さんが死んで数か月……みんな死んでいく。それは不幸なことでも何でもない。生きる限り、誰かの死は当たり前なんだから」
「……でも、失ったものが多すぎる。しばらく忘れてたけど……また失うんじゃないかって怖くなる。父さん、俺は……どうすればいい」

 俺は、こんな狭い世界で、たくさんの物を失ってきた。得たものも多かったけど、いらないものばかりだった。結局必要なものほど、この手から零れ落ちて、無情にも消えていく。それが無くなるなんて……そんな甘いものはない。現に、災害なんてものは簡単に人の人生を奪える。
 俺だって、明日には地震によって、死んでいるかもしてない。はたまた俺が生きて、父さんが死ぬかもしれない。災害という、俺にはどうしようもないもので、また何か失うかもしれない。

「怖いよな、僕だって怖いとも。でも、僕は少なくとも……光輝が無事でよかったよ」

 父さんはそう言って、頭を撫でていた手を肩に回し、俺を抱き寄せた。俺はあえて、父さんの顔を見なかった。見たらいけないような気がしたんだ。だってその手は、微かに震えているんだから。

「もう僕には、光輝しか守るものがないからね。僕だって、失ってばかりの人生だったさ。だから、仮に災害で……明日、僕の人生が終わったとしても────」

────光輝、お前だけでも助かることが、僕の望みだ。

 聞きたくない言葉だ。まるで遺言みたいで、本当に明日には終わってしまうみたいで、嫌いだ。でもそれが、こんな不安定な俺を、ここまで支えてくれた父さんの本心だ。
 こんな俺が、誰かを踏み台にしてまで、生きる価値があるのか────?

……俺はこのままでいいのだろうか。そんなことばかり考えて、なかなか眠れない。避難所での夜だった。


────人のがやがやした声で、目が覚める。そうか、ここは避難所だったな。体は痛いし、汗だくだ。俺は重くだるい体をゆっくりと起こし、周りを見る。父さんは家から持ってきたと思われるラジオに、耳を傾けていた。

「あぁ、光輝。暑いよね、はい、スポーツドリンク。熱中症になったら、今は手当てができないからね。ここが避暑地だからって、甘く見ないことだよ」
「父さん……周りの人が騒がしいけど、どうしたの?」
「それが……」

 そう言って、父さんは外に目をやった。体育館の窓は少し開いていて、そこから外が見える。どうやら、大雨が降っているようだ。耳を済ませれば、それは人の声だけではなく、雨の音だとはっきりしてくる。

「……雨?」
「大雨……ここでもし地震が起こってしまえば、山の麓に住む住民は────」

 その先は言わせなかった。俺は立ち上がり、昨日のままの靴を履く。

「っ!? 光輝、どこへ行くんだ?」
「……山の麓の人は、避難していない人が、いるんでしょ?」
「そうだが……消防団の人が向かっている。光輝が行くことじゃない!」
「でも、この避難所を一通り見渡した……ヤジロウがいないんだよ!」

 俺をこんな中で立ち上がらせる理由はただ一つ。山で出会い、山で消え、丘で別れた、ヤジロウのことだ。いなくなったあたりに、彼の家があるならば、山の麓の家に違いない。彼を失うわけにはいかない。今日だって……遊ぶって約束したんだ。

「光輝……ヤジロウ君は……あぁ、3日目の約束。破るわけにはいかないな」

 そして、父さんは一つ、大きなため息をついて天井を見上げた。涙をこらえているんだろう。それは見ればわかった。だがその理由を、聞いている暇はない。

「父さん……俺、ヤジロウを探してくる。そして、その周辺の人に、避難を呼びかけて来るよ。もし帰りに余裕があったら、川の周りの人にも言ってくる」

 こんなこと、命を捨てるようなことかもしれない。それはやってはいけないことの一つなんだろう。誰かを助けなかったとしても、自分が生きることを優先すべきなんだろう。
────だが、俺にそれはできない。俺は逃げた、背けた、閉ざした。この命は誰かの上にあり、そしてその命を、 俺は今まで無駄に使ってきた。だから、生きる価値を見出せない。俺はこの極限の状況で、未来が描けないままなんだ。
……もし、この命を使えるなら。今まで失ってきた分を取り戻せるなら。それを、ヤジロウのために、この町の未来に使いたい。

────それが、3日目に出した、俺の答えだ。まだきっと未熟だろう、それはきっと無謀だろう。それでいい、やりたいことを、やると決めたのだから。

「……わかったよ、光輝。それが、この町に来た光輝の運命なら、やりたいことなら……父さんは何も言わないよ。行ってきなさい、そして無事に帰って来なさい」

 俺は父さんを真っすぐ見つめる。父さんに俺の思いは、きっと届いたと信じている。

「生き生きした顔だね、僕は嬉しいよ」

 大きくうなづいた父さんを、最後の一瞬まで見つめる。もちろん名残惜しかった、離れるべきじゃないと最後まで思った。でも俺は、やりたいことをやる、その覚悟を決めたんだ。
 そして俺は、ついに避難所である、小学校の体育館を出た。もう父さんは見えない。雨音で誰の声も聞こえない。おまけに大雨で視界が悪いと来た。

「……でも、やらなきゃ。待ってろ、ヤジロウ!」

 大嫌いな世界を、でも大好きな町の大地を踏みしめ、俺は駆けていく。どうしてか、守りたいと思ったんだ。この町を、俺が────


────行くのか、光輝。本当は怖いんじゃないか。その命を誰かのために使う、その意味が分かっているのか。

「わかっているとも、死と隣り合わせだ。下手すれば、俺だって死ぬ」

────それが、死んでいった人への、最大の侮辱と分かっているのか。

「……わかっているとも。美奈子との約束を守れない、美奈子が悲しむに決まってる」

────ならば引き返せ、お前はまだ、広い世界を見なければいけない。

「そうだな。でも、俺は決めたんだ。その未来にヤジロウを連れていきたいって。ヤジロウに世界を……見せてあげるんだ!」

……頭に響いた、謎の声は消えた。俺はただ、無我夢中で走る。うろ覚えの町を、ただひたすらに走っていく。この3日間、遊びまわったおかげで、最低限の道は覚えた。だからこそ、探すんだ。

「大切な友達を……連れていくんだ!」

 その瞬間、頭痛が走る。耐えきれないほどの痛み、それと同時に、脳裏に景色が映し出される。

────地震が起きる。そして崩れる山間部。場所はおそらくこの裏の山。墓場で見たのは、風景からして過去だ。だが今回は……

「未来が……見えた?」

 ならなおさらだ。この未来がわかっているなら、助けるべき命がたくさんある。最大限、手を伸ばせ。最大限、声を枯らせ。未来を変えるために、俺自身を変えるために。

「皆さん、土砂崩れの危険性があります! 逃げて……逃げてください!」

 最初に見つけた家の前で、俺は叫ぶ。家の住人は二階から俺を見下ろした。

「土砂崩れ? そんな馬鹿な、この山が崩れたなんて、聞いたことがない。この程度の地震、雨で騒ぐんじゃないよ」

 その男性からは、危機感が感じられなかった。でも、俺には見えている。何とか伝えなきゃ……でも、俺はこんな時、うまい嘘が浮かばない。取り繕う嘘が……
……いや、嘘ではないことなら?

「……知らないんですか、この集落は昔……土砂崩れにあっているんですよ!」

 あの見えたものが、嘘じゃないとしたら。今ならできる、俺にだって、言葉を紡ぐことができるとも!

「なんだって!? どこだ、どこの山が崩れたって言うんだ」
「社のある山から見て……反対の山です!」
「ならじゃねぇか! ありがとうな、坊主。この辺の人には、俺から伝えておくよ!」

 家の住人の男性は、すぐに家を飛び出し、周辺に声をかける。だが、俺はその男性の言葉が引っかかっていた。俺がこの町に来て最初に行った、赤い社のある山は、こっちのはずだ。俺はすぐさま男性を追いかけ、声をかける。

「あの、すみません……ここにはひょっとして
「坊主、災害の歴史は知っているのに、この町に何があるのかは知らねぇのか?」

 男性は不思議そうに首をかしげると、話を始めた。

「社は二つある。赤い社と、黒い社だ。黒い社には、よくわからん古い神様が祀られているらしいが、赤い社にはこの町の英雄が祀られているって言われてる。詳しくは知らんがな。だが、坊主の言ったことが本当なら、

……次第に、この3日間が繋がっていく。地震、過去と思われる土砂崩れの景色、小さな赤い社。社の裏の墓場、人を閉じ込めて崩れた洞窟。先ほど見た、この裏の山が崩れる光景。この町から出たことのない神出鬼没の少年、夏休みヒーロー。

「まさか……」
「俺は、この周辺の人に、避難を呼びかける。坊主も早く逃げろよ」

 男性は俺の肩をポンポンと叩くと、周辺の人たちへ避難を呼びかけ始めた。俺は呆然と立ち尽くし、頭を必死に働かせる。
……俺が見たのは、墓場からの反対の山じゃない。反対の山から見た、こちらの山を見たんだ。だから洞窟に埋まって死んだ人は、前回の災害で死んだ人。そしてあの墓場は、前回の災害の犠牲者……?

「……もしかしたら、何回も災害があったのかもしれない。それでも、ヤジロウを……」

 頭に過る、非現実的な何か。それがどうしてそうなのかはわからない。でも俺は、必死に叫ぶ。一軒一軒、訪ねて回る。最悪の未来を変えるために、犠牲者を減らすために……この命を使うと決めたのだから。


────避難所に、多くの人が流れ込み始めた。おそらくは、まだ逃げていなかった、山の麓の住人が逃げてきたんだろう。光輝がやっていることは、着実に誰かの命を救っている。阿藤光男は、それを感じていた。
そして、誰に言うわけでもなく、小さくつぶやく。

「父さん、ずっと昔に教えてくれたよね。かつて夏のある日、この町を救ったと言われる、英雄の話」

 それは周りからして、ただの男性の戯言だろう。だが、光男には大切なことだった。

「英雄は未来が見えた。ほんの少しだけね。その見えた最悪の未来を回避するために、幼い体でこの町を駆け回った……そして、英雄はこの町に起こった3度目の災害の時、ついにこの町を守り切った。犠牲者をたった一人に抑えたんだ」

 光男は、使えるわけでもないのに、4歳の頃に使っていたバケツを持ってきていた。幼い字で「あとうみつお」と書かれたバケツ。だが普通、4歳児に字が書けるはずがない。

「この文字、ヤジロウ君が書いてくれたって、覚えているよ。その時も3日間しか遊んでくれなかったね」

 夏の3日間、阿藤家の人間の前にだけ現れる────ヤジロウ。彼の正体を、光男は大人になって知ることになる。光男の父が死ぬ直前に語った、阿藤家の秘密。それが、どこかで残酷な運命を背負うことをわかっていた。

「3日前、ヤジロウ君が秘密にしてくれって言ったこと、守っているよ。でも……本当にこれでよかったのかな」

 いいや、これでよかったと思うしかない。光男もまた、決心を固めた。

「────英雄の血筋には抗えない。この世界の運命には逆らえない。悲しいね、光輝も……ヤジロウ君も」
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