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第5話 初日
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何年かぶりのまともな食事に何年かぶりの風呂、何年かぶりの屋根のある部屋、何年かぶりのふかふかなベット。その全てがハヤテにとって当たり前のものではなくなってしまっていた。
「……普通、こんな上等なモンを奴隷なんかに用意するかね?」
更に昨日の小汚い格好から一転、一夜明けてハヤテの身なりもだいぶん綺麗になった。姿見に映った自身の姿を見て、ハヤテは苦笑した。
マリネシアに頼んで用意してもらった浅葱鼠色の着流し。久方ぶりに袖を通した着流しは、まだ奴隷に落ちる前は常に着ていたものだ。
───これを着てよく鍛錬に明け暮れていたな。
今はもう遥か昔に感じられる記憶。数年ぶりの着流しは以外にも肌に馴染む。それは一重に身に着けてるものが上等品だからという理由だけではないだろう。
当たり前のように与えられた一人部屋は客人を饗すかのように手入れが行き届いており、余りの分不相応な待遇に居心地はそれほど良くなかった。奴隷の身であれば馬小屋でさえ上等な寝床になると言うのに、ハヤテの主人はそれを良しとはしなかった。
「本当に、おかしな人だ」
最後に改めて姿見でおかしなところが無いかを確認する。そうして問題ないと判断すれば、ハヤテは昨日組合で貰った探索者の証である小さな銀板を首から下げる。
受付嬢───セリーヌの話ではこれが無ければ普通は地下迷宮に入ることが出来ないらしい。
「さて、そろそろ行くか」
辛うじて覚えている彼女の説明を思い返しながら、ハヤテは部屋から出る。まだ陽は昇ったばかりであったが、彼には朝早くから主人に呼び出されていた。
予め教えられていた主人の部屋には特に迷うことも無くたどり着けた。少し作りの違う扉を軽くノックすれば「どうぞ」と中から入室の許可が下りる。
ハヤテは少し躊躇いながらも扉を開けて中へと入った。
「お嬢様、失礼します」
「おはようございます、ハヤテ」
「……はい、おはようございます」
出迎えてくれたのは言わずもがなこの部屋の主であり、ハヤテの主人でもある少女───マリネシア。彼女は柔らかな笑みを浮かべながら椅子に座っていた。
ハヤテはやはり躊躇いを覚えながらも軽く部屋を見渡して、直ぐにその場に跪く。普通であれば奴隷は地べたに額を擦り付けて平伏するものだが、これもまたマリネシアは良しとしなかった。
「……」
慣れない動作に違和感を感じながらもハヤテは主人の次の言葉を待った。
「無事にハヤテも探索者に慣れたことですし今日から早速、地下迷宮に行こうと思います」
「はい」
「楽しみですね!」
「…………はい」
今までの主人然とした態度は何処へやら、マリネシアは無邪気な子供のように興奮している様子だった。それに対してハヤテはどんな顔をすればいいのか分からず、仏頂面で頷くことしか出来ない。
どこか貴族の令嬢らしくないマリネシアの態度。しかし、よくよく話を聞いてみると彼女は貴族では無いのだという。
「私が用意した服は問題なさそうですね。ただの布に見えてそれには魔法が込められていて、鉄の鎧よりも頑丈です。良い買い物でした」
「たかが奴隷如きにこれほどの服を与えて下さり、誠にありがとうございます」
「そういう畏まった態度は辞めてくださいと言ったでしょう。これからは一緒に迷宮を冒険する仲間になるのです。もっと気楽に行きましょう」
「はぁ……」
なんでも彼女の家はこの迷宮都市ではそれなりに有名な商家であり、迷宮から発掘された産物を様々な国へと流通することに長けているらしい。ハヤテに与えられた魔法の込められた着流しもそういった側面から入手できたものであった。
───商人の娘と言えど、これだけの財貨を得る豪商であれば貴族と何ら変わりないだろうに……。
少しは格式や上下関係を気にしそうなものなのに本当にマリネシアにはそう言ったモノがなかった。
これまで出会ってきた人間とは全く違う彼女のコミュニケーションに、ハヤテはやはり違和感を拭えずにいるとマリネシアは楽しそうに言葉を続けた。
「それから頼まれていた武器です」
「……見つかったんですか?」
「ここは迷宮都市ですよ?ハヤテの欲しがる武器の一つや二つ、見つけるのは難しくありません」
ハヤテは思わず垂れていた頭を上げる。視界に入ったマリネシアは一つの細長い布包を抱えていた。ハヤテはそれを受け取とると恐る恐る布を脱がす。
「…………ッ!」
布の下から姿を現したのは黒い鞘に納められた一本の刀。迷宮に行くのだから武器が必要になる。その武器としてハヤテが選んだのが彼の中で一番馴染みのある刀だった。
───相当な業物だ。
一目見て、ハヤテは息を飲む。たかが奴隷に買い与えるにはその刀は些か上等すぎた。「本当にコレを自分が貰ってもいいのか?」と思わず躊躇うハヤテに彼の主人は無言で受け取るように促した。
「ありがとうございます」
渡された刀を腰差しにして、ハヤテは深々と頭を下げた。
「どういたしまして。その刀を振るって遺憾無く貴方の強さを見せてください」
「勿論でございます」
身が引き締まるような思いだった。
単純であるが、この刀を与えられた瞬間にハヤテのマリネシアに対する忠誠心は揺るがないものになった。そうなってしまうほどに彼にとって刀とは、ハヤテという人間の中心に在った。
「それでは、行きましょうか」
甘んじて、と言った感じであったがハヤテの忠誠を受け取ったマリネシアは立ち上がり部屋を後にする。それにハヤテも慌てて続いた。向かう先は聞くまでもなかった。
主人の背中を追いながら、ハヤテは懐から一つの鈴を取り出す。それは彼が奴隷に落ちる前から肌身離さず持っていた唯一の持ち物であった。片手間にその鈴を刀の柄頭に紐で括り付けてぶら下げる。
凛と、こ気味良い鈴の音が耳朶を打つ。
「あら、綺麗な音の鈴ですね」
「ありがとうございます。俺にとって唯一の大事な物なんです」
それは一種の儀式であり、誓いであり、戒めである。
歩く度に柄頭にぶら下がった鈴が鳴る。それはとても懐かしい音で、物足りなさを感じていた刀がその鈴をつけたことにより完成されたように思えた。
・
・
・
地下迷宮に入るのはそれほど難しいことでは無い。都市の少し外れ、歩いて20分もしないところにその入口はある。
不自然に地面に空いた大きな穴。それを囲むように周りには柵が建てられ、内には小規模であるが出店郡か存在する。本丸の迷宮の入口には不正入場を防ぐための組合員が2人ほど在中しており、それに組合証を見せれば難なく迷宮内に入場できる。
特に注意事項などの説明はなく、流れ作業で検問を終えてハヤテたちは難なく地下迷宮に足を踏み入れる直前まで来ていた。
「これが迷宮へと続く縄梯子……!!」
「……」
大きな入口、基、大きな穴へと降りるための縄梯子を見てマリネシアは興奮気味であった。反してハヤテは釈然と行かない様子。そんなハヤテを見て何事かとマリネシアは小首を傾げた。
「テンションが低いですねハヤテ。さっきまでの子供のようなはしゃぎようはどうしたんですか?」
「いや、あの……お嬢様───」
「……?」
それに対してハヤテはずっと気掛かりだったことを質問する。
「───本当に二人だけで迷宮に行くんですか?」
「……? ええ、そうですよ?」
意を決したハヤテの質問にマリネシアはなんて事ないように答えた。それに対してハヤテはめげずに言葉を続ける。
「流石に二人だけでは危険なのでは?」
「……大丈夫ですよ!昨日の試験を見て確信しました!ハヤテと一緒なら迷宮なんて余裕ですと!」
マリネシアは少し考える素振りを見せるが、しかしそんな楽観的な答えを返す。それに思わずハヤテは眉根を顰めた。
───そこまで信頼されているのは嬉しいが、過大評価がすぎる。
ハヤテは自身の強さに確かな自負はあるが、それを鵜呑みにされすぎても困るものがあった。戦場であろうと、地下迷宮であろうと戦うことに恐怖は無い。しかし、それは一人の時だけである。彼の性格上、誰かを守りながら戦うという技術は無いに等しかった。
ましてやこれから彼らが挑もうとしているのは〈異世界〉と名高い地下迷宮。そこは数々の秘宝を溜め込み、多くの人間を魅了するが、それと同じくらいの悪意が蔓延っている場所である。奴隷として、主人の命を必ず守り抜かなければならないハヤテの不安は至極当然なものであった。
しかしどういう訳か彼の主人はこの楽観的思考であった。
「私たちなら大丈夫です!さあ、早く行きましょう!!」
そう勇む主人の姿は何処か焦っているように見える。
「…………」
ハヤテの中に別の違和感が浮上するが、奴隷である彼にそれを正す術は無い。どこであろうと主人の言ったことは絶対なのだ。最終的には彼女の判断に従うしかない。
そうとは分かっていても嫌な感覚は拭えない。それどころか増していくばかりだ。
───久しぶりの感覚だ。
それは初めて戦場に駆り出された時と似たような感覚であった。
問答はそこで終わり。ハヤテ達は死線と悪意蔓延る魔窟へと足を踏み入れた。
「……普通、こんな上等なモンを奴隷なんかに用意するかね?」
更に昨日の小汚い格好から一転、一夜明けてハヤテの身なりもだいぶん綺麗になった。姿見に映った自身の姿を見て、ハヤテは苦笑した。
マリネシアに頼んで用意してもらった浅葱鼠色の着流し。久方ぶりに袖を通した着流しは、まだ奴隷に落ちる前は常に着ていたものだ。
───これを着てよく鍛錬に明け暮れていたな。
今はもう遥か昔に感じられる記憶。数年ぶりの着流しは以外にも肌に馴染む。それは一重に身に着けてるものが上等品だからという理由だけではないだろう。
当たり前のように与えられた一人部屋は客人を饗すかのように手入れが行き届いており、余りの分不相応な待遇に居心地はそれほど良くなかった。奴隷の身であれば馬小屋でさえ上等な寝床になると言うのに、ハヤテの主人はそれを良しとはしなかった。
「本当に、おかしな人だ」
最後に改めて姿見でおかしなところが無いかを確認する。そうして問題ないと判断すれば、ハヤテは昨日組合で貰った探索者の証である小さな銀板を首から下げる。
受付嬢───セリーヌの話ではこれが無ければ普通は地下迷宮に入ることが出来ないらしい。
「さて、そろそろ行くか」
辛うじて覚えている彼女の説明を思い返しながら、ハヤテは部屋から出る。まだ陽は昇ったばかりであったが、彼には朝早くから主人に呼び出されていた。
予め教えられていた主人の部屋には特に迷うことも無くたどり着けた。少し作りの違う扉を軽くノックすれば「どうぞ」と中から入室の許可が下りる。
ハヤテは少し躊躇いながらも扉を開けて中へと入った。
「お嬢様、失礼します」
「おはようございます、ハヤテ」
「……はい、おはようございます」
出迎えてくれたのは言わずもがなこの部屋の主であり、ハヤテの主人でもある少女───マリネシア。彼女は柔らかな笑みを浮かべながら椅子に座っていた。
ハヤテはやはり躊躇いを覚えながらも軽く部屋を見渡して、直ぐにその場に跪く。普通であれば奴隷は地べたに額を擦り付けて平伏するものだが、これもまたマリネシアは良しとしなかった。
「……」
慣れない動作に違和感を感じながらもハヤテは主人の次の言葉を待った。
「無事にハヤテも探索者に慣れたことですし今日から早速、地下迷宮に行こうと思います」
「はい」
「楽しみですね!」
「…………はい」
今までの主人然とした態度は何処へやら、マリネシアは無邪気な子供のように興奮している様子だった。それに対してハヤテはどんな顔をすればいいのか分からず、仏頂面で頷くことしか出来ない。
どこか貴族の令嬢らしくないマリネシアの態度。しかし、よくよく話を聞いてみると彼女は貴族では無いのだという。
「私が用意した服は問題なさそうですね。ただの布に見えてそれには魔法が込められていて、鉄の鎧よりも頑丈です。良い買い物でした」
「たかが奴隷如きにこれほどの服を与えて下さり、誠にありがとうございます」
「そういう畏まった態度は辞めてくださいと言ったでしょう。これからは一緒に迷宮を冒険する仲間になるのです。もっと気楽に行きましょう」
「はぁ……」
なんでも彼女の家はこの迷宮都市ではそれなりに有名な商家であり、迷宮から発掘された産物を様々な国へと流通することに長けているらしい。ハヤテに与えられた魔法の込められた着流しもそういった側面から入手できたものであった。
───商人の娘と言えど、これだけの財貨を得る豪商であれば貴族と何ら変わりないだろうに……。
少しは格式や上下関係を気にしそうなものなのに本当にマリネシアにはそう言ったモノがなかった。
これまで出会ってきた人間とは全く違う彼女のコミュニケーションに、ハヤテはやはり違和感を拭えずにいるとマリネシアは楽しそうに言葉を続けた。
「それから頼まれていた武器です」
「……見つかったんですか?」
「ここは迷宮都市ですよ?ハヤテの欲しがる武器の一つや二つ、見つけるのは難しくありません」
ハヤテは思わず垂れていた頭を上げる。視界に入ったマリネシアは一つの細長い布包を抱えていた。ハヤテはそれを受け取とると恐る恐る布を脱がす。
「…………ッ!」
布の下から姿を現したのは黒い鞘に納められた一本の刀。迷宮に行くのだから武器が必要になる。その武器としてハヤテが選んだのが彼の中で一番馴染みのある刀だった。
───相当な業物だ。
一目見て、ハヤテは息を飲む。たかが奴隷に買い与えるにはその刀は些か上等すぎた。「本当にコレを自分が貰ってもいいのか?」と思わず躊躇うハヤテに彼の主人は無言で受け取るように促した。
「ありがとうございます」
渡された刀を腰差しにして、ハヤテは深々と頭を下げた。
「どういたしまして。その刀を振るって遺憾無く貴方の強さを見せてください」
「勿論でございます」
身が引き締まるような思いだった。
単純であるが、この刀を与えられた瞬間にハヤテのマリネシアに対する忠誠心は揺るがないものになった。そうなってしまうほどに彼にとって刀とは、ハヤテという人間の中心に在った。
「それでは、行きましょうか」
甘んじて、と言った感じであったがハヤテの忠誠を受け取ったマリネシアは立ち上がり部屋を後にする。それにハヤテも慌てて続いた。向かう先は聞くまでもなかった。
主人の背中を追いながら、ハヤテは懐から一つの鈴を取り出す。それは彼が奴隷に落ちる前から肌身離さず持っていた唯一の持ち物であった。片手間にその鈴を刀の柄頭に紐で括り付けてぶら下げる。
凛と、こ気味良い鈴の音が耳朶を打つ。
「あら、綺麗な音の鈴ですね」
「ありがとうございます。俺にとって唯一の大事な物なんです」
それは一種の儀式であり、誓いであり、戒めである。
歩く度に柄頭にぶら下がった鈴が鳴る。それはとても懐かしい音で、物足りなさを感じていた刀がその鈴をつけたことにより完成されたように思えた。
・
・
・
地下迷宮に入るのはそれほど難しいことでは無い。都市の少し外れ、歩いて20分もしないところにその入口はある。
不自然に地面に空いた大きな穴。それを囲むように周りには柵が建てられ、内には小規模であるが出店郡か存在する。本丸の迷宮の入口には不正入場を防ぐための組合員が2人ほど在中しており、それに組合証を見せれば難なく迷宮内に入場できる。
特に注意事項などの説明はなく、流れ作業で検問を終えてハヤテたちは難なく地下迷宮に足を踏み入れる直前まで来ていた。
「これが迷宮へと続く縄梯子……!!」
「……」
大きな入口、基、大きな穴へと降りるための縄梯子を見てマリネシアは興奮気味であった。反してハヤテは釈然と行かない様子。そんなハヤテを見て何事かとマリネシアは小首を傾げた。
「テンションが低いですねハヤテ。さっきまでの子供のようなはしゃぎようはどうしたんですか?」
「いや、あの……お嬢様───」
「……?」
それに対してハヤテはずっと気掛かりだったことを質問する。
「───本当に二人だけで迷宮に行くんですか?」
「……? ええ、そうですよ?」
意を決したハヤテの質問にマリネシアはなんて事ないように答えた。それに対してハヤテはめげずに言葉を続ける。
「流石に二人だけでは危険なのでは?」
「……大丈夫ですよ!昨日の試験を見て確信しました!ハヤテと一緒なら迷宮なんて余裕ですと!」
マリネシアは少し考える素振りを見せるが、しかしそんな楽観的な答えを返す。それに思わずハヤテは眉根を顰めた。
───そこまで信頼されているのは嬉しいが、過大評価がすぎる。
ハヤテは自身の強さに確かな自負はあるが、それを鵜呑みにされすぎても困るものがあった。戦場であろうと、地下迷宮であろうと戦うことに恐怖は無い。しかし、それは一人の時だけである。彼の性格上、誰かを守りながら戦うという技術は無いに等しかった。
ましてやこれから彼らが挑もうとしているのは〈異世界〉と名高い地下迷宮。そこは数々の秘宝を溜め込み、多くの人間を魅了するが、それと同じくらいの悪意が蔓延っている場所である。奴隷として、主人の命を必ず守り抜かなければならないハヤテの不安は至極当然なものであった。
しかしどういう訳か彼の主人はこの楽観的思考であった。
「私たちなら大丈夫です!さあ、早く行きましょう!!」
そう勇む主人の姿は何処か焦っているように見える。
「…………」
ハヤテの中に別の違和感が浮上するが、奴隷である彼にそれを正す術は無い。どこであろうと主人の言ったことは絶対なのだ。最終的には彼女の判断に従うしかない。
そうとは分かっていても嫌な感覚は拭えない。それどころか増していくばかりだ。
───久しぶりの感覚だ。
それは初めて戦場に駆り出された時と似たような感覚であった。
問答はそこで終わり。ハヤテ達は死線と悪意蔓延る魔窟へと足を踏み入れた。
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