寝薬

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"幸福"のカタチ

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「寝薬って知ってる?」
彼はようやく本題を話し始めた。無理矢理店に連れ込むなりだらだらと世間話を聞かされて15分後のことだった。
「睡眠薬のことですか?」
「まさか。そんな恐ろしくて下劣なものと一緒にしないでくれ」
そう彼は言い、赤黒い舌で唇についたホイップを舐めて見せた。オレンジの明かりが照らす明るい店内でその舌は異質な存在感を放っている。
「それにしてもこのエンゼルフレンチ甘いんだっての」
男はついさっきまで笑みを浮かべながら頬張ってたそれを飽きた玩具のように、ぶっきらぼうに、僕の方へ寄越す。
「そういう割にチョコの部分はしっかり食べるんですね」
「お子様には分からねーよ。大人ってそういうもんなの」
大人になっても貴方みたいな人にはなりたくないです、という言葉は心の中に閉まっておくことにした。寝癖なのか”無造作風”なのか分からないクシャクシャの髪、くたびれたシャツに安っぽいネックレスとピアス。この男は30半ばくらいであろう、正直言って歳不相応のこの服装でも彼の前ではそういうファッションに見えた。不健康な肌の色をしているが、深みのある声と整った顔立ちが不気味にもそういう印象を与える。
「…で、その寝薬って」
僕は可哀想なエンゼルフレンチを拾い上げながら尋ねる。ドーナツには歯型がくっきりと着いている。
「百聞は一見にしかず。これを見てみな、少年」
そう言うと彼は古めかしい青いガラス製の小瓶を渡してきた。僕はエンゼルフレンチを元の位置に戻し、代わりにそれを受け取る。瓶の蓋の部分には金の装飾が施されておりとても高価なものに見える。捻ると先端は細くなっており、いわゆる目薬のようなものだろうか。
「これを点眼するとな、怖いくらいよく眠りにつけんの」
「いかにも怪しいですよそんなの」
「まあ当然の反応だな、だが安心してくれ。違法になるような成分は全く入っていない。まあ何が入っているかは企業秘密だが」
「余計に怪しいのですが」
「そう言うなよ、結構貴重なものなんだ、ほら君にもひとつあげるから」
そう言って彼は胸ポケットからもう1つ小瓶を取りだした。こちらは薄紫色の小瓶でやはりアンティーク物のように見える。
いやいや、要らないですって、と拒否するもこの男、譲ろうとしない。タダなものほど怖いものは無いから、と僕は続ける。
「確かにごもっともだ。…じゃあこのノートにその薬の効能を記録してよ。いわゆるモニターってやつ、それだったら貰ってくれる?」
ああ、仕事が増えてしまった。
「まあ…気が向いたら」
「サンキュー。ほら、これ俺の連絡先だから。やばい薬売ってますって警察につき出したくなったらこれ渡しな」
そこには安っぽい厚紙に手書きで「新島聡」と書かれた名刺があった。他の情報は電話番号のみで住所すら書かれていない、名刺と呼べるかも怪しい代物だ。
そんなことしませんよと言い返すと彼は微笑を浮かべ、タバコを1本取り出すなり外へ吸いに行ってしまった。セブンスター、僕でも聞いたことある銘柄だ。
もう一度、薬を注意深く調べてみる。無臭で澄んだ透明の液体だ。断るだけの理由は認められなかった。僕は寝薬のモニターになることに決めた。



__月__日

モニター初日。
特に変わりなし。
少し体が楽な気がしますが気のせいの範囲かと。
…正直な感想です。怒らないでくださいね。

__月__日

2日目。
特に何も起こりませんでした。
まだ2日目なので仕方がないですかね。様子見してみます。



それは男と出会って2日後の夕方の事だった。見覚えのない電話番号から着信があり、恐る恐る出ると例の男だった。
「少年、薬の調子はどうだ?」
一昨日と変わらない声で彼は聞いた。
「まだ効果は出ていません、まあ最初はそんなものでしょう?様子見してみようかと思ってて」
「効果が出てない?そんなはずは…あー、分かった。それは君自身に原因があるんだ、君に足りないものが原因、わかる?」
「薬の効き目が悪いのは僕のせいだって言うんですか?」
嫌な言い方に心が灰色に濁る。
「そりゃあもちろん。なんてったってこの薬は完璧だからね、被験者の君以外に問題があるとは思えない」
バカにするような言い方にますます血が頭の方へ昇っていく。
「…なんだよ、僕に何が足りないか勿体ぶらずに言ってくださいよ!」
電話口とはいえ、しまった、と思った。しかし、男は淡々とした口調でこう続ける。
「この薬はただの薬じゃない。あえていえば精神に作用する、って感じだけれどそんじょそこらの薬の仕組みとは違う。イマジネーションと欲。それがキーになる」
「イマジネーションはまだ分かるけど欲ですか…?」
さっきまでふつふつと煮上がっていた体はすこしずつ落ち着きを取り戻していく。
「欲。君全然欲ないじゃん。この前俺が押し付けたドーナツだって置いて帰っちゃうんだから」
「あんな食べかけ、誰だって嫌でしょう」
「だから僕に欲はあるって?本当にそうかな~?…君優しいってよく言われない?大体俺に声かけられて逃げなかったもんね。でもそれって本当は優しいんじゃなくてどうでもいいから、なんだよね。興味なんて、欲なんか、そもそもないから他者に行動を委ねる、敷かれたレールの上をバカ真面目に進む。そうじゃない?」
これには少し自覚があった。というより今気付かされた。返す言葉が見つからずに僕はどもってしまう。
「ふふ、やっぱり。体格、顔色からしても食欲、睡眠欲、たぶん性欲も乏しいんじゃないかな?」
「そんな…こと…」
彼の艶のある声が僕の全てを見透かしているようで喉がカラカラになっていく。
「だから何ですか…。僕の分析なんかして何になるんですか」
「はい、そういう所。イマジネーションが足りてない。そうだな…1つヒントをあげよう。欲求に忠実になること。別に見せかけの欲求でもいい。自分で何かを決定してみる。まずはそこからだ」
いちいち嫌味な言い方に腹が立ちつつも僕は彼の言葉を心に留めた。じゃあまたな、モニター頼んだよ、と言い僕の返事も待たずに電話は切られてしまった。本当に予測できない人だ。



__月__日

モニターを始めて2週間経った。
自分ではあまり自覚はないけれど、性格が変わったとよく言われる。
欲求には忠実になったつもりです。
貴方に言われた通りしっかりご飯を食べるようにしました。寝るようにしました。
嫌なものには嫌と言うようにしました。あんな顔をされたのは人生で初めてです。
それでも変わっていくことが楽しい。

追記:薬が効きにくくなりました。服用量を増やしました。



僕は今、聡さんに追加分の薬を貰いに出かけている。最近食欲が物凄いせいで、昼ご飯を食べ過ぎたかもしれない。歩く度に胃の中がグルグルと回って気持ち悪い。
オマケに得体の知れない不安に襲われる。睡眠欲、この頃夢の世界がとても楽しい。朝起きるのなんて苦じゃなかったのに。得体もしれない喪失感が。奪われる僕の記憶が。この世界がどこからともなく現れて、意識を上書き保存してしまう。夢というゴミ箱へ捨てられた僕だけの世界は?誰が現世と夢とをすり替える?何のために?僕の世界に僕から独立した人間なんていらないのに。こんな偽物僕じゃない、やめて、見ないで、汚いのに、嫌…
「おえっ」
せり上がってくる不快感に身を任せると地面へピンクの半ゲル状の液体が垂れ流された。
「なにこれ…」
周りの通行人はささっと僕から離れ嫌な顔を向ける。
あれ、今って夢の世界だっけ…?
もうどうでもいいや、と思いそこに座り込んでいると
「…盛大にやってるね、少年」
と聞き馴染みのある声が降って来た。



「取り敢えず問題はなさそうだね、順調順調」
一通り僕の日記に目を通したあと満足げに彼は言った。
「本当ですか?僕の体調不良は?」
「それは急に食べるようになって体がびっくりしてるだけ。そのうち慣れるさ、吐いたって死ぬわけじゃないし。あと睡眠だって我慢しなくていいからね、そのピンクに見えたってやつは現実逃避と睡眠不足だと思う」
欲望には忠実に、そうだよな。我慢は体に良くない。
「…それで追加の薬は?」
「あー、忘れるところだった。はいこれ。前より濃度上げてるからよく効くと思うよ」
薄紫色の瓶に詰められた液体がキラキラと光る。僕はサッと男の手から瓶を受け取る。
「ありがとうございます」
「いえいえ、こっちも日記助かるよ」
「それではこれで」
「はいはーい」
怠さを纏ったその男の手は死にかけの蝶のように彼の頭上を舞っていた。



「そろそろかな」
土曜の忙しないレストランの喧騒に紛れ男はそう呟いた。



「薬がもう効かない」
目の前の男に苛立ちを訴える。おかしいのは分かってる、僕が普通じゃないから。3日前に貰った薬をもう使い果たしてしまうなんて。髪をくしゃくしゃにして頭を抱える僕を彼は楽しげに見ている。
「なんだよ」
「いやあ、別に?」
可笑しいか、笑えばいい。どうせ誰にも分からないんだから。
「早く次の薬を」
「まあまあ、そう焦らずにさ」
そう言って彼は新しい薬を渡そうとする、が躊躇いがちにバッグへと戻してしまった。
「…早く渡せよ」
「あー、そう思ったけど今の君にはこっちの方が向いてるかなと思って」
そう言ってもう片方のポケットから錠剤の瓶を取り出した。
「…何だそれ」
「寝薬の錠剤タイプさ。今までの何倍もの効果を得ることができる」
「なんだよ、そんなものがあるなら早く渡せよ!!!」
僕は男から錠剤を奪い取った。
早く、早く飲まなきゃ、この薬がなければ僕はダメなんだ。
「次のも用意しとけよ」
「はいはーい」
眠そうな声はどんどん遠ざかっていく。早く家に帰らなければ。





__月__日

僕の体はもう現実への執着を失ったようであった。
穏やかな眠りだけを求めていた。
皮膚に散る淡い花は3日で枯れ、汚い跡だけがいつまでも残る。
汚いものばかりを吸って、聞いて、見て、食べて…どこを切っても黒ずんだ肉体。
誰かが「甘えてないで現実を見ろ」と言った。
聴き触りの優しい言葉だけ聞いていたいって。もう汚したくない、汚されたくない、…何もしたくない。
もう階段は昇ってしまったもの。それでも絞首台の隅で眠ればいい。
揺れる死体を見上げ、柔らかいタオルケットに包まれながら。

そこでペンを止めて、僕はもう一度貰った錠剤を見つめた。やさしいピンク色の錠剤は暖かい、心地よい夢を予感させる。水滴の滴る、少しぬるくなったコップの水を口半分に含み、そこにありったけの錠剤を流し込み、飲み込んだ。何度も、何度も飲み込んだ。恐ろしい勢いで幸福が膨張し、僕の体を突き破って溢れる。襲い来る倦怠感、眠りにつくべきと本能が云っている。それでも溢れて、止まりそうにない幸福を僕が止めるんだ。眠りにつかせるのは僕だから。意識を正気に保ったまま僕はゆっくりとまぶたを閉じる。暗幕が落ち、天の川の卵が孵る。静寂の中そっと世界を手放す。多幸感の中、僕は底へ、底へと沈んでいく。呼吸を諦めて。






__今日未明、××市の住宅で男性の遺体が発見されました。睡眠薬を大量に服用し、遺書が発見されたことから自殺したものと見られており____

変わり映えのない日常を淡々と告げるテレビの電源を切り男はコーヒーを飲み干した。
「やっぱりこの苦さだよな」
足元に散らかる積み木を押しのけて自室へと向かう。飽き性なのは悪癖。
「今回の名前は…反対で古島かな~」
馴れた手つきで厚紙にペンを走らせ胸ポケットへと放り込む。
「今日のラッキーカラーはイエロー」
女性キャスターの明るい声が蘇る。棚に並べた小瓶の中から黄色いものを選び取り、男は軽い足取りで街へと出かけてゆく。今日は一段と空が綺麗だ。
街には沢山の人がいる。皆それぞれの悩みを抱えている。ほら、今日も1人。
忙しなく時計の時間を確認し、憂いを帯びた瞳で空を仰ぐ女が。


「ねぇ、そこのお嬢さん」
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