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プロローグ
「解き放たれた黒い鬼」その1
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――『ヨッキーだよ。妖気を感知したよ! 妖気を感知したよ! 助けが必要かい?』
「えっ? 妖気って何の事だよ……てか、何で勝手にスマホが喋ってんの?」と額に汗を滲ませる鬼束 桃眞は、狼狽しながらも学生服のズボンのポケットから取り出したスマートフォンに視線を下ろした。
ヨッキーとは、スマートフォンに搭載されている人工知能の事である。
癖ッ毛の銀髪に丸いメガネを掛け、和装のイラストを纏う愛らしいキャラクターだ。
所有者のあらゆるサポートを行う便利なAIコンシェルジュらしい。
普段は所有者が話しかけないと反応しないのだが、今、この瞬間に限ってはヨッキーが勝手に喋り出していた。
何故、急にヨッキーが喋りだしたのか? そして言葉の意味をじっくりと考えたいところだが、そんな余裕は一切ない。
桃眞は直ぐさまスマートフォンから視線を正面に戻した。
直ぐに戻さなければ、一瞬の油断が命取りになるからだ。
その得体の知れない黒い異形の化物によって……。
鼻や口そして耳も無く、黒光りする顔の表面を駆け巡る緑光を放つ幾つもの眼。
胴は薄いが面積が広く、異様に反り上がる肩から膝下まで伸びる細い腕。
下半身は痩せ細り、同じく長い脚が傷だらけのフローリングの上に立っている。
赤黒く焼け爛れた体には、黒く蠢く筋繊維一本一本がビクビクと蠕動して見える。
筋骨たくましく膂力に満ちた体型と反しているにも関わらず、その華奢な体から発せられる不気味さと狂気が桃眞の全身を恐怖の二文字で縛り付けていた。
二階建ての自宅の一階。
リビングテーブルを挟んで桃眞と黒い化物が向かい合う。
桃眞の背後では、恐怖に怯える母親を守ろうと覆いかぶさる父親が、和室の隅で体を震わせる。
黒い化物の右肩が一瞬動いた。
直後に桃眞の右頬を疾風が突き抜ける。
脳内信号が危険を認識した数秒後に、遅れてしなるムチの様な音がブゥンと鳴り、同時に天井の照明器具が粉砕され火花を散らして暗転し、リビングテーブルが真っ二つに割れた。
家中を切り裂く音に振り返ると、和室の畳まで一直線に抉れているのが見える。
ワザと外したのか? 遊んでいるのか?
どっちにしろ今の攻撃を体に受けていたら重傷は免れないだろう。
桃眞は唾が出ない喉を鳴らした。
早鐘の如く心音が全身に伝わり、挫けそうな心が脚の自由を奪ってゆく。
気を抜けば解放された緊張感から意識が遠のきそうだが、ギリギリのところで精神力を維持し続ける。
まだ死ぬわけにはいかない、と桃眞は自分を鼓舞した。
――『ヨッキーだよ。妖気を感知したよ! 妖気を感知したよ! 助けが必要かい?』
ズボンのポケットの中から、またも同じ言葉を繰り返し同意を求めてくる。
それを願えばこの状況から救ってくれるのだろうか?
黒い異形の存在とヨッキーの暴走? と言う現実離れした状況のせいで正常な判断など出来るわけもないが、今この瞬間も死と隣り合わせである事は間違い無い。助けてくれるのなら藁にもすがりたい。
「……とにかく、助けてくれるなら助けてくれッ」と桃眞はヨッキーの言葉に同意した。
――『オッケー。怪伐隊に出動依頼を発信したよ。続いてアプリのインストールを開始するよ』
「か、怪伐隊? インストール?」
次から次へと聞き慣れない言葉が飛び出すが、それらを噛み砕いている余裕が無いのは一目瞭然だ。
そのあいだ黒い化け物は動くことも無く、ただ緑の眼が顔を這いずり回り、時折体の何処からか引き笑う掠れ声が発せられる。
殺そうと思えばいつでも殺せるはずだ。 だがそうしないのは、やはり遊んでいるのか? それとも明確な殺意は無く、ただの衝動に突き動かされているだけなのかも知れない。
今のうちに逃げる事が出来たかも知れないが、両親を置いては行けない。そして何よりも体が動かないのだった。
――『インストール完了。対象怪異は”鬼”だ。伸びる鉤爪とムチのような腕、そして胴体から飛び出す触手が特に危険なんだ。怪異レベルは”陸級怪異”だよ』
「怪異レベル? 鬼? 何だよソレ」と、聞き慣れない情報に耳を疑う。
だが、今、この状況に対しては適格な情報なのだろうと桃眞は思うしかなかった。
――『アプリを起動。画面に護符が表示されたよ』
そう言われて画面を見ると、謎の紋様と篆書体の文字が描かれている。
――『怪伐隊到着まで、ある程度の怪異なら、この護符が君を守ってくれるんだ』
その時、父親が桃眞の肩を掴んだ。
「桃眞ッ、逃げるぞッ!!」
「いや、待って。真理がッ……真理がアノ中に」
「今は逃げるほうが先決だッ!!」
真理……。彼女は桃眞の親友だ。
事の始まりは真理がバイト終わりに持って来たガラスの小物入れだった。
オークションサイトの『カルメリ』で購入した"小さなガラスの小物入れ"である。
金の細工が施され、勾玉の形をしたキラキラと光る翡翠の蓋が美しい。
聞けば、驚くほど安いその小物入れを見つけた真理は、迷うことなく購入したそうだ。
だがやはり、その価格には理由があるのだろうか……。
――『全く蓋が開かない』と片手にスッポリと収まる小物入れを桃眞に手渡した途端、ソレは始まったのだ。
力を加える事も無く手の中で亀裂が走り、崩れさる小物入れ。
直後、真理の紺色のスカートの上に黒い粘性の液体が付着している事に気付く。
そして、その液体はミミズのようにうねうねと蠕動し、真理の腕に貼り付くと膨張を始めた。
恐怖から絶叫する真理と、目を疑いながらもソレを引き剥がそうと桃眞が爪を立てる。
父親が持ってきたハサミを突き立てようが傷一つ付かず、為す術なくソレは真理の全身を包み込んだ。
黒い固まりはブルブルと震えながらも膨張し、形を変え……黒い異形の存在=黒い鬼へと変貌したのである。
――そう、つまりこの黒い鬼の中には真理がいるのだ。
和室の縁側へのガラス扉が開いており、既に父親が母親を逃がしている。
桃眞の手首を掴んだ父親が和室の方へ誘導を始めた。その時……。
またも疾風を感じた桃眞の脇を化物の腕がしなり床を抉った。
今度は水平に腕を振ったのが見え、桃眞は「危ないッ!!」と叫び父親の手を引っ張りながら腰を下ろす。
疾風が頭上を駆け、直後にガラス扉が粉砕、襖や壁にも亀裂が走る。
しゃがんでいなければ胴体が寸断されていたかも知れない。
「ぐぅあッ……!?」と父親の苦痛に唸る声が聞こえた。
振り返ると、割れたガラスが父親の肩に突き刺さっている。
グレーのシャツに血が滲んでいるのが見えた。
「親父ッ!?」
「アナタ大丈夫ッ!?」
裏庭から父親の傷に驚き母親が声をあげた。
母親の側で銀色のハスキー犬である『イヌヒコ』が、ワンワンと忙しなく吠えている。
「クソッ……マジかよッ」
鬼はその場から動くこと無くケタケタと肩を震わせていた。
ここからどうすれば良いのか? それよりも怪伐隊とやらはいつになったら助けに来るのだろうか?
そんな事を考えている内に、鬼が和室へとやってきた。
父親は腰を抜かし縁側の手前で粉砕したガラスの上に尻から崩れ落ちる。
桃眞の手首を掴む父親の手に力が入り、震えが伝わってくるのを感じた。
――『さぁ、護符を鬼に向けるんだ』
またも勝手に喋りだしたヨッキー。
言われるがまま桃眞は父親の前に立ち、ヨッキーの言葉を信じスマートフォンの画面を突き出した。
もう破れかぶれ、信じる他ない。
「こんなんでどうなるんだよ? 助かんのかよッ」
そう言ったと同時に、鬼の指先から鋭利な爪が瞬く間に伸びた。
空を裂く鉤爪が桃眞の心臓を貫かんと迫り来る。
するとスマートフォンに表示されていた護符が光りだし、ドーム型の魔法陣が展開され二人を包み込んだ。
鉤爪が魔法陣と衝突し、乾いた破裂音と共に火花が散った。
魔法陣に弾かれた鉤爪が縮み、鬼の指先に収まる。
――『防御結界を展開したよ』
「どうなった?……何が起こった?」と父親が狼狽する。
この絶望的な状況の中、黒い化物の攻撃を防げたと言う事実が、折れかけていた桃眞の心に希望を宿した。
「これなら。なんとか……」
――『ダメージ値を再計算したよ。残りのバッテリー消耗から割り出した結果、鬼の攻撃を防げるのはあと一回だ』
「あと一回って、ふざけんなよ。最後まで守ってくれるんじゃないのかよ」と、桃眞はスマートフォンに向かって怒声を浴びせた。
護符の右下で、正座をしたヨッキーが緑茶をゴクリと飲み……ほっこりとした。
「ほっこりすんなよ……」
またも飛んできた鉤爪が魔法陣に弾かれる。
慌てて画面を見ると護符が消えていた。
バッテリーマークが点滅を繰り返す。
「おい、その怪伐隊っていつ来るんだ?」
――『間もなくだよ』
「間もなくって……待ってられっかよ」と焦る桃眞の額から汗が流れた。
「桃眞ッ」と父親が呼んだ。
振り返ると、父親が差し出したスマートフォンの画面にも護符が表示されていた。
どうやらヨッキーは父親のスマートフォンでも起動していたようだ。
「俺のスマホだ。こっちにも同じモノが……これも使えるだろ」
「あぁ、だけど……。このままじゃ時間の問題だ」
その時、桃眞の胸元から首飾りが出ている事に気付く。
小さな楕円形の鏡の首飾りだ。
鏡の周囲には青銅色の石のフレームが一周しており、不思議な模様が掘られている。
ハッと、桃眞はある事を思い出す。そして、まるで自分に呆れたかのように自嘲する薄笑いを漏らした。
「これがあった事を忘れるなんて。俺ってホント馬鹿だよな」と身に着けていた首飾りをゆっくりと握り締めた。
そして両親の方へ振り返り、"ある決意の眼差し"を送る。
「桃眞……」と母親がその決意を察した。
「俺が母さんと父さんを守る……」
両親からは絶対に首飾りを外すなと幼少期から言いつけられていた。
理由は分からないが、どうやら桃眞には特別な力があるらしく、この首飾りはそれを封印しているとの事。
とは言え、これまでにも興味本位で何度が首飾りを外した事があり、その結果、桃眞自身にどんな影響が出るかも検証済みだ。
だが今回に限っては、今までの力の検証とは違う。
ついに、その力を実践で初めて使う為、桃眞は覚悟を決めて首飾りの革紐を引きちぎった。
途端に押さえ込められていたであろう力が解き放たれ、桃眞を中心に空気の振動が波紋の様に広がる。
拳に力が入り全身の重みが消えてゆく。そして感覚が冴え渡るのを感じた。
ゆっくりと目蓋を開くと鋭くなった目付きで鬼を睨む。
――『ヨッキーだよ。法力を感知したよ! 鬼束 桃眞の身体能力の上昇を確認』
「"法力"って何の事だよ!? この力の事なのか? コイツ、そんな事もわかるのかよ」
桃眞は拳を握り締め、腰を下ろした。
――『拳に法力の収束を確認。対象の鬼に有効打を与えられる可能性がアップ』
――『同時に体表に法力の防御膜を形成。対象の鬼の攻撃に対するダメージ耐性がアップしたよ』
――『イイねッ!!』とヨッキーが両手の人差指を突き出してポーズを取った。
「親父。危ないから母さんのところへ。そして、安全な場所に逃げてくれ」
父親が和室から出たのを確認して、桃眞はもう一度ヨッキーに問いかけた。
「ヨッキーッ!! アイツの情報が分かるなら、何か弱点とかないのか?」
――『対象の鬼に大きなダメージを与える、もしくは気絶させる事ができれば、鬼が宿主者から離脱する可能性があるかもよん』
「あるかもって何だよ」
――『確実じゃないんだ。可能性を算出すると15%だよん』
「でも、今はそれに賭けるしかないだろ。怪伐隊なんて待ってられない」
そう言うと、桃眞は鬼に向かってファイティングポーズを取った。
この力がどこまで通用するのか分からない。
だが、どうせ殺されるなら全てを出し切ってからだ。
全力で抗う。
桃眞の闘争心が臨界点に達した。
「真理ッ……俺が必ず助け出してやるからな」
動体視力と感覚が研ぎ澄まされ、しなる腕が疾風を放つ前に体が動いていた。
体を反転し射程範囲を逸らす。
裂傷痕が縁側から裏庭を駆け抜けブロック塀にまでを抉りとる。
「当たるかよ」
桃眞を貫かんと飛び出した鉤爪を顔を傾け、手の甲でいなす。
和室の壁を鉤爪が貫通した。
「今度はこっちから行くぜッ」
全力で畳を踏みしめ一気に間合いを詰める。
突進時の瞬く間の初速により残像が残った。
空気を裂きながら地面を踏みしめ、限界までしならせた渾身の右ストレートを黒い鬼の顔面にブチ込む。
鈍い音が鳴った……。
衝撃波が家を揺らした……。
鬼の顔が凹み、首が異常に伸びる。
パンチの衝撃で黒い化物の足が床から浮くと、リビングを突き抜けそのままベランダのガラスを突き破り、庭のブロック塀に激突した。
黒い鬼は砂埃をあげながら崩れ去るブロックの中にうもれたのだった。
「えっ? 妖気って何の事だよ……てか、何で勝手にスマホが喋ってんの?」と額に汗を滲ませる鬼束 桃眞は、狼狽しながらも学生服のズボンのポケットから取り出したスマートフォンに視線を下ろした。
ヨッキーとは、スマートフォンに搭載されている人工知能の事である。
癖ッ毛の銀髪に丸いメガネを掛け、和装のイラストを纏う愛らしいキャラクターだ。
所有者のあらゆるサポートを行う便利なAIコンシェルジュらしい。
普段は所有者が話しかけないと反応しないのだが、今、この瞬間に限ってはヨッキーが勝手に喋り出していた。
何故、急にヨッキーが喋りだしたのか? そして言葉の意味をじっくりと考えたいところだが、そんな余裕は一切ない。
桃眞は直ぐさまスマートフォンから視線を正面に戻した。
直ぐに戻さなければ、一瞬の油断が命取りになるからだ。
その得体の知れない黒い異形の化物によって……。
鼻や口そして耳も無く、黒光りする顔の表面を駆け巡る緑光を放つ幾つもの眼。
胴は薄いが面積が広く、異様に反り上がる肩から膝下まで伸びる細い腕。
下半身は痩せ細り、同じく長い脚が傷だらけのフローリングの上に立っている。
赤黒く焼け爛れた体には、黒く蠢く筋繊維一本一本がビクビクと蠕動して見える。
筋骨たくましく膂力に満ちた体型と反しているにも関わらず、その華奢な体から発せられる不気味さと狂気が桃眞の全身を恐怖の二文字で縛り付けていた。
二階建ての自宅の一階。
リビングテーブルを挟んで桃眞と黒い化物が向かい合う。
桃眞の背後では、恐怖に怯える母親を守ろうと覆いかぶさる父親が、和室の隅で体を震わせる。
黒い化物の右肩が一瞬動いた。
直後に桃眞の右頬を疾風が突き抜ける。
脳内信号が危険を認識した数秒後に、遅れてしなるムチの様な音がブゥンと鳴り、同時に天井の照明器具が粉砕され火花を散らして暗転し、リビングテーブルが真っ二つに割れた。
家中を切り裂く音に振り返ると、和室の畳まで一直線に抉れているのが見える。
ワザと外したのか? 遊んでいるのか?
どっちにしろ今の攻撃を体に受けていたら重傷は免れないだろう。
桃眞は唾が出ない喉を鳴らした。
早鐘の如く心音が全身に伝わり、挫けそうな心が脚の自由を奪ってゆく。
気を抜けば解放された緊張感から意識が遠のきそうだが、ギリギリのところで精神力を維持し続ける。
まだ死ぬわけにはいかない、と桃眞は自分を鼓舞した。
――『ヨッキーだよ。妖気を感知したよ! 妖気を感知したよ! 助けが必要かい?』
ズボンのポケットの中から、またも同じ言葉を繰り返し同意を求めてくる。
それを願えばこの状況から救ってくれるのだろうか?
黒い異形の存在とヨッキーの暴走? と言う現実離れした状況のせいで正常な判断など出来るわけもないが、今この瞬間も死と隣り合わせである事は間違い無い。助けてくれるのなら藁にもすがりたい。
「……とにかく、助けてくれるなら助けてくれッ」と桃眞はヨッキーの言葉に同意した。
――『オッケー。怪伐隊に出動依頼を発信したよ。続いてアプリのインストールを開始するよ』
「か、怪伐隊? インストール?」
次から次へと聞き慣れない言葉が飛び出すが、それらを噛み砕いている余裕が無いのは一目瞭然だ。
そのあいだ黒い化け物は動くことも無く、ただ緑の眼が顔を這いずり回り、時折体の何処からか引き笑う掠れ声が発せられる。
殺そうと思えばいつでも殺せるはずだ。 だがそうしないのは、やはり遊んでいるのか? それとも明確な殺意は無く、ただの衝動に突き動かされているだけなのかも知れない。
今のうちに逃げる事が出来たかも知れないが、両親を置いては行けない。そして何よりも体が動かないのだった。
――『インストール完了。対象怪異は”鬼”だ。伸びる鉤爪とムチのような腕、そして胴体から飛び出す触手が特に危険なんだ。怪異レベルは”陸級怪異”だよ』
「怪異レベル? 鬼? 何だよソレ」と、聞き慣れない情報に耳を疑う。
だが、今、この状況に対しては適格な情報なのだろうと桃眞は思うしかなかった。
――『アプリを起動。画面に護符が表示されたよ』
そう言われて画面を見ると、謎の紋様と篆書体の文字が描かれている。
――『怪伐隊到着まで、ある程度の怪異なら、この護符が君を守ってくれるんだ』
その時、父親が桃眞の肩を掴んだ。
「桃眞ッ、逃げるぞッ!!」
「いや、待って。真理がッ……真理がアノ中に」
「今は逃げるほうが先決だッ!!」
真理……。彼女は桃眞の親友だ。
事の始まりは真理がバイト終わりに持って来たガラスの小物入れだった。
オークションサイトの『カルメリ』で購入した"小さなガラスの小物入れ"である。
金の細工が施され、勾玉の形をしたキラキラと光る翡翠の蓋が美しい。
聞けば、驚くほど安いその小物入れを見つけた真理は、迷うことなく購入したそうだ。
だがやはり、その価格には理由があるのだろうか……。
――『全く蓋が開かない』と片手にスッポリと収まる小物入れを桃眞に手渡した途端、ソレは始まったのだ。
力を加える事も無く手の中で亀裂が走り、崩れさる小物入れ。
直後、真理の紺色のスカートの上に黒い粘性の液体が付着している事に気付く。
そして、その液体はミミズのようにうねうねと蠕動し、真理の腕に貼り付くと膨張を始めた。
恐怖から絶叫する真理と、目を疑いながらもソレを引き剥がそうと桃眞が爪を立てる。
父親が持ってきたハサミを突き立てようが傷一つ付かず、為す術なくソレは真理の全身を包み込んだ。
黒い固まりはブルブルと震えながらも膨張し、形を変え……黒い異形の存在=黒い鬼へと変貌したのである。
――そう、つまりこの黒い鬼の中には真理がいるのだ。
和室の縁側へのガラス扉が開いており、既に父親が母親を逃がしている。
桃眞の手首を掴んだ父親が和室の方へ誘導を始めた。その時……。
またも疾風を感じた桃眞の脇を化物の腕がしなり床を抉った。
今度は水平に腕を振ったのが見え、桃眞は「危ないッ!!」と叫び父親の手を引っ張りながら腰を下ろす。
疾風が頭上を駆け、直後にガラス扉が粉砕、襖や壁にも亀裂が走る。
しゃがんでいなければ胴体が寸断されていたかも知れない。
「ぐぅあッ……!?」と父親の苦痛に唸る声が聞こえた。
振り返ると、割れたガラスが父親の肩に突き刺さっている。
グレーのシャツに血が滲んでいるのが見えた。
「親父ッ!?」
「アナタ大丈夫ッ!?」
裏庭から父親の傷に驚き母親が声をあげた。
母親の側で銀色のハスキー犬である『イヌヒコ』が、ワンワンと忙しなく吠えている。
「クソッ……マジかよッ」
鬼はその場から動くこと無くケタケタと肩を震わせていた。
ここからどうすれば良いのか? それよりも怪伐隊とやらはいつになったら助けに来るのだろうか?
そんな事を考えている内に、鬼が和室へとやってきた。
父親は腰を抜かし縁側の手前で粉砕したガラスの上に尻から崩れ落ちる。
桃眞の手首を掴む父親の手に力が入り、震えが伝わってくるのを感じた。
――『さぁ、護符を鬼に向けるんだ』
またも勝手に喋りだしたヨッキー。
言われるがまま桃眞は父親の前に立ち、ヨッキーの言葉を信じスマートフォンの画面を突き出した。
もう破れかぶれ、信じる他ない。
「こんなんでどうなるんだよ? 助かんのかよッ」
そう言ったと同時に、鬼の指先から鋭利な爪が瞬く間に伸びた。
空を裂く鉤爪が桃眞の心臓を貫かんと迫り来る。
するとスマートフォンに表示されていた護符が光りだし、ドーム型の魔法陣が展開され二人を包み込んだ。
鉤爪が魔法陣と衝突し、乾いた破裂音と共に火花が散った。
魔法陣に弾かれた鉤爪が縮み、鬼の指先に収まる。
――『防御結界を展開したよ』
「どうなった?……何が起こった?」と父親が狼狽する。
この絶望的な状況の中、黒い化物の攻撃を防げたと言う事実が、折れかけていた桃眞の心に希望を宿した。
「これなら。なんとか……」
――『ダメージ値を再計算したよ。残りのバッテリー消耗から割り出した結果、鬼の攻撃を防げるのはあと一回だ』
「あと一回って、ふざけんなよ。最後まで守ってくれるんじゃないのかよ」と、桃眞はスマートフォンに向かって怒声を浴びせた。
護符の右下で、正座をしたヨッキーが緑茶をゴクリと飲み……ほっこりとした。
「ほっこりすんなよ……」
またも飛んできた鉤爪が魔法陣に弾かれる。
慌てて画面を見ると護符が消えていた。
バッテリーマークが点滅を繰り返す。
「おい、その怪伐隊っていつ来るんだ?」
――『間もなくだよ』
「間もなくって……待ってられっかよ」と焦る桃眞の額から汗が流れた。
「桃眞ッ」と父親が呼んだ。
振り返ると、父親が差し出したスマートフォンの画面にも護符が表示されていた。
どうやらヨッキーは父親のスマートフォンでも起動していたようだ。
「俺のスマホだ。こっちにも同じモノが……これも使えるだろ」
「あぁ、だけど……。このままじゃ時間の問題だ」
その時、桃眞の胸元から首飾りが出ている事に気付く。
小さな楕円形の鏡の首飾りだ。
鏡の周囲には青銅色の石のフレームが一周しており、不思議な模様が掘られている。
ハッと、桃眞はある事を思い出す。そして、まるで自分に呆れたかのように自嘲する薄笑いを漏らした。
「これがあった事を忘れるなんて。俺ってホント馬鹿だよな」と身に着けていた首飾りをゆっくりと握り締めた。
そして両親の方へ振り返り、"ある決意の眼差し"を送る。
「桃眞……」と母親がその決意を察した。
「俺が母さんと父さんを守る……」
両親からは絶対に首飾りを外すなと幼少期から言いつけられていた。
理由は分からないが、どうやら桃眞には特別な力があるらしく、この首飾りはそれを封印しているとの事。
とは言え、これまでにも興味本位で何度が首飾りを外した事があり、その結果、桃眞自身にどんな影響が出るかも検証済みだ。
だが今回に限っては、今までの力の検証とは違う。
ついに、その力を実践で初めて使う為、桃眞は覚悟を決めて首飾りの革紐を引きちぎった。
途端に押さえ込められていたであろう力が解き放たれ、桃眞を中心に空気の振動が波紋の様に広がる。
拳に力が入り全身の重みが消えてゆく。そして感覚が冴え渡るのを感じた。
ゆっくりと目蓋を開くと鋭くなった目付きで鬼を睨む。
――『ヨッキーだよ。法力を感知したよ! 鬼束 桃眞の身体能力の上昇を確認』
「"法力"って何の事だよ!? この力の事なのか? コイツ、そんな事もわかるのかよ」
桃眞は拳を握り締め、腰を下ろした。
――『拳に法力の収束を確認。対象の鬼に有効打を与えられる可能性がアップ』
――『同時に体表に法力の防御膜を形成。対象の鬼の攻撃に対するダメージ耐性がアップしたよ』
――『イイねッ!!』とヨッキーが両手の人差指を突き出してポーズを取った。
「親父。危ないから母さんのところへ。そして、安全な場所に逃げてくれ」
父親が和室から出たのを確認して、桃眞はもう一度ヨッキーに問いかけた。
「ヨッキーッ!! アイツの情報が分かるなら、何か弱点とかないのか?」
――『対象の鬼に大きなダメージを与える、もしくは気絶させる事ができれば、鬼が宿主者から離脱する可能性があるかもよん』
「あるかもって何だよ」
――『確実じゃないんだ。可能性を算出すると15%だよん』
「でも、今はそれに賭けるしかないだろ。怪伐隊なんて待ってられない」
そう言うと、桃眞は鬼に向かってファイティングポーズを取った。
この力がどこまで通用するのか分からない。
だが、どうせ殺されるなら全てを出し切ってからだ。
全力で抗う。
桃眞の闘争心が臨界点に達した。
「真理ッ……俺が必ず助け出してやるからな」
動体視力と感覚が研ぎ澄まされ、しなる腕が疾風を放つ前に体が動いていた。
体を反転し射程範囲を逸らす。
裂傷痕が縁側から裏庭を駆け抜けブロック塀にまでを抉りとる。
「当たるかよ」
桃眞を貫かんと飛び出した鉤爪を顔を傾け、手の甲でいなす。
和室の壁を鉤爪が貫通した。
「今度はこっちから行くぜッ」
全力で畳を踏みしめ一気に間合いを詰める。
突進時の瞬く間の初速により残像が残った。
空気を裂きながら地面を踏みしめ、限界までしならせた渾身の右ストレートを黒い鬼の顔面にブチ込む。
鈍い音が鳴った……。
衝撃波が家を揺らした……。
鬼の顔が凹み、首が異常に伸びる。
パンチの衝撃で黒い化物の足が床から浮くと、リビングを突き抜けそのままベランダのガラスを突き破り、庭のブロック塀に激突した。
黒い鬼は砂埃をあげながら崩れ去るブロックの中にうもれたのだった。
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