彼岸花

司悠

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1969年それから

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 僕は喫茶「栞」にいた。店内は明るく、バリスト解除で戻って来た女子学生たちの笑い声、サイフォンコーヒーの香り、聴きなれた音楽、それらが重なりあってリアルに輝いていた。でも僕の心はグレイの厚いカーテンのように、不安、恐怖、絶望感、孤独感で覆われていた。
女たちは饒舌であった。ひきかえ、男たちは寡黙であった。
 隣のテーブル席にはドーナツ皿が無造作にあった。食べたあとのカラの皿だ。
「ドーナツの穴しか残っとらん」神尾ならそう呟くだろう。
その横には所作のない満杯のジュースに楔を打ち損ねたようなストローが突っ込まれていた。人は何処へ? 行った? 
「彼は彼岸花摘みに行った」ロングヘアーの美沙ならそう言うだろう。ショートカットの美沙なら、「彼は存在感を残して無機質に消えちゃった! 」そうだろう。
確かに無名の君、そしてそのパラダイムは消えていた。テーブルの椅子は斜に構え、まるで無重力を支えるかのような佇まいであった。

光りに攫われたのかーー 僕は思う。
リアルからバーチャルへ都合よく逃げたんだーー なおも思う。
ならば、僕もバーチャルへ、まるで神尾だーー そう思う。
ぽっぽっぽっとバーチャルって蝋燭の炎なんだーー 僕は妄想する。
眼に映らない糸筋のけむり、僕にも伝染するーー 確かに。
陽炎みたいに感染するーー そうだ。

 僕は忍びの者のように印を結び、透明人間になるまで、消えろ、消えろ、と念じる。消えた、消えたよーー 僕は存在しない。

 その時、馴染みのウエイトレスがやって来た。
「どうしたの」コップに水を注いでくれる。あっ、見えていたんだ。
「ちょっと考え事、有難う」僕は孤立感から出し抜けに大脱走したような気分
になった。隣の席の満杯のジュースはいつのまにか半分になっていた。僕は人
生の断片を拾うように隣の席のもう一人の君を見た。隣に人が在る。不存在か
ら存在へ、ウインドウ越しに大きな光がゆれて色のないゆらめきのように、隣
の君、そしてそのパラダイムが戻ってきた。
「消えた蝋燭Åの煙に蝋燭Bの炎をかざすと蝋燭Åに炎が移る」僕はいつか神尾が言ったーー そんな言葉を思い出していた。
          ☆
 神尾が姿を消し九カ月目になった。そんな時、神尾からハガキが届いた。文面は、〈彼岸花摘みにいく〉ただそれだけだった。消印は昭和四十四年九月二十三日のスタンプだった。秋分の日、厭な予感が走った。
それから、数日して、僕は悪夢を見た。

 夢のなか、「神尾が死んだーー 」僕はサークル仲間から訃報を聞いた。
「信じられない、なんでやねん」正志が言った。
「ふぅ~ん」当然のように僕は呟いた。
 秋分の日、神尾は自ら命を絶ったのだ。鉄道自殺だった。僕はサークル仲間から湿っぽい声を聞いた。僕はその声からリアルな喪失感だけを受け取った。「生きて死に、死んで生きる」神尾は暗示的に言った。美沙が妊娠したとき、「美沙の子に俺ん生ば預けてもよか」彼は言った。美沙が自然流産したとき、「有は無に帰し、無は有へ往く」神尾らしく言った。
 彼は、いつか美沙が言っていた線路脇の彼岸花が有名なK駅、そのプラットホームから電車へ飛び込んだ。彼の笑顔の延長線上に横たわっていたものは、憂い、哀切、哀調、哀愁、それらをすべて内包する彼岸花だったのかもしれない。「彼岸花は死そんもんば見つめとる」彼は言った。「そんうち、彼岸花の先にあっけんもんば見つけに来る」〈神尾よ、そうなのか〉「時のきよったら彼岸花ば摘みにくるちゃ」憧れの君に会いにいくように彼は言った。そんな言葉を残して、神尾は潔く電車へ飛び込んだのだ。

本当に夢? 余りにもリアル、リアル過ぎる。
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