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第一章
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「藤崎、お前部活辞めるのか?」
入梅を目前にした六月のはじめ。日直日誌を書き終え誰もいない教室を出ると、廊下に瀬野がいた。
部活を抜けてきたのか、瀬野は練習着のままだった。丈の短いランニングパンツから伸びる細い足には必要な部分に必要なだけの筋肉がついていて無駄がない。とてもきれいだった。この足なら地区大会は優勝に間違いない。
私は「そうだよ」と答えた。
「選考会どうすんだよ。せっかく出場できるのに、それもやめるのかよ」
「うん」
「なんでだよ。お前、選考会出るの夢じゃなかったのかよ」
「そうだけど」
「あんなに頑張って練習したのに。決まったときだってすげえ喜んでたじゃん」
「そうだけど」
私は瀬野の言葉をさえぎるように言った。
「もう、先生にも言ったから」
瀬野とは多くを話しすぎてしまった。
瀬野に勝ちたくて、私も陸上についてたくさんの勉強をした。そうして得た知識を私たちは見せ合い語り合った。あるときは討論を、あるときは海外選手の魅力を、あるときは一秒の壁を、そしてあるときは自分の夢を。
それから、陸上以外の話も。好きな音楽、好きなテレビ番組、同学年のカップルの進展や、先生の愚痴、前日の夕ご飯。なんでも良かった。瀬野との会話は尽きなかった。
「なんでそんな簡単に辞められるんだよ」
しばらくの沈黙のあとで瀬野が言った。
一年生のころに比べて低くなった声。瀬野の声変わりは一年生の終わりにきた。
「簡単じゃなかったよ」
二年生になってからはぐんと背が伸びた。男の子からだんだんと男の人に変わってゆくさまを、気付けば隣で見ていた。
「もう走れないの」
変わらないのは、真っ直ぐ物を見据える、その目。
「走りたくないんじゃなくて、走れないの」
真っ黒の大きな瞳は、見るものを吸い込んでしまいそうに力強い。その目で見られると、私はいつも体がうまく動かなくなってしまった。襟足がはねていないか気になるし、鼻に汗をかいていないか気になる。目やにはついていないだろうか、給食にたべたフライのカスはどうだろうか、眉毛は、爪の中の垢は、ベストについたシミは、スカートの長さは――。
それが恋だと気付いたとき、私は愕然とした。初めて好きになった男の子は、あまりにも近くに居すぎた。好敵手だったはずなのに、対等であったはずなのに、いつ好きになってしまったのだろう。
気付かなければよかったとさえ思った。もう今までのようには話せない気がした。隣に座って「お疲れ」と声をかけることさえできなくなった気がした。それでも、知ってしまったこの胸の高鳴りを、私は愛おしく思い、大切にしたかった。
「母親が死んだからって、そんなんで陸上辞めるのかよ。お前の気持ちってそんなもんだったのかよ」
「……」
「なんか言えよ」
「……」
「わけわかんねえ」
何も言えなかった。母親の死を「そんなん」と言われても、それでも言葉が出なかった。これ以上話を伸ばしたくなかったし、きっと瀬野にはわからないだろうと思った。もう瀬野にはなにも通じない。走ることから逃げてしまった私の言葉を、きっと瀬野はわかってくれない。それが一番怖かった。
瀬野は苛立った様子でそれでもじっと私を見ている。その視線が言葉以上に突き刺さって痛い。私は抱え込むようにして持った日誌の結び紐をいじった。灰色に塗られた廊下は、窓から差し込む夕日で黄桃色に染まっている。その上にできた私の影は、その心を映し出すように頼りなさげに瀬野の足元へ伸びる。
「俺、お前と出たかったよ、選考会」
瀬野はそう言うと私の言葉を待たずに去って行った。ひとりぼっちになった影がいっそう寂しそうに黒々と伸びる中、私はどこかほっとしていた。男の人の苛立った声は怖い。父を思い出す。
それでも瀬野の言った「お前と出たかったよ」という言葉の真意を、私は思わずにはいられなかった。その言葉の中には、もしかしたら私に向けられた特別な想いがあるんじゃないか。私が瀬野に対して抱いている優しくしびれるような感情を、瀬野も持っていたんじゃないか。
けれど、たとえそうだとしても、それはこれからの私たちの関係を密接にするための言葉ではない。
瀬野は今、私に「さようなら」と言ったのだ。
確実に。
学校の門を出る直前、グラウンドを走る瀬野の姿を見えた。きれいなフォームだった。日に焼けた肌に白いトレーニングシャツがまぶしい。
できるなら私も一緒に走りたかった。選考会だけじゃなくて、この先も。
でも、もうそれは叶わない。
私は瀬野の走る姿を見つめながら、心の中で「さようなら」と言った。
第一章 了
入梅を目前にした六月のはじめ。日直日誌を書き終え誰もいない教室を出ると、廊下に瀬野がいた。
部活を抜けてきたのか、瀬野は練習着のままだった。丈の短いランニングパンツから伸びる細い足には必要な部分に必要なだけの筋肉がついていて無駄がない。とてもきれいだった。この足なら地区大会は優勝に間違いない。
私は「そうだよ」と答えた。
「選考会どうすんだよ。せっかく出場できるのに、それもやめるのかよ」
「うん」
「なんでだよ。お前、選考会出るの夢じゃなかったのかよ」
「そうだけど」
「あんなに頑張って練習したのに。決まったときだってすげえ喜んでたじゃん」
「そうだけど」
私は瀬野の言葉をさえぎるように言った。
「もう、先生にも言ったから」
瀬野とは多くを話しすぎてしまった。
瀬野に勝ちたくて、私も陸上についてたくさんの勉強をした。そうして得た知識を私たちは見せ合い語り合った。あるときは討論を、あるときは海外選手の魅力を、あるときは一秒の壁を、そしてあるときは自分の夢を。
それから、陸上以外の話も。好きな音楽、好きなテレビ番組、同学年のカップルの進展や、先生の愚痴、前日の夕ご飯。なんでも良かった。瀬野との会話は尽きなかった。
「なんでそんな簡単に辞められるんだよ」
しばらくの沈黙のあとで瀬野が言った。
一年生のころに比べて低くなった声。瀬野の声変わりは一年生の終わりにきた。
「簡単じゃなかったよ」
二年生になってからはぐんと背が伸びた。男の子からだんだんと男の人に変わってゆくさまを、気付けば隣で見ていた。
「もう走れないの」
変わらないのは、真っ直ぐ物を見据える、その目。
「走りたくないんじゃなくて、走れないの」
真っ黒の大きな瞳は、見るものを吸い込んでしまいそうに力強い。その目で見られると、私はいつも体がうまく動かなくなってしまった。襟足がはねていないか気になるし、鼻に汗をかいていないか気になる。目やにはついていないだろうか、給食にたべたフライのカスはどうだろうか、眉毛は、爪の中の垢は、ベストについたシミは、スカートの長さは――。
それが恋だと気付いたとき、私は愕然とした。初めて好きになった男の子は、あまりにも近くに居すぎた。好敵手だったはずなのに、対等であったはずなのに、いつ好きになってしまったのだろう。
気付かなければよかったとさえ思った。もう今までのようには話せない気がした。隣に座って「お疲れ」と声をかけることさえできなくなった気がした。それでも、知ってしまったこの胸の高鳴りを、私は愛おしく思い、大切にしたかった。
「母親が死んだからって、そんなんで陸上辞めるのかよ。お前の気持ちってそんなもんだったのかよ」
「……」
「なんか言えよ」
「……」
「わけわかんねえ」
何も言えなかった。母親の死を「そんなん」と言われても、それでも言葉が出なかった。これ以上話を伸ばしたくなかったし、きっと瀬野にはわからないだろうと思った。もう瀬野にはなにも通じない。走ることから逃げてしまった私の言葉を、きっと瀬野はわかってくれない。それが一番怖かった。
瀬野は苛立った様子でそれでもじっと私を見ている。その視線が言葉以上に突き刺さって痛い。私は抱え込むようにして持った日誌の結び紐をいじった。灰色に塗られた廊下は、窓から差し込む夕日で黄桃色に染まっている。その上にできた私の影は、その心を映し出すように頼りなさげに瀬野の足元へ伸びる。
「俺、お前と出たかったよ、選考会」
瀬野はそう言うと私の言葉を待たずに去って行った。ひとりぼっちになった影がいっそう寂しそうに黒々と伸びる中、私はどこかほっとしていた。男の人の苛立った声は怖い。父を思い出す。
それでも瀬野の言った「お前と出たかったよ」という言葉の真意を、私は思わずにはいられなかった。その言葉の中には、もしかしたら私に向けられた特別な想いがあるんじゃないか。私が瀬野に対して抱いている優しくしびれるような感情を、瀬野も持っていたんじゃないか。
けれど、たとえそうだとしても、それはこれからの私たちの関係を密接にするための言葉ではない。
瀬野は今、私に「さようなら」と言ったのだ。
確実に。
学校の門を出る直前、グラウンドを走る瀬野の姿を見えた。きれいなフォームだった。日に焼けた肌に白いトレーニングシャツがまぶしい。
できるなら私も一緒に走りたかった。選考会だけじゃなくて、この先も。
でも、もうそれは叶わない。
私は瀬野の走る姿を見つめながら、心の中で「さようなら」と言った。
第一章 了
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