贅沢な水

電柱工房

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プロローグ

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 男はボート置き場の舫《もやい》を解くと、浮浪者の乗ったボートを強く池の中心へ押し出した。その上で男はボート置き場を回り込んで、広く池を見渡せる所に出ると、手放したボートが池の中央に向かってゆっくりと進んで行くのを確かめた。最初に考えた方向とは少し違っていたが、それでも良いかと見守った。
 柵に置いた手が震えて、両足を踏ん張った。随分小さい頃から想像していた事だったが、ついに実行した時には、あまりにも呆気ないほど簡単なものだと驚いた。
 男は腕時計で時間を確認した。この時計は男にとって必ず着けているお守りのような物だった。
 夜中だというのに公園には人出が多く、デート中のアベックだけでは無く、黙々とマラソンをしている人も一人や二人ではない。それでも暗い所で佇んでいる自分を気にする人はいないだろうと思った。
 男は上着の内ポケットから携帯を出すと、電話をかけた。ちょうど水面に漂うボートの中で、電子音が鳴っているだろうが、男の所までは届かなかった。言う言葉はもう何年も前から決めていた。
 ボートの浮浪者がやっと気が付き携帯を取ったようだ。呻き声と共に答える声がした。頭は混濁して理解できないようだった。
 男はそれはそれでいいさと思った。男の叩きつけるような言葉に、やっと反応したようだ。男はゆっくりと言葉を切って、低い声で話した。
 浮浪者は叫び声を上げた。獣のような叫び声を上げると、ボートの中で立ち上がろうとした。でもバランスが取れないようだった。ボートが大きく揺れるのが見えた。そして浮浪者は池に落ちた。
 目を凝らさないと気がつかないような水しぶきが上がった。それでも向こう岸の方で誰かが気がついたようだった。叫び声が上がるのが聞こえた。
 男はしばらく湖面を見つめていたが、あとは無我夢中でその場所を離れた。本当は冷静にその場に残って、その後の騒ぎを確認すべきだと思ったが、男にはとてもそんな勇気はなかった。明日また出直して様子を見ようと男は考えた。
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